拝啓、氷を嗤う。
九津 十
拝啓、氷を嗤う。
「指定の口座に入金してください。」
冷酷なメール通知が1件、メールボックスから。
クレジットカードの支払いを滞納してしまっていた。
12万円。私にとっては大金だ。
銀行の預金と手元にあるお金をなんとか搔き集めても8万円。
バイトの給料日まではあと3週間もある。
それもすぐに家賃に充てなければならない。
カードの利用明細を見てみる。
不要な支払いの山、山、山。
見ていて呆れてくる。
何のために買ったもので、今どこにあるかも分からない。
一元管理とはかっこつけてはみたものの、収支を完全に把握できていなかった。
今更ながら現実と向き合ってみる。
推しのゲームへの課金。
1回しか着なかった服。
見栄を張って買った化粧品。
セールで並んでいたブランド品。
溜め息しか出てこない。
なくても困らないものの塊。
買った値段で売れるのなら、私はきっと小金持ちだろう。
友達との飲み会も、私が現金を回収してカードで払っていた。
それにも関わらず、不思議と手元に現金もない。
そもそも年収が低いのが悪いのだ、きっと。
フリーターと正社員の格差。
それをまた痛感する。
大学に入ってからほとんど勉強せずにバイトばかりして、
目先の利益を重視した人間の末路、泣き言、戯言、弱音。
大学の同期は真面目に勉強して、就活して、一流企業に勤めている人も多い。
私はなんとか単位を落とさず留年を免れた程度で、
就活はというとエントリーシートを何件か出して、
無事通らず、なんだか疲れて辞めてしまった。
今はお菓子屋さんでバイトをする日々。
夜の接客業も考えたが、そんなやる気もメンタルも持ち併せてはいない。
どんなに過去を振り返っても今は何も変わらない。
しかし無情にも返済期限は刻々と迫っている。
こんな悲劇のヒロインをどうか哀れんでくれ。
そして投げ銭してくれ。
ろくに調べたこともないが、消費者金融からお金を借りることは怖い。
大学の費用は親が出してくれたから、奨学金も借りなかった。
誰かお金を貸してくれる人はいないものか。
”甘え”と言われても構わない。
そんなプライドはとっくに捨てている。
交友関係を整理する。
SNS不精の私はスマホを開き、100人ほどの友達リストを見てみる。
家族に「お金貸して」なんて言えないから、家族はダメ。
友人たちはお金の貸し借りで関係に亀裂が入ると嫌なのでダメ。
大学の時に付き合っていた彼氏もダメ。そもそも音信不通。
お金を貸してくれそうな都合の良い人はいないだろうか。
我ながらクズのような発言。否、そこまで心は成り下がっている。
そんな考えを巡らせている自分自身を嫌にならないほど、
お金というものは人を変えてしまう。
しかし、お金にだらしないという悪評が広まるのは避けたい。
私にも世間体というものは一応ある、はず。
私の所属するコミュニティから遠い、優しそうな...
誰か、どなたか、いないか。
友達リストをスクロールしていく。
そこに見慣れない名前に目が留まる。
『シン』
どなたでしたっけ?
シン...シンちゃん...シンくん...
あ。
20秒くらいかけて思い出した。彼だ。
真(マコト)くん。皆も私もシン君と呼んでいた。
同じ大学で同じ学年だった男の子。
なんだか「男性」というより「男の子」という感じの人。
彼は法学部を出て、"なんとか"っていうカタカナの会社の法務部に就職したと聞いた。
私はその会社名を聞いたことあるような無いようなだったが、まわりの子たちが羨んでいた情景は覚えている。いいところなのだろう。
それに引き替え、私はフリーター生活。
爪の垢を煎じて飲みたいものだ。
そう思いながら布団の中で寝返りを打つ。
彼は、私を、好きだった。
学食で彼に話しかけられ、何度か話す内に仲良くなった、と思う。
1度だけデートのようなことをしたことがある。
私が観たい映画にただ付き合ってもらった。
これをデートと呼ぶかは甚だ疑問だが、独りで行くのもなんだか寂しかったので、ついて来てくれそうな彼を誘った。
涙脆い私はその映画の内容にわんわん泣いてしまったのだけれど、彼はそのきれいな顔のまま感想を淡々と言うものだから、なんとなく相容れない人だと悟った。
その後も少し遠まわしに熱意を伝えて来てはくれたが、なんとなく距離を置いてしまった。
良い人だとは思うけど、波長というか何というか、そんな揺れてる何かのせいで。
思い返すと、私は彼の何も知らない。私ばかり話していた気がする。
私は彼に興味がなかったのだろうか。もう思い出せない。
でも逆にその方が良いかもしれない。
後腐れしないから。諦めも、踏ん切りも、付きそうだから。
ダメでもともと。申し訳ないけど、気楽に行こう。
勿論、借りたお金を返すつもりはある。少しずつだけど。
初めは皆そう思うのだろうか。私もそのうち...
