第47話 六月三十日
目が覚めた。夢は見なかったようだ。自宅のソファーと違って、元々ソファーベットが備え付けられていたため、幾分か快適だった。
幸い、昨日から気付いていた事実ではあるが本日は日曜日なわけで、急に息子が家に帰らなくとも、学校にも行かずともいいという訳だった。枕元にあったスマホにはいつものようにいくつかメッセージが届いていて、昨日の夜の段階から母親から『どこにいるの?』という心配と言えば心配の言葉とも取れるが、そうだとすれば切迫感が物足りなく気の抜けように思える。
とはいえ少しばかり、申し訳なさが胃酸のように体の中心の方から上がってきて、姉の家のリビングを背景にして今できる最高の笑顔と共に撮影し送った。
そんな連絡作業の傍ら、起きた時から聞こえてきていた台所の環境音が気になってた。行ってみるとそこには明らかに女性用でフリルのついた真っピンクのエプロンを点けた従兄の姿があった。最後の食事から大分時間がたっていたことが幸いにして、暗黒物体を放出することは避けられた。
何という破壊力だ。悪魔的に似合わない。
邪悪さなら悪魔を超えるかもしれない。
「おう、起きたか寄。待ってな、今朝飯作ってるから」
そう言っているちー兄ちゃんの手つきは一般男性に比べればかなり手馴れていて感心した。融通無碍と言う言葉はこの手つきを表現するために生まれたのだろう。
「お、おはよう。ところで、なんでおそらく姉貴のであろうエプロンをつけているのかは触れていい話題かな?」
恐る恐る聞く僕の表情をとらえてから、その目線を自身の体に映し変え、再びこっちを向いて
「いや、俺の趣味ではないよ!?ただ、泊めてもらった身であるし、朝ご飯でも振る舞おうと思ったからまひるちゃんが貸してくれたのが、旦那さん用のじゃなくてまひるちゃんのだっただけだよ」
と弁明する。僕はまだ疑いを拭い去れていないので未だ軽蔑の視線で答える。
「いやね、僕だって旦那さん用の男性が使うほうを貸してくれと、借りる側でありながら要求はしたさ。でも、まひるちゃん『昇吾さんの物に他の人の要素が入ってほしくない』って聞かなくて。とんだのろけ夫婦だよ全く。うちの奥さんには見習って欲しいけどね」
突然の新情報に驚く。
「え、うちの奥さん?結婚、してたの?」
「あれ言ってなかったっけ?そうだよ、もう既婚者」と言いながら、左手の薬指で光るリングを見せた。
「え、いつ?どこで?何歳の人と?何人?可愛い?」
「そんなに矢継ぎ早に質問されても困っちゃうな~。えっと、二年前に、ドイツで同い年の可愛い人と言うよりはカッコいい人と結婚したかな。これで全部の疑問に回答できたかな?」
「いや、何人かは聞けてない。え、言い洩らしたってことは異星人だから言いにくいってこと!?」
「いや、『ベン10』に出てくるおじいちゃんみたいな設定じゃないよ。普通に日本人だよ」
「え、ドイツで結婚したんだよね?それに、何その例え、ベンテン?って何。神様の事?」
「え、あのカートゥーンネットワークの人気作だった十歳の男の子、ベン・テニスンが宇宙から落ちてきた腕時計を使って宇宙生命体に変身し、敵と戦う激熱アニメをご存じない?」
これまで一度も聞いたことのない早口でまくしたてる姿に圧倒される。
「知らないし、何ならジェネレーションギャップでもなく、ちー兄ちゃんの同い年の人でも伝わる人限られてるよ多分」
「え~、そうか?奥さんとはこの話は語り合えるんだけどな・・・・・・」
どんな女性だよ。余計気になった。
そうこう言っている間にもしっかりと作業をしている手を動かしていたことで、おいしそうな目玉焼きとソーセージ(ドイツ土産らしい)を焼き上げ、そのままパンにはさんだ食欲をそそる料理が出てきた。僕はご飯に乗せたが。
リビングのテーブルに座り食べる。いつの間にか姉も匂いにつられてか、ほとんど気配をさせないままテーブル(どんな意図があるかは全く不明なのだが姉の家にあるテーブルは三角形でそれぞれ一辺に一人ずつ座る)にいた。
「なあ、知ってた?ちーにいちゃん、結婚してるんだって」
「いやあ、それは分かったわよ。既婚者は既婚者と惹かれ合うのよ」
「スタンド使いみたいに言うなよ。それに、既婚者同士が惹かれ合うのは問題があるだろ」
「まあまあ、大体の質問は真剣に回答するからさ」
