九之六 夜半の出港
「食べ過ぎると、腹が下るぞ」
「なに、腹が減っては戦はできぬと言うのであろう、
声を掛けてやると、口を動かしながら切って返してくる。世話ない奴だ。
この頃には陸風もぼやけ、風は右からに変わった。左の
「これなら日暮れを待たずに着けそうだ」
源内が呟いた。
「白波もさほど立ってはおらん。それに潮目がはっきり見えておるから、進む道もわかりやすい」
満足気に言うと、握り飯に味噌玉をなすって口に放り込んだ。アサルの食い気に堪え切れなくなったらしい。
「
「そうか」
「天津殿の導きであろう。よくよく味付けなど教えておるようだし」
「異国女にしては、扶桑の飯の覚えが早い。それは確かだ」
源内は俺の目を覗き込んだ。
「そういえば、繪琉波蘭の飯や服など聞いた。天津殿、あれはやはり
「ああ、そのような話をなにかの拍子に聞いた気がする」
星辰櫓のアサルに聞こえないよう、小声で話す。
「故国の事を細かく訊くと、あいつは嫌がるのだ。源内には話すのか」
「なに夜伽の時、猫の世話を餌にして訊き出すのよ」
鷲鼻が笑顔の形に歪む。
それではどちらが奴隷だかわからんな――。そう思うと笑いそうになったが、堪えて何気ない顔を装う。
「大事の事を訊き出したら、俺にも教えてくれ。
「任せておけ、天津殿」
「アサル、潮や風で気になるところはあるか」
大声で呼ぶと、わからんが
●
夕の七つになろうという頃合いに、小島が右の前に霞むように見えてきた。初めはほとんどわからなかったが、やがて胡麻粒のような陸に感じられてきた。どうやら島のようだ。あれが竹島とすると、風のせいで思っていたより東に流されていた事になる。
「源内、あれが竹島と思うか」
源内は首を振った。
「わからん。天津殿も知っての通り、竹島なる小島など、常の波路では使わんでの。ただいずれにしろ、屋久に渡る途上、どこかの島陰で休めさえすればいいのだ。あの島で構わん。寄って民に尋ねてみよう」
「もっともだ」
帆と舵を使わせ、小島に向かう。着いたのはそれから半刻も経った頃合いだ。夏なので日が長く、まだ十分明るい。
すでに一の帆は畳ませ、先帆だけでゆっくり流している。船人幾人かで集まった。
「小さな山が三つ見える。地図と合うので、おそらく竹島だろう」
源内が船人に地図を見せた。
「瀬戸内のように船多き海の小島ならともかく、かような外れの海では、木花が寄れるような、まともな
「あの崎の右に入江がある。家もあるようだから、近寄り叫んでみよう」
源内と大綿が軽く決めて、皆散った。疲れたので早く錨を下ろし、寛ぎたい。アサルには、もう
近づくと、浜辺で小舟を繕っていた
礼を言って錨を下ろし、穏やかな入江で飯にした。それが終わると、念のため夜通しの見張り番を津見彦と写楽に命じた。替わり番で舷側につかせる。このような小島で、しかも財宝を積んでいるなど知りもしない民相手に不要とは思うが、これも試し。船頭としての務めだ。
あくる朝。竹島を出ると、穏やかな海を硫黄島に向かった。わずか三里余りだから、すぐだ。硫黄島の北に着き、南の永良部崎まで回ったところで夜を過ごした。そこから口永良部までは十里。沖乗りになるが、迷ったら東に進めばいい。種子島が長く横たわっているからだ。大海原で途方に暮れる厄介はないので、嵐にだけ気を配っておけばいいのだ。
こうして木花は口永良部へ進み、そこから無事屋久に入った。なにしろ三里しか離れていないし屋久は大きいので見えている。なんの苦労もない。屋久は人が北に固まっており西には小さな村しかないので、仕方なく北まで回って港に入った。小さいといえど、中継ぎとして入り用の役はこなせる港だ。水と菜などを入れ、ひとりを残して船人を一晩街に下ろす。珍しく夜儀が残りたがった。どうやらこの島には因縁があり物騒らしい。
あくる日。屋久をぐるっと回り、南西の
波路そのものは、難しくない。ただ南西に進めばいいからだ。船磁石と星を頼りに進み始める。途上、昼寝から目覚めて猫が消えたとアサルが大騒ぎしたが、寝床の
無事口之島に入り夜を過ごした。そこから悪石島まで三つ島を伝ったが、先に島が見えているので早く進み、一日で着いた。悪石島は断崖が多いが多少はなだらかなところがあり、そこに入った。船人を集めて、この先を談じた。
