一四、大舞台、決まる

 ――夢を、見ているのだとわかった。


 小さく弱々しい、色味の薄い手を温めるように握って、山道を下っていた。


 自分が歩くのは道の外側、呼吸を合わせて一歩一歩慎重に歩き、相手が疲れたと言えば休み、言われなくても何度も休んだ。


 なんとか山を降りて、振り返れば真っ赤に染まった故郷の山。


 きれいやな、と言われたから、せやな、と返した。



 ――次は、大きな湖を望む、緩やかな上り坂。長閑な治世のおかげで見事に咲いた桜の花びらが、ちらちらと舞っていた。


 名前を呼べば、杖を突きつつ歩く女は足を止めた。ここで旅をやめよう。意を決して言えば、返ってきたのは予想通り――嫌や。


 うちは、恵土に行くって決めた。せやからうちは、恵土に行く。


 それは、歴史にとっても自分にとっても決定的な断言。胸の奥からいろいろなものがこみ上げてくるのを我慢して、そうか、と答え、じゃあ行くか、と付け足した。



 ――次は、小さな庵の庭先。どこからか迷い込んだ茶色い仔犬を縁側で遊ばせ、ころ、ころ、犬っころ、と呼びかけては笑っている。


 女が、ふとこちらを向く。薄桃の唇が、ほころぶ。



 は、ち――




 ……朗々と響く声で目が覚めた。廃道場を改修した稽古場を借り、桜都中から集められた『赤河原異伝』の役者たちが車座を組み、本読みを行っていた。


 稽古場の隅で正座する八字の膝の上で、矢立の付喪神・ハチは欠伸を噛み殺す。ここのところ、眠りの浅い夜が続いていた。


 他ならぬその原因――八字は、台詞を読み上げる役者と同じく真剣な目つきで、稽古の様子を見学している。主役の東雲しののめ瑠伊るいと唐傘座の座長に是非と手を引かれたこともあり、こうして暇を見つけては稽古場を訪れ熱心に勉強しているが、半分は現実逃避だった。


 仲睦まじい七緒とマジ卍侍を目にした日から、夜毎に八字は遣る瀬ない悲しみに呻いた。その悲嘆は隣で見守り続けてきた矢立の付喪神の同情を誘い、ハチも寝るに寝ることができなかった。下手に慰めることもできず、どうしたものかと考えるうちに、空が白んできたりする。


 七緒とは仕事の関係で顔を合わせざるを得ないが、幸いにも、八字は何とか人の形を保てている。話しかけられても、ちゃんと返事をする。だが、その瞳に輝きはない。うろのようだった。無理をして笑うと、その虚にじんわりと悲哀が満ちていく。とてもじゃないが、見ていられなかった。


 八字に内緒で七緒に訊いてみようか。ハチは考えるが、もしマジ卍侍との仲が本当だった場合は救いようがない。溜息を吐くしかなかった。



 そして事態は何ら改善されないまま、無情にも時は流れ、あと十日もすれば弥生という頃。


 芝居は大分様になり、稽古場も本番が行われる唐傘座に移った。唐傘座の大舞台に移動してから加わった演出は、鶯春堂をはじめ、桜都の最先端を行く者たちが協賛していることもあって豪華そのもの。桜式を用いた光が飛び交い、奥行きをもって音が響く様は『新時代活劇』と銘打たれるに相応しく、芝居に不慣れな八字はおろか、歴の長い役者たちをも驚嘆させた。


「照明にはいつも使っていますが、小道具に桜式を用いるのは新鮮ですね」


 紅く輝く大太刀を手に、朱天丸役の東雲瑠伊は言った。作り手に操作を教わりながら構えると、炎が刀身を覆った。その様子を見ていた一同は手を叩いて讃える。


「すごいです!」淡い色の目を見開き、東雲は言う。燃える刀身に触れながら、「しかもこれ、炎に見えるけど、熱くない。光式こうしきですか?」


 そうです、と作り手の若い女性ははにかんだ。


「炎式は免状が要りますし、我々にも使える汎式はんしきの範囲で上手いことやったとしても『桜式の武器への利用』ってことになりかねないので……いつも使ってる光式をいい感じに組んで、炎っぽく見えるように作りました」

「へぇ! 汎式でも工夫次第でこんな風にできるんですね! わわっ、すごい火力だ!」


 まるで式士にでもなった気分です! 東雲は子供のように破顔する。見た目こそ優雅で大人びているが、素は無邪気で少年じみたところがあるのも彼の魅力だった。すごいですよ、と向けられた笑顔に、八字とハチは揃って癒された。


「ありがとうございます! あなたのおかげで、格好良い朱天丸が演じられそうです!」


 ちょっと見ててください、と間合いを取り、東雲は輪の中で殺陣を演じ始めた。燃える刀身が空を切り裂き、紅い光が踊る。妖しく照らされたその横顔はまさしく『朱天丸』。


「どうですか?」納刀して、東雲は皓歯を覗かせる。

「すごく、格好良いです……」言ったきり、作り手は真っ赤になって沈黙した。


「……もう俺、東雲君に恋しそう」胸に手を遣り、八字は呟く。

「新しい恋を見つけちまったのか。俺はお前が一緒でもいいぜ」


 八字は黙した。悲痛な顔をしていた。新たな恋が八字の本意でないということは、ハチもわかっていた。


「ハチと一緒は、何かだ……」

「そうか……」

「東雲君、格好良いね……」

「そうだな……」

「うん……」

「芝居、楽しみだな……」

「うん……」


 ――それきり、会話は途絶えた。


 もう、どうしようもなかった。



 それからまた五日ほど経って、演出も含めて初めて通し稽古を行った日のこと。


 輪になってそれぞれが演じた感想や意見を述べていると、普段は顔を見せない音羽が姿を現した。


 桜錦おうきんの羽織を翻し、颯爽と現れた音羽はまず労いの言葉を述べた。流石は士学院卒、とその発声の堂々たることに皆がたじろぐ中、癖のある笑みを浮かべ、


「喜べ、良い知らせだ。翠柳門すいりゅうもん前での公演が決まった」


 最初は理解が追いつかないと言う風に顔を見合わせていた一同だが、東雲の「それってもしかして、桜花節の催しですか?」との問いに音羽が首肯すると、諸手を振り上げ歓喜の声を上げた。一人状況を飲み込めないまま、八字は胴上げされて宙を舞った。


 毎年四月朔日、〈桜〉の生誕日には桜都をあげて祝いの宴が開かれる。それに伴い各種催しが開かれるのだが、中でも恵土城東に位置する翠柳門前で行われる芝居は一番人気、そこで演じた者は一生を約束されるとも言われる、役者なら皆憧れる大舞台。この場にいる誰にとっても、この上ない名誉だった。

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