一八、マジ卍侍と七緒
「七緒ちゃん!!」
「
寒さも温んできた弥生の夜。店じまいをする書林の前で声をかけられて、七緒は振り向く。
「だって七緒ちゃん、ずっと、忙しそうだったから」
七緒を見つけて走ってきたのか、式士兼作家の優男は息も絶え絶え。家系特有の金色の髪も、乱れてぴょんぴょん跳ねている。
「どうだろう、今から息抜きでも……」
「すみません、見ての通り忙しいので」七緒はにこりと笑う。
「ちょっと待って――!!」
では、と踵を返した女の細腕を捕らえ、兼業作家・
「前に言ったことは撤回する。八字喜多八郎の実力は認める。『赤河原異伝』を読んで、僕は、彼をみくびっていた自分を恥じた。僕の担当が何と言おうと、彼は、『桜都文学賞』に相応しい作家だ。僕も式士の端くれ。潔く負けを認めよう」
真っ直ぐな眼差し。どうやら、言っていることは本心らしかった。「――でも、」
「彼と一緒になれば、君は苦労すると思う」
「はい?」
「八字喜多八郎がどんなにすごい作家であろうと、僕は、君を諦めたくない。必ず、君を幸せにすると誓う。毎日職場で寝泊まりするような暮らしなんてさせない」
轟雷堂は高い着物が汚れるのも厭わず、七緒の手を握ったまま、その場に片膝をついた。
「結婚しよう!!」
「はぁ、」
「……実は、士学院の頃から君に心惹かれていたんだ。ほとんど入れ替わりのようなものだったけれど、士学院の新入生の中で、君は誰よりも美しかった。一度、君の家に話をしにいったのだが断られてしまって……君の御母堂は、まだ早いと。でも、もう十年経った。時は満ちた。八字喜多八郎ではなく、家も仕事も安定した僕と結婚してほしい!!」
七緒が眉を下げた時、肩にのしっと重みがかかった。
「やっぴ〜七緒ちゃ〜ん」
「みッ――!!」金髪の男は目を剥く。
「みぃ〜?」
「あら、マジ卍侍先生」
「なに〜? 絶賛絡まれ中?」七緒の肩に顎を乗せたまま、マジ卍侍は男を見下ろす。
三日月なりに細められた目に射抜かれ、優男は蛇に睨まれた何とやら。声も出せない様子。
「結婚申し込まれちゃった」
「は? 無理。解釈違い。去れ」
「だそうです。すみません、鋭俊先生。離してください」
「酷いっ、何て横暴な……!!」
「七緒ちゃんは私の担当なんで〜」マジ卍侍は後ろから七緒にのしかかる。「部外者は早く帰れ」
「だそうです」
君のことは諦めないから……!! ほとんど泣きそうになりながら、式士兼作家は走り去っていった。ちょっと可哀想だな、と七緒は思った。
――ちなみに、知られると面倒なので言っていなかったが、七緒は鶯春堂裏の音羽の自宅に住まわせてもらっている。ほとんど職場が家なのであった。
「ありがとうございます、人気作家のマジ卍侍先生」
「いいってことよ。あの人も諦めが悪いねぇ〜」
「悪い人ではないんですけどね」
「そんなこと言って〜! 変に優しくしてつけ入る隙を与えるから相手も調子に乗るんでしょ〜!」
「だって仕事だもん」
も〜! だもん、じゃない〜! マジ卍侍は後ろから七緒の肩を揺する。
と、ふと真顔になってか弱い女の顔を覗き込み、
「そんなこと言ってると、つけ入っちゃうぞ」
「マジ卍侍先生なら、いいかも」七緒はふわりと微笑む。「……なんてね」
「はぁ〜マジで悪い子」質が悪いのを食らい、マジ卍侍は思わず切り揃えた前髪をくしゃりとやる。
「――で、どうなったの」
「何がですか?」
「しらばっくれるんじゃない〜! ヤジキタ先生とはどう! なったん! ですか!」
髪を乱しながら、今度は正面から七緒を揺さぶる。
当時十八歳そこそこの七緒が鶯春堂で働き始めた時、将来は八字喜多八郎先生を担当させてほしい、と音羽に直談判したというのは一部では有名な話だ。八字喜多八郎が二十で筆を置いたせいでその話は無期限延期になっていたが、この度ついに復活。二人の関係を知る者はマジ卍侍も含めてそわそわしている。
七緒は花瓶に生けられた一輪の花のような微笑みを浮かべるだけで何も言わない。
「え? 嘘でしょ。何も進展ないの?」
沈黙はすなわち肯定だった。どうしたんだよ八字喜多八郎、とマジ卍侍は先輩に対して疑念を抱く。この可愛らしい存在に、何も思わないとでもいうのか。あれだけ世話になっておいて。七緒の金で寿司まで食っておいて。
「あのぉ~七緒ちゃんはぁ~ヤジキタ先生の~どういうところがお好きなんでしょうか~」
「聞きたい?」
「も〜焦らさないで〜聞きたいですからお願いします〜」
「優しいところ」
「え〜優しい男なんてどこにでもいましょうや〜」
「優しい、というより、誰も傷つけられないところ? かな。誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷つくことを選ぶところ」
「ほう」
「あと、こっちまで恥ずかしくなるような恋文を真面目に書いて寄越すところ。四十枚も」
「ぎょえ~思ってたよりパねぇなヤジキタ先生」
マジ卍侍の反応にではなく、自発的に七緒は笑った。何を思い出したのか、鈴を転がすような声で楽しそうに言う。
「そう、そうなの。八字君、変な芋虫だから」
「罵倒じゃん」
「今はちゃんと羽化して飛んでるから。何の虫かは知らないけど」七緒は嬉しげだ。
「い、いろいろあるんですなぁ〜」それしか感想が出てこず、マジ卍侍はとりあえずうんうん頷く。
「ふふ――でも、今言ったのは嘘」
「は? じゃあ、何。本当は?」
「――全部」
自らが担当する作家の目を直視して。七緒は言い切った。
「ほ、ほほお……」
「全部、っていうのも、ちょっと違うかな」
七緒は一歩後ろへ下がった。月夜に映える美貌の中、薄く紅を刷いた唇が弧を描く。
「責任取ってほしいの。八字君には。その人生をもって」
「え」マジ卍侍は瞬きをし、「え?」首を傾げ、「え……?」それきり、言葉を失った。
「逃がす気なんて、さらさらないから」
七緒はにこりと笑うと、踵を返した。「じゃあ、また。おやすみなさい、マジ卍侍先生」
軽やかな足取りで去っていく背中を呆然と見送って。夜に取り残されたマジ卍侍は猫にも似た口を引き攣らせる。
「お、おもしれー女ぁ……」
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