第6話

ただいま、と呟いて静かにリビングのドアを開ける。キッチンには母の後姿が見えて、本棚の前で裕翔は毛布の下で横になっていた。どうやら寝ているようだ。


「おかえり。」

「・・・ただいま。」

「ご飯、もうすぐできるから。」


何度も嗅いだコロッケのいい匂いと、エプロンを付けた母の姿。母の前で泣きたくなんてないのに、どうしようも出来ないものが体の奥深くから込み上げてくる。母の作るコロッケは私の大好物だ。


そうだ、私はちゃんと気づいていた。


オムライスを作ってくれる時、私が苦手な玉ねぎは絶対にちっちゃく刻まれていること。お母さんは甲殻アレルギーなのに、私と裕翔が好きだから週に一回は食卓にエビフライが並ぶこと。仕事が忙しくても、裕翔が暴れても、どれだけ疲れていても、毎朝机の上にお弁当が用意してあること。知っていた、わたしは知っていた。


涙が溢れてきた。そうだ、あの時、私は悔しかったのだ。私はお母さんのお弁当が好きだった。冷凍食品だらけでもそんなこと関係なかった。眠たい目を擦りながら向かった台所で、エプロンをつけたお母さんがおかずを広げてお弁当を詰めている、いつもはしない匂いがして、なんだかドキドキして、風呂敷で包んでくれたあの箱が宝物だった。


急に泣き出した私をお母さんは驚いた顔で見つめて、火を止めてそっとソファに座らせてくれた。背中に手の体温を感じて気づけば口が動き出していた。遠足の時の話、そこから人前でご飯が食べられなくなった話。今まで言えなかった言葉や感情が溢れてきて、話し終えるころには喉がカラカラだった。


ごめんね、と謝るお母さんの目は真っ赤で、泣いてる姿を見るのは初めてだった。


「たくさん我慢させてごめんね。苦しかったよね、寂しかったよね。お母さん、雪奈の優しさに甘えちゃってた。」


私を抱きしめて、優しく背中を撫でてくれる。いつのまに起きていたんだろう。気づけば頭の上にも小さな温かさを感じて、振り返れば裕翔が私の頭を撫でてくれていた。


「姉ちゃんどうしたの?どっか痛いの?」

「ううん、違うの。」

「誰かにいじめられた?ぼく、そいつに怒ってあげるよ。」

「っ・・・裕翔、ごめんね・・・っ・・・。」


ポカンとした顔のまま、裕翔は私の頭を撫で続けてくれた。姉ちゃんはいい子、なんて繰り返して何度も私の頭をさする。それは私がいつも癇癪をおこした裕翔に掛ける言葉だった。

人の体温と、ご飯のいい匂いと、今ここでしか感じられない幸せを強く感じて、私は菜箸を握っている高瀬さんの優しい笑顔を思い出す。あの部屋のキッチンで、おにぎりを握る高瀬さんの横で、見たことも無いはずの優しいエプロン姿の女性が微笑んでいる気がした。

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シンプル 夏目 @natsu_haru

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