いや、考えるのは辞めよう。皮算用よりも行動だ。
"シンくん"をタップし、トーク画面を開く。
親指とフリックを駆使し、メッセージを送ってみる。
「シン君、久しぶりー!覚えてる?」
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新橋にある喫茶店「かえで」の前に立つ、二本の足で。
親から貰ったこの足で、堂々と。
彼が指定した場所。個人経営のお店みたいだ。
ちょっと古びたパン屋さんみたいな外観。
かわいいけど、どこか寂しい感じ。
15分前に着いている。彼はまだいないはず。
深呼吸をしてドアを開ける。
「いらっしゃいませ。」
優しそうな男性が微笑んでいる。
後ろに束ねた白髪、お髭、丸メガネ。
「21時に予約してると友人から、」
「ご予約様ですね、どうぞこちらへ。」
歩きながら店内を見渡す。
ほの暗く、少しレトロな雰囲気。
お客さんは自分以外1人もいない。
大通りから外れると、やはり人足は遠のくものなのか。
「こちら、お掛けください。」
店主と思われる男性は『Reserve』と書かれた札を持ち上げ、
一礼して戻っていった。
案内されたのは奥の喫煙室。幸いにも臭くはない。
彼はタバコを吸い始めたのだろうか。
ストレス社会。嫌なこともあるだろう。
はぁ。
溜め息をつく。
私は、どう見えるのだろうか。
"変わってない"と笑ってくれるのだろうか。
それとも"変わってない"とバカにされるのだろうか。
変わらないといけないもの、それは心の成熟だと思う。
人を許せる器、人の痛みがわかる心、弱い立場の人を理解できるような経験。
そういうものが人を大人にしていくんだと思う。
変わらなくていいもの、それは遊び心だと思う。
めんどくさいから、お金が掛かるから、疲れるから...
そんな言い訳でどれだけの種を摘み取ったのだろう。
「失礼します。」
先の男性がこちらに来て、お水を2つ置く。
彼はまた一礼すると、戻っていった。
急にセンチな洪水が押し寄せてくる。
いつからだろう。"夢"なんて言葉を笑うようになって、
自分より劣っている人間を血眼になって探して、
その勘違いで、人を心の中で貶す。
人はなぜ、嫌なことだけ覚えているのだろう。
後悔を清算せずに、フタをするからなのだろうか。
「失礼します。」
先の男性が注文を取りに来た。
伝票とボールペンを持ち、口を開く。
「お飲み物、何になさいますか?」
言葉に詰まる。
メニューなんて見てなかった。
「アイスティーをください。」
コーヒーを飲めない私は無難な紅茶を注文する。
9月に入ったとは言え、東京はまだ暑い。
「承知いたしました。」
そう言うと、一礼をし、厨房に入っていった。
ふと大学時代を思い出す。
彼はまだ、私のことが好きなのだろうか。
そんなはずないか。卒業してから5年以上経っているんだもの。
希望的観測。恥ずかしさで虚しくなる。
重要なことを思い出す。
どんなタイミングで話を切り出そうか。
全然考えてなかった。
昔話が弾んでしまうと、本題が切り出しにくくなる。
好意を逆手に取るのも嫌だ。単刀直入に最初から。
いや、それだと印象が悪いか。いや、ここまで来て何をほざく。
そう考えていると、待ち合わせ丁度の時間に、彼は現れた。
「こんばんは、お久しぶりです。」
スーツ姿の男性が立っていた。シン君だった。
顔は変わらず童顔だが、見違えた。驚いた。
なんというかエリートのような、しっかりしてる人と言うか。
革靴を履いているせいか、身長も高く見えた。
「マルチ商法ならお断りですよ。」
笑顔でそう言うと、私の斜め前に座った。
必死に言葉を投げる。
「こ、こんばんは。」
笑顔をつくることで精一杯だった。
声は震えていたかもしれない。
「お元気ですか?」
彼の人となりをだんだんと思い出していく。
礼儀正しく、誰にでも敬語を使う人だった。
「ボチボチってところかな。シン君は?」
「はい。割と元気です。おかげさまで。」
私達は、少しの思い出話と近況報告を互いにし合った。
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話し初めて30分くらい経っただろうか。
