十五歳 その5

 バスの段階では何も考えていなかったが、葉月は自分の言った「チャンス」がどこになるか、大体の見当をつけていた。


 それは夕食の後だ。修学旅行ほど常に大勢でいるイベントはないが、夕食後のフリータイムならきっと二人きりになるチャンスが生まれる。


 もし生まれそうになければ作るまでだ。


 葉月が見るに、可奈子は修学旅行では班が同じ沢木美香さわきみかと一緒にいるようだった。思えばあの二人は学校でも、いつも一緒に行動している気がする。


 もし夕食の時まで二人でいるようなら、何かせねばならないかもしれない。その一日はずっとそんなことを考えていた。


 いよいよ夜七時になると、全三年生が大広間に集められた。旅館独特の長テーブルの対角のところに、可奈子はいた。隣にはやはり美香がいる。

 この分だと二人で部屋に帰ってしまうかもしれない。


 隣の長谷部に目配せする。こいつ、今日一日ずっと不安そうだ。

「今日は無理っぽいかな」

「何言ってんだ、こっからが本番なんだよ」

 そう言うと長谷部は、この世の終わりみたいな顔をした。


「ねえ、本当にそんないきなりで上手くいくの——?」

「上手くいくって。当たって砕けろくらいの気持ちがないと、いつまで経ってもこのまんまだぞ」


 長谷部はそこで、エビの天ぷらを取り落とした。天ぷらは逃げるように床まで転がる。

「うわあ」

「シャキッとしろよ優。これからチャンス作るんだから」

 と言っても、彼は普段通り、というより普段以上に緊張気味だった。


 これは決定的なきっかけがないとダメだな。葉月は来るべきどこかのタイミングに備え、目を光らせていた。


“隙”はごちそうさま、の後に現れた。

 そういえば可奈子は片付け係だった。ジャンケンに負けてそうなったのだ。

 まだ人が多く残っていた頃、彼女が美香と協力しながら食器を片付けていたのを見て、葉月はそれを思い出した。


「長谷部、チャンスだ」

 まだ長谷部はご飯を食べ終わっていなかった。しかし米を一気にかきこみ、ペースアップする。

「可奈子はこの後、忘れ物がないか確かめて、あそこの表にチェックを入れなきゃならない」

 葉月は後ろの無人テーブルを指差す。


 その仕事内容は、夕食が始まる前に生徒会長から告げられていた。秋元晴海の話を聞いて得することがあるとは思わなかった。

「そこで大西さんは、一人になるってことだね」

「多分な」


 しかし、その予測は見事に外れる。まだ大広間には、この後どうするか決めかねたたくさんの生徒が隅やら中央やらに残っていた。


 その段階で可奈子は忘れ物チェックまでを終え、シートに丸までつけてしまったのだ。

 あいつこういう時ばっかり、どうして仕事が早いんだ。


 葉月と長谷部は大広間の前の方に当たる、一段上がったステージのような空間の段差に寄りかかり、その様子を見ていた。じっと見ていたらとがめられるので、何気ない感じを醸し出しつつ見ていた。


