二十三歳 その2

 近づいてみても、見た目は変わらなかった。広い校庭と古い校舎、昔からもう作り直せば良いのにと思っていた、錆びまくりの正門。


 もう七年以上前になるのだろう。それでもあの校舎に近づくほど、可奈子にはつい最近のことのように次々と、中学の頃の出来事が思い出される。

「いや、正門閉まってるね」

「そりゃあそうだろうな」


 それでも葉月は、少しの迷いもない足取りで門の前に向かった。

 可奈子が戸惑うような目つきをしている。

 まさかこいつ、忘れたのか?


「能勢ちゃん、中に入ろうとしてない?」

「うん」

「え、これってどうなんだろ、不法侵入にならないのかな」

「何を今更、岳南高だって不法侵入したじゃんか」

「でもほら、こっちには監視カメラあるし」


 彼女は、門の横でこちらをじっと見つめる、クラシックな見た目の防犯カメラを指差す。

 ——やっぱり忘れてる。

「昔あったじゃん、落書き騒ぎ」


 そこまで言ってやっと、可奈子の記憶は戻って来たらしかった。間抜けな感じに口をぽっかりと開け、何度も頷いている。


「あったあった!あれ何年の頃だったっけね」

「ちょうどこの辺にスプレーでさ、もう内容は忘れちゃったけど」

「全然意味のないアルファベットだった気がする。英語と見せかけて」


 それで、全校集会が開かれた。門の横の壁に書かれたのだから生徒の仕業とは限らないのに、学年主任は終始やや怒り気味のトーンで、落書きがいかに悪いことなのかを説いていた。

 当時の葉月は、その生徒を信用しない態度に心底腹を立てた。


 集会があったその日に、可奈子の制止も振り切り、担任に直接訴えかけた。カメラあるだろ、録画見れば犯人すぐ分かんのに、何で集会なんか開くんだよ、と。

 冷めた声の、死んだような目をした担任は、溜め息混じりに言った。

 ——あれはね、ダミーなんだよ。


「ほいっと」

「うわ、ちょっと私行けるかなあ」

「もう歳だから門も越えられない?」

 鉄格子の向こうで、葉月が余計なことを言ってくる。まだそこまで衰えてないから。

 可奈子は一息で飛び上がり、門の上面に足をかけた。今日はスカートじゃなくて良かった。


「あそこ行こうよ、体育館」

「何だ、そのチョイスは」

「この学校で一番警備がいい加減でしょ?」

「それは間違いないな」


 二人は一直線に体育館へ向かった。遠くから見ても分かる、相変わらず黒く煤けた外壁の、年季の入った施設だった。

 ドアはやはり開いていた。この学校、正門以外は鍵なんてあってないようなものだ。

 周りを少し気にしながら、こそこそと靴を脱いで中に入る。誰にも見られなかった自信はあった。


 だだっ広い、足元のラインもほとんど剥がれかけた、いつかのままの体育館。記憶との違いは電気がついているかどうかくらいのもので、足元の小窓から漏れる光や木の匂いまで、まるで真空パックされていたように目の前にあった。


「変わんないもんだな」

「けど、ここまで少人数で来るの初めてだね」

 二人の声は予想以上に響いた。世界の一切が、さっきのドアで遮断されているみたいに静かだった。


「とは言っても、ここへの思い入れは特にないんだけどな」

「本当に?」

 可奈子は足音をほとんど立てず、大股でステージへ飛んで行った。あっという間に階段を駆け上がると、まさに舞台のど真ん中で後ろに手を組み、肩幅くらい両足を開いて静止する。


「何してんの?」

「うん?」

 葉月も、負けじとステージに上がる。可奈子の隣に立ってみる。

 バレーコート二つ分の、天井の高い体育館が、バスケットゴールや謎の鳥の巣まで全て見渡せた。


「生徒会長の、気分」

「何だよそれ」

「一回こうして立ってみたかったんだ。どんな気持ちなのかなって」

「で、感想はいかが?」

「特になし、だね」

「嘘だろ」

「やっぱり、そういうもんだよ」

「——あの生徒会長も、物理的に上に立ち過ぎて上から目線になったわけじゃないのかな」

「……秋元晴海ちゃんのこと言ってる?」


 可奈子はふふっと笑いながら首を傾げた。

「あいつしかいねえよ、会長って言ったら」

「まあそうね。あの子はここに立ってて、どんな風に感じてたんだろう」


 まさかここに来て、あの子の話をすることになろうとは。可奈子は予想外の展開に笑ってしまう。

「卒業式の日、覚えてる?」


 唐突に言われ、葉月はパッと思い出せない。中学の卒業式なんて、そんなに覚えていないものだろう。

「いや、そんなに」

「秋元晴海ちゃんさ、生徒代表で答辞読んだんだよね」

「そうだっけ?」

 あいつの記憶なら、尚更残っていないだろう。


 可奈子はステージのへりまで歩いて、そこで座った。葉月も同じようにする。そうか、今まで葉月たちは、漫才みたいな格好で話していたのだ。観客はいないけど。


「あの子しっかり、一回も噛まずに読み切ったんだよ。流石だなあと思ったんだけどね」

 可奈子は向かって右側の、バスケットゴールの下あたりを指さした。

「私そこら辺で、秋元さんは『あ』だから、出席番号的にちょうど私の前だった。だから見えたんだけど」


 葉月は卒業式の日、二、三年生や先生や保護者が何百人もこの体育館に集まり、みんながこっち——ステージ側を向いている所を想像してみる。さぞ圧巻の光景だったことだろう。


「秋元さんの目、ちょっと赤かった気がするんだよね」

「え?あの鉄仮面生徒会長が?」

「目の周りとかも何か、じんわり赤みがかってて」

「え、花粉症か?」

「ではないと思うけどなあ」

「あいつ卒業式で泣くようなタイプじゃないだろ、でも」

「うん、私もそう思ってたんだけど——」


 可奈子は大学二年の同窓会で、酔いに酔っ払った秋元晴海の姿を思い出す。

 ——今は、元気にしているだろうか。


「人ってやっぱり、色んな面があるもんだよ」

「そうかなあ——」

「かく言う能勢ちゃんだって、卒業式の日はまあまあセンチメンタルになったんじゃないの?」

「中学の時は多分、そうでもなかったな。結構な人数が岳南高に進むの知ってたし」

「あー、そうなのか。私は割と寂しかった覚えあるなあ、だから秋元さんのあの目見て、余計もらいそうになっちゃってさ」

「初めて聞いたわ、そんな話」

「初めて話すもん」

 彼女はぶらぶらさせていた脚を、前でピンと揃える。


「能勢ちゃんとも、もうあんまり会わないだろうと思ってたね」

「え?」

「高校入ったら、メンツも環境も変わって、人間関係がリセットされちゃうと思ってたんだよ。だから、中学ではクラスも一緒でそこそこ関わってきたけど、高校じゃ同じようにはいかないだろうなあって考えてた」

「——なのに部活一緒だったよな」

「信じられなかったね」

「信じたくなかったわ」

 葉月は、その瞬間のことを思い出す。

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