早く切り出さないと、言い出しづらくなる。
言葉が出てこない。会話を終わらせたい。
そんな気持ちが伝染したのか、彼は口を開く。
「今日は、何か大事な話があるんですよね。」
願ってもないパスが来た。
流石、頭のいい人は察してくれる。
もう、言葉を考えるのは辞めよう。
私如き、考えるだけ無駄だ。
「実は、お金を貸してほしい。」
初志貫徹、単刀直入。
言った。言ってやった。
私はついにクズの一歩目を踏み出した。
「私に何かリターンはあるのでしょうか?」
胸にグサっと来る言葉。そりゃそうだ。
私は自分にとって虫の良い話をしただけだ。
「私にできることなら何でもします。」
「何でもって例えば何ですか?」
「例えば、その、身体とか」
冷たい水が飛んできた。
前髪から雫が落ちる。前がよく見えない。
「ふざけないでください。」
大きな声が店内に響き渡る。
私たち以外、誰もいない店内。
静まり返る。もともと誰もいないのに。
彼は荷物をまとめ終わると、足早に外に出て行った。
虚無感とはこのこと。その権化、それが今の私。
人生で初めて水を掛けられた。
ショックというより、驚きの方が強かった。
負け惜しみか遠吠えか、なんだか清々しい気持ちだ。
やんわり断られるよりも、スパっと拒絶された方が、案外楽なのかもしれない。
そう考えると笑いが込み上げて来る。自分はなんて惨めなんだろう、と。
紙ナプキンに手を伸ばし、何枚か、取る。
その時、机の上の封筒に目が留まった。
『珈琲代』
優しい。彼らしい。可愛い丸文字。
手を拭く。前髪をかき上げる。
そして、封筒を手に取ってみる。
目頭が熱くなる。
涙は心臓が押し出しているのだろうか。
思っていたよりも、ずっとずっと、それは重かった。
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ついに30歳になった。
20代が終わると何かが劇的に変わると思っていた。
しかし現実は何も変わらない。そんなのは社会の幻想だった。
何か変わったとするのなら、自分の行動した結果でしかない。
そんな自己啓発本に書いてそうな月並みな言葉を自分に言い聞かせる。
私は今、都内メーカーの経理として働いている。
20代のうちはスキルがなくても、やる気を持って数を打てば、
拾ってくれるところもあるのだと知った。
そして初めてのボーナスを持ち、私は新橋のあの喫茶店「かえで」を訪れた。
「いらっしゃいませ。」
あの時の店主だ。変わらない、髪型、お髭、丸メガネ。
店内は想像以上に人が多かった。
話し声で賑やかな店内。照明もなんだか明るい。
「空いている席にお掛けください。」
「あの、」
そう言うと、笑顔はこちらを向いた。
「以前に、2年ほど前にここに来たことがありまして、」
笑顔で私の言葉に頷く。
私は言葉を続ける。
「その時、友人...いえ、知人からお金を借りたんです。でも返そうにも連絡ができなくなってしまっていて。ですから、お金、預かっていただけないでしょうか。」
ほとんど見ず知らずのような人にお願いしているのかもしれない。
それでも、このルートしか私には残されていなかった。
「すみません、お嬢さん。彼から言われてるんです。
言葉もお金も預からないでください、って。」
頭に靄が掛かる。胸が熱い、いや、痛い。
「もうお子さんも大きいですし、関わらないであげてください。」
視界が滲む。涙でぼやける。
全て見透かされていた。
私がここに来ることも。
お金を返しに来ることも。
伝言を残しに来ることも。
全て見透かされていた。
それに彼は結婚していた。子どももいた。
でも、あの時、彼は指輪をしていなかった。
思い返す。
なぜ、あの時、他にお客さんはいなかったのだろうか。
なぜ、あの時、奥の喫煙室に案内されたのだろうか。
なぜ、あの時、お水に氷は入っていなかったのだろうか。
なぜ、その水を彼は一口も飲んでいなかったのだろうか。
私は、私は。
拝啓、氷を嗤う。 九津 十 @kokonotsu10
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