「大西さん、まだミカさんと一緒にいるよね」

「——これは強硬手段に出るしかないな」

 多少可奈子には気の毒だが仕方ない。葉月はその時浮かんだアイデアを、実行に移すことにした。


「優、お前は廊下で待ってるんだ」

「はっ、廊下?」

「この大広間から出てすぐのところで待ってたら良いと思う。オレが良いって言ったらね」

「そんな、待ち伏せみたいなこと」

「手段は選ぶほどないぞ。やるか、チャンスを逃すかだからな」

 ゴクリと唾を飲む音まで聞こえる。本当に正直なやつだ。


 葉月たちの四組は、チェックがかなり早く終わった方だった。可奈子がチェックシートに記入した後にも、大広間にはまだ何十人か人が残っていた。


 可奈子と美香が広間を出るのを、葉月は見届けた。何か言いたそうではあったが、長谷部は何も言わない。


 葉月は、ただ一つの点に照準を合わせていたのだ。

「よし、それじゃ行って良いよ」

 唐突に言われた長谷部は、当然というべきか戸惑って動けない。

「い、今?」

「頑張ってこいよ、オレ部屋で待ってるから」

 そう言って葉月は無理やり、長谷部を大広間から追い出した。少しずつ人がはけていく頃で、誰も葉月たちのことを見てはいなかった。


 葉月はすぐに行動を開始した。

 先ほど可奈子が記入していたチェックシートの方に早歩きで向かう。何食わぬ顔をしていれば、先生たちに目をつけられることもなかった。


 部屋の一番後ろ、無人テーブルに置いてある、シートをのぞき込む。確かに四組のところには項目ごとに三つ、丸がついていた。


 脇に転がっている鉛筆にも目をやる。一方の先端に小さな消しゴムがついた、クラシックなものだった。

 決心がついた。ここまできたらもう、やってみるしかないだろう。


 葉月は後ろを確認しつつ、そっと鉛筆を手に取った。

「可奈子、許せっ」

 そして消しゴムをシート上の丸に当てる。可奈子が描いた、仕事完了の証。

 それを丁寧に消していった。なるべく黒い跡が残らないよう、小さな消しゴムの中でも綺麗な面を意識して使った。


 この後他クラスのチェックが全部出揃った時、先生たちは四組の欄だけが記入されていないことに気づくだろう。

 こういう時彼らが起こす行動は何か。


 生徒会長を呼ぶのだ。それから生徒会長が、四組の片付け係を部屋から呼び出してチェックさせる。


 このような行事で先生と生徒を結ぶ役目を担うのは、必ずあの秋元なのだ。

 何か生徒のミスがあれば、先生の伝言を伝えに行かなければならない。生徒会長というのも大変な仕事だ。

 まあ、秋元自身そんな風に思っていないだろうが。


 ともかくこれでほぼ確実に、可奈子は一時的に一人になる。

 あとはあいつ次第。長谷部の勇気と行動力次第だ。廊下に出てくる可奈子を呼び止めることさえできないようでは、彼はあいつと付き合うことなどできないだろう。

 廊下で肩を震わせて待機する長谷部を想像しながら、葉月はその場を後にした。




 長谷部はそのまま、先頭をキープしていた。これまでに見たことのない頑張りを、クラス中が応援する。

 最後のコーナーでは、トラック外のレジャーシートを飛び出してみんながゴール付近に来ていた。それくらい予想外の快挙だったのだ。


 葉月はそれを遠くから、ヘトヘトになりながら見ていた。

 もう周りに人がいない。一番近い相手にも、確実に追いつけない差をつけられていた。


 まだこんなに走らなきゃならないのか。嘘だと言ってくれ、と思いながら重い足を踏み出す。


 長谷部がゴールするときには、葉月とは半周の差がついていた。ただ左を見れば、反対方向に走る長谷部の顔が見えた。


 勝者の顔だ。苦しそうに歪んではいるが、あいつは想像以上のことをやり遂げた。

 彼は本当に修学旅行二日目の夜に、一発で決めた。いや葉月もそのつもりで色々考えたわけだが、心の奥底では全てスムーズには行くまいと決めつける自分がいた。


 しかし現実は、全て葉月のシナリオ通り。可奈子は長谷部の告白を、当然のように受け入れた。


 このあまりにも好都合な展開に一番驚いているのは、間違いなく葉月だった。驚いてから初めて、長谷部が何かしら失敗する可能性を、葉月自身が考えていたことに気づいた。


「頑張れえーー!」

 トラックの距離をもろともせず飛んでくる、高くてまっすぐな声。


 姿は見えなくても分かる、あれは可奈子の声だった。今その応援は百パーセント、長谷部に注がれているのだろう。彼女の声を聞いて、長谷部は最後の力を振り絞る。


 そしてついに葉月は、彼のゴールの瞬間を見た。誰も予期しなかった一着。みんなの歓声が数百メートル離れた葉月にも届く。

 好タイムが出たらしく、ゴール周りがざわめく気配が、これだけ遠くにいるのに感じられた。


「すごいよーー!」

 そのざわめきの中から飛び出してきた、彼女の心から嬉しそうな声が、葉月の耳に響いた。


 ——いや、よくやったよ優。

 葉月は誰にも聞こえない声でつぶやきながら、また鉛のような一歩を踏み出した。

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