第49話 六月三十日②

 読書を終えて窓の外に目を向けるとそこには沈みかけの太陽がちょうど分度器の形に見えた。これまで読書と言う行為から遠い場所に身を置いていたためか、常人の読解スピードとは比べ物にならないくらい遅々とした歩みであったし、読み終わった感想も「よくわからない部分もあった」という読書の悪いお手本のようになってしまった気がしてならない。でも、ひとつ得たものを挙げるとすれば、それはグレゴール・ザムザのように突然己に不条理が襲ってきた人間はあそこまでさも自分の事でないかのように自分を客観視していく人がいて、そのある種現実逃避的な反応に「自分であっても同様の反応をしたかもしれない」と共感できた自分自身だと思う。

読書の有効な点は「他人の思考や研究結果を容易に手に入れることができる」と聞いた。とはいえ、今回は夜田先生から処方箋(冷静に考えると意味不明だが)として渡された故読み切れたものの、今後自発的に読書を習慣づけることができる自信は皆無だった。

 夜になっていつの間にか出かけていた姉と従兄の帰宅を伝えるドアの音が聞こえ、意味もないのに本を自分のカバンへ押し込んだ。同時に帰ってきたので一緒に行動していたのかとも思ったが、その予想は外れていて、姉貴は定期診察に、ちー兄ちゃんは東京の知り合いに会いに行っていたらしかった。ちょうど時計の針は八時に差し掛かろうというところで、ここにいる誰一人が夕飯のことが頭から抜け落ちていたようでピザの宅配を頼んだ。

「姉貴よ、診察結果どうだった?」

みんなでピザを食べながら聞いてみる。

「おうへー、ぢゅうちょうだしいげどもごもごもごもご」

「ごめん、飲み込み終わってからでいいや」

「よぐー、おいももおっえ」

「いや、ちーにいちゃんも?大人二人してなにしてんだよ」

そういって麦茶の入った薬缶を渡す。

「よくわかったね、もぐもぐ言語。奥さんは分かってくれないのに」

「姉貴もこんな風だからさ、もう慣れっこよ。あ、でも今のは久しぶりだったからか解読できなかったけど」

「ちょっとー寄が分からなくて誰がわかるのよ」

「そこは昇吾さんに分かってもらえばいいだろ?」

「あの人は忙しいのよ、『養う人間が一人増えるんだから、今がかき入れ時なんだ』って言ってたし」

「そんなに帰ってこないの、旦那さん?」

「うーんと、そうねー、週に二、三回帰ってくるかしら。まあ、大体寝に帰って来てるだけなんだけど」

自分の義理の兄の現状を聞いて、「よくそれで夫婦関係が成り立っているな」と若干幻滅しないこともないが、臨時収入をくれる人にそんなことを言ってはなるまい。しかし、

「よくそれで夫婦関係が成り立っているね!?」

忌憚のない意見が言える人材が今日この空間にはいた。僕にある昇吾さんとの関係も忖度もこの人にはない。

「そうかしら?いつも通りだと思うけど」

「いやー、変だと思うけどなー。僕なんか一日一回は会わないと心配になっちゃうけどなー」

ここでちー兄ちゃんがボケたのを僕は気づいていたけれど、話を逸らしてしまって浅飛家の現実を聞き漏らすことの方が損失だと判断したため敢えて右から左へ受け流した。

「でも付き合う前からこんな感じだったけどね~、デートに誘うのはいつも私からだったし、食事のお会計は『申し訳ない』って言いながら払ってくれてはいたけど、突然の電話によって途中で帰ることもしょっちゅうだったもの」

聞くとますます姉夫妻の関係性に謎が渦巻いていく。え、なんでそんな人と結婚したんだ?

「え、なんでそんな人と結婚したの?」

自分が思ったこととまるっきり一緒ではあるものの、もう少し言葉は選んでほしかった。本当にこの人は大学教授の卵なのだろうか。

そんな投げかけに対して怒る訳でもなく、頬を赤らめながら

「そ、そりゃあ、好きになっちゃったんだから仕方ないじゃない。理由は愛よ、それ以上でもそれ以下でもないわ。キャッ、言っちゃった」

姉の女の部分はやはりいつ見ても、実の弟にとっては醜いものだった。最後に小声で言った「キャッ、言っちゃった」がなお一層乙女を感じさせてきてきつい。女友達と話しててくれ。

そんな感想を抱いて姉に対し憐れみを持った目で見つめる僕とは対照的に、ドイツで結婚生活を送ってきた人はというと黙ったままだった。やはり愛に全ての説明責任を任すというのは非論理的で精神について学んできた人間としては業腹に違いない。そして口を開き、

「それなー!やっぱり愛って偉大だよね!この世にあるどんな思想も愛に比べれば陳腐だし、そんな愛を言語化しようなんて言語道断だよね、そんなの愛そのものへの冒涜だよ」

「イタリア人の思考回路か!」

思わず突っ込まずにはいられない身内の超理論に困惑以外の何も感じられていない。

続けて「愛は国なんて関係ないわ」だとか、「そうそう、それに僕が行ってたのはドイツだしね」と到底素面とは思えない言動の数々が飛び出した。いや、奥さん日本人じゃん。

笑いながら話し続ける中で

「お腹痛いお腹痛い」

と腹を抱えている妊婦は

「あ、今滅茶苦茶お腹蹴ってる!もしかしてこの子、お笑いの才能あるかも」

と生まれる前から親バカを発揮していた。

そんな光景を見て僕は、こんな面白おかしい家族に甥っ子を何が何でも合わしてあげたいと切に思った。

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