「で、どんな馴れ初めなのよ、私も気になる」
「いや、そんな大したことはないよ。ただ同じ大学に通っていた同じ国籍の人っていう接点から仲良くなって、そのまま結婚したっていうだけだよ」
「なんていう名前の人なの?」
「照間かふかっていうんだ。ちなみに、彼女はずいぶん自分の名前を気に入っていたから彼女が佐倉じゃなくて僕が照間になったんだ。だから今は照間千景だね」
「今回は一緒に来なかったの?」
「元々は来る予定だったんだけど、出発当日体調を崩しちゃって。僕も看病のために延期しよう言ってはいたんだけど、キャンセル料が勿体ないから行ってこいってどやされちゃて。そんでもって今に至るって感じだね」
「そうだったんだ」
「今度奥さんも連れて来てよ、うちの旦那さまも紹介したいし」
「はは、それはいいね、惹かれ合っちゃおう」
こうした日常の温かい会話の一ページの中でも、元のちー兄ちゃんは、関西弁で多弁で無駄な雑学の多いちいにいちゃんはもう居ないということが酷く辛く感じられた。僕のイメージの中の彼は、結婚なんてしないはずと思っていても、現実は目の前に存在しているもので、イメージや妄想はまがい物に過ぎないのだろう。
脱皮した自分になってから完全な休日と言うのは今日が初めてで、これまでは友達と集まって出かけたりと言うのが定番のスタイルだったが、全くもって何をしていいかわからない。ちー兄ちゃんの観光案内をするべきかとも頭をよぎったが、当の本人は昨日の長時間の活動と時差ボケのダブルパンチでダウンしていた。テンカウントはとうに過ぎているし、逆になぜ朝食だけは作ってくれたのか不思議で仕方なかったが、ホスピタリティと理解することにした。ホストではなくゲストではあるが。
現代人が徒然を感じた時にやる行動を模倣して、スマホを覗く。メッセージは朝確認した
時から少し増えていて、一つずつ確認する。夜田先生からは
『言いそびれていたんだけど、僕は今後勤務する病院が変わって、その引っ越し作業とか何とかで忙しいから君の相談を直接会って聞くことはかなり難しいと思う。でも安心してくれ。ここではいくらでも相談を受け付けているし、もしよっぽどの緊急の用があるなら電話位かけてきてくれて構わないから。そんな感じでよろしく』
と、重要なことが文章だからかサラっと伝達されていた。とはいえ、夜田先生の仕事であって僕がどうこう言ったところで変わるような問題ではない。どれだけ僕が特殊な事例と言えども、先生に診てもらった患者と言う立場の上ではなんら特別でないのだ。それにこうして連絡を取り合えている時点でもう贔屓してくれている、はずだ。
『了解しました。お仕事頑張ってください』と返事を送っておいた。
他のメッセージでいけば、かの女性は今日、いつもとは様子が違っていた。前日まで好きなランチパックの味について(僕自身の返信ペースのせいで)のろのろと語り合っていたのだが、彼女からの「結局無難でおいしいツナマヨを選んでしまうことが多いわよね」と言う問いかけに返信をしていなかったところ、今日になって彼女側から「ねえ、あまりこういうことは重い女だと思われたくないから言いたくはないのだけれど、いつ返事をくれるのかしら?」とのメッセージが追撃してきていた。かのダンゴムシスタンプが『そうだそうだ』と援軍をしてくる。だましだまし返答をしていない事実からミスディレクションさせていたのだが、流石にこう聞かれてしまったのならば返答はしなければならない。
「そんなことを女性側から聞かせてしまったことにまず謝りたい。ごめんなさい。それと返事は、今すぐには出来ない。というのも、僕にはまだあの夢を夢のままで終わらせて甥っ子を迎えるという使命が残っているんだ。だから、その日まで返事を待っていてほしい」
かなり真面目に返答した自分に鳥肌が立ち、ぞわぞわ身震いした。柄じゃないことをしたことを一番理解しているのは自分自身だった。
ある程度、メッセージを返信した所でまた予定のない時間が襲ってきて、なにか空白を埋められるものを持ってきていたバックの中を探した。見つかったのは読みかけの『変身』だった。これを読み切ることをこの時間に充てよう。そう思い、読書を再開した。
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