第2話

 俺は急いで自分の部屋の扉を開け、飛び込むように中へと避難する。


「はぁ……やっと安全区域だ」


 扉にもたれ、力なく座り込む。


 床に敷いてあった白と灰色を貴重きちょうとするモフモフの絨毯じゅうたんが、俺を柔らかくお出迎えしている気がした。


かえでが中学三年生の時は、こんなんじゃなかったのに……)


 俺は回顧するように、脳内で昔の楓を思い出す。


 まず、これだけは言える……俺は「嫌われていた」。


 家ですれ違っただけで睨まれながら舌打ちされ、「外では私に話しかけないで」とまで拒絶された。


 もちろん、会話すら月に十回程度だった。


 それも会話という会話では無く、ただの罵詈雑言ばりぞうごんだったが……。


 ──それが今では「お兄ちゃん大好き!」である。


(一体どうしちまったんだよ、楓は……!)


 だが俺には一つ、について、心当たりがあった。


 それは──


「ねえお兄ちゃんってば! ここ開けて!」


「……?!」


 扉の向こう側から楓の声が聞こえたかと思うと、背中にドンドンと振動を感じた。


「……悪いな楓よ、ここを通す訳には行かなくてだな」


「今、玄関に蓮村はすむらさん来てるよ──」


「本当か?!」


 俺はその人物の名前を聞いた瞬間に扉を開ける。

 するとそこには、満面の笑みを浮かべながら直立している楓がいた。


(……考えてみると、俺と「蓮村穂紗季はすむらほさき」には何の接点も無かったな……はは)


 楓の罠だと悟った俺は、内心で自嘲した。


「うっそでーす! お兄ちゃん会いたかった!」


 楓はそう言って、俺の胸に飛び込んでき、背中に両腕を回してくる。


 俺の身体に柔らかい感触(胸はそこまで無い)が伝わり、女子特有の甘い香りが鼻腔びこうをくすぐる。


「……楓よ、離れてくれないか?」


「離して欲しかったら、私にキスして!」


「妹にキスする兄なんていてたまるかっ!」


 一体何を言い出すかと思いきや「キスして!」と来た。これは相当重症だ、病院に連れて行かなければ!


 すると、楓が頬を膨らませながら、更に強く抱き着いてくる。


(……いや、待てよ? この方法なら!)


 ふと脳裏にとある妙案が浮かび、俺は不敵に唇の端を上げる。


「……キスしたら、離れてくれるんだよな?」


「うん! 約束する!」


 今、「約束する」と言ったな。これで言質は取った……ならば作戦を実行するとしよう。


「分かった。なら一階に降りてするか」


「? 何で一階なの?」


 楓が首を傾げてくる。


 それもそうだろう……何故なら、


「まあいいじゃん。ほら、抱き着くなら俺の背中に回れ。階段は危険だからな」


 俺は淡々たんたんとした調子で言い、楓に作戦がバレないよう話を逸らす。楓は抱き着いたまま「早く行こ!」と催促してくる。


 俺はそのまま部屋を出、ゆっくりとした足取りで階段を降り、リビングへと辿たどり着く。


 そして、キッチンへと向かった。


「え? どうしてキッチン?」


「まあ待っとけって」


 俺は趣旨を話す訳でも無く、棚にしまってあったコップを取り出し、冷蔵庫を開ける。


 冷気と共に、中には様々な食材、調味料、そして……お茶が入ったペットボトルがあった。


 俺は迷うこと無くペットボトルを手に取り、冷蔵庫の扉を閉める。


「喉乾いたの? じゃあ私が飲ませて上げる!」


「お茶ぐらい自分で飲めるから……」


 ペットボトルのふたを回し取ってから、コップにお茶を注ぐ。

 そしてお茶を口に持っていき、半分くらい喉に注ぎ込んだ後、一旦口から離す。


「──っはぁー、生き返る! ほら楓も飲んでみ?」


 顔を後方に向け、楓にまだお茶が入ったコップを差し出す。


「え? う、うん!」


 楓は何の躊躇ためらいも無くコップを受け取り、そのまま


 ……やってることはただの変態だが、今の俺からしては好都合だ。


 そして俺は口を開き、大声を発する。


「かかったな!」


「……?」


 楓は口からコップを離し、キョトンとした表情でこちらを見つめる。ここらでちょっと、ネタバラシでもするか。


「今、俺と楓はキスをした! そう、だ!」


「あ……」


 楓が驚愕きょうがくに顔を染め、わなわなとコップを震わす。どうやら想定外の出来事に、頭が混乱しているようだ。


「楓は『キスしよ!』とは言ったが、


「う……っ、ほ、ほんとだ……」


 そこで楓は全てを悟ったような顔をし、俺の身体から手を離す。これは誰が見てもまごう事無き完全勝利だ。


「楓よ、次からはキスの正式名称で言うんだな」


「うぅー……、あ、そうだ!」


 楓が唸った後、何かを閃いたかのようにポンと手を打つ。俺はそんな意味不明な行動に首を傾げていると──


「うおっ?!」


 またも俺の身体に抱き着いてくる楓に驚きの声が漏れてしまう。そんな俺とは反対に、楓は少し顔を上げ、こちらに視線を送る。


「えへへ、次は私と、ライトキスしないと離さないから!」


「……はぁ」


 俺は深くため息を吐く。どうやら、先程言った約束を忘れてしまったらしい……記憶力大丈夫だろうか。


「楓……さっき俺は『キスしたら離してくれるか?』って聞いたら、『約束する』って言ったじゃん。反故するのか?」


「え? えーと……そんなことイッタッケナー……」


 少し視線を逸らしながら片言で言う楓に、俺はさらなる追撃を下す。


「あーあ……俺は楓を信じてたのに、裏切られた気分だ。これが恋愛シミュレーションゲームなら、結婚エンドは無くなったも当然だ」


「……! は、離れるから嫌いにならないでよお兄ちゃん!」


 そう言って、楓は俺から飛び退く。


 言っても、この現実には結婚エンドなんて物は最初から用意されていないんだけどな。

 本当に信じているなら、どれだけ純粋なんだよって話。


「うぅ……きょ、今日の所はこれぐらいにしてあげる。明日は絶対に逃さないから!」


 そう言ってリビングから走り去っていく楓を見送りながら、安堵あんどの息を吐いた。


 4月に入り、楓も高校生デビューを果たしたと同時に性格が180度変わってしまった。そして何より、急な進路変更によって俺の高校に入学することに決定した。


 今の所は何もされていないが、いつあいつが、正直不安だ。



 ──あぁ……明日はどんなことをされるのか。考えるだけで、背筋がブルッとする。




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