「ここから先が厳しい。嵐を恐れ、いつもとは異なる波路を辿っているだけに」
大綿が告げると、皆難しい顔つきとなる。
「子宝島まで十里の沖乗り、続いて宝島まで三里。どちらもこれまでにないほど度外れた小島だ。よほど近づかなくては見つけられん。陽が落ちれば、まず見えないだろう。また夜明け前から船出することにする。それでも着けない恐れが多い。五分と五分だ」
「もし見つけられなかったら、どうするのですか、大綿様」
不安げに、津見彦が尋ねた。
「そのときはもう、突き進むしかないだろう」
大綿が告げると、重い空気が一同に降りた。突き進むというのは、奄美まで休みなしに向かうということだ。宝島から奄美まで二十五里もある。
「ここ悪石島から宝島のあたりで進む道を変え、奄美に進むなら四十里。下手をして流されていれば五十里だ。夜通し進んでも三日は掛かる」
源内は淡々と見込みを述べたが、その間、もちろん休みなしだ。海が穏やかであれば、入れ替わりで寝床には入れるだろう。だが夜の海を進むなら、それにしても同時にふたり、よほど調子良くともぎりぎり三人が限り。海が荒れれば、もちろんそれどころではない。屋久島と同じく、奄美も上の空に雲が湧く。ただ三日も進めば進む方角がずれ、雲すら見えないほど外れてしまう恐れがある。
「まずは子宝島、行き過ぎたとしても宝島を必ず見つけることだ。それであれば、危うさは消える」
米粒のような島を俺が地図で指差すと、夜儀が大きく伸びをした。
「奄美は大きい。なに小島を見過ごしても、そう死にはしまい。それにそもそも死出の旅だしな。写楽よ、気を楽にせよ。お前も白装束を着たではないか」
あくびで出た涙を拭っている。写楽が緊張した顔を少しは緩めたから、夜儀の軽口も悪いものではない。
その日はなにもしないこととし、各人昼寝し、また多くを食べて気を養った。アサルに命じ、昼餉には酒をわずかに振舞った。
「うん、うまい酒だ。……飲めるなら、沖乗りもいいですなあ」
沖乗りの恐ろしさを知らない写楽は呑気におかわりをし、大綿にたしなめられた。夜儀は黙って一気に飲み下す。源内は座を立ち、船縁でひとり海を見ながらちびりちびりと味わっている。俺は手の甲に酒を垂らし、アサルにひとくち舐めさせてみた。
「へ、平気に決まっておる、こんなもの。一滴二滴ではないか」
舐める前は虚勢を張っていたが、ふらつきこそしないものの、この量でも顔が赤くなっている。やはり、あまり飲ませないほうが良さそうだ。
「小島探しの道のりだ。嵐さえ来なければいいが……」
潮見の間で、源内がぽつりと呟いた。
「来ると思うか」
「わからん。今のところ、風も潮も気配はない。匂いもしない。ただ油津の船乗りの言は気になる」
「あっという間に天の
「それよ」
「こればかりは祈るしかない」
「その通りよ、天津殿。……奄美まで辿り着けさえすれば、琉球までは沖乗りと言えども大きな島を伝うだけ。難しさはぐっと下がる」
「まあ……琉球での楽しみを思うしかないな」
「それよそれ。あそこなら、交易で仙宝が溜まっておるに違いなし。木花に積んである金銀は波斯の女だけでなく、仙宝集めにも用いていいのだったな」
「もちろんだ。それは神木船の、いつもの務めだからな」
「そうとなったら、さっさと進もう。……こら夜儀よ、ちんたら進むでない。もっとしっかり帆を風に当てんか」
急に大声で怒鳴られて、一の帆の色男は肩をすくめた。
「源内様。頭に血が上ると老けますぞ」
「余計なお世話だ、お前まで」
蜜柑の皮をめぐる写楽とのやり取りを思い出したのか、源内は顔を歪めた。それを見て夜儀が苦笑している。
「わかりました源内様。では舵取りが少し難しくはなりますが、帆を精一杯張ってみましょう。……頼みましたぞ、大綿様」
「お前らの喧嘩のケツを、俺に持ってくるな」
言いながら、大綿も大笑いしている。
「まあ任せろ」
舵棒を握る太い腕に、大綿は力を込めた。
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