十八歳 その1
「で、どうだった?」
葉月は可奈子の向かいに座ると、すぐ聞いてきた。
「いきなり行きますか?」
「あ、まだ?」
今可奈子たちの前には木製のテーブルと、さっき下の階で買ってきたランチセットがあった。
三度目の文化祭が終わり、夏休みが迫っていた。岳南生にとって夏の時期といえば花火大会、ということになるが、この学年になると周囲の様子は変わってくる。
行くか行かないか、という選択肢が現れるのだ。
言うまでもなく受験のためだった。夏休みは「大学受験の天王山」だ、と最近担任が強調していたが、そんなことはずっと前から聞かされてきた。
しかしこの時期にもなると模試の結果に重みが出てきて、志望校をそろそろ定めなければ、というどんよりした空気が教室中に漂ってくる。
そこで夏休み前の最後の日曜日、可奈子は葉月をカフェに誘うことにした。
その頃の二人は、ちょくちょく色々な所に寄り道していた。主に通学路の途中にある鯛焼き屋だとかチャーシューの美味しいラーメン屋だとか、当然のようにそれぞれの行きつけを巡っていた。
そのカフェは可奈子の気になっていた所で、一階はパン屋になっていて、二階をカフェスペースとしている『Bluebird』という店だった。焼きたての美味しいパンを食べられるのが話題で、テレビにも出たことがある。
「これ食べながらでも良い?私お腹空いちゃって」
「食いしん坊かよ」
「そうですが?」
「そうだったわ」と彼はすごい勢いで自分のサンドイッチの包装を開け始めたので、可奈子もチーズパンを頬張る。
「んあ、うまっ」
「美味しいね」
焼きたてはやはり違う。ここ数ヶ月の念願が叶って感無量だが、ひと口が大きすぎて喉が詰まりそうだ。焦ってホットコーヒーに手を伸ばした。
「ああ、苦っ」
「可奈子ってコーヒー苦手だっけ?」
「うん、ブラックはきついね」
「何でコーヒー頼んだんだ」
「たまには良いかなあって。でも苦手なものは苦手だった」
「そりゃあそうだろ」
彼の呆れ顔は、もはや可奈子にとって落ち着きを与える表情だった。
「それで、どうだった?」
今度は可奈子が聞いた。突然さっきの質問を返された葉月は、それでも表情をほとんど変えず答えた。
「慎二のやつ、ダメだってさ。その日は塾のテストがあるんだと」
「え、ちょうどその日に?」
「その日の夜に。オレも疑ったよ、こいつ嘘ついてるのかなと思ったけど、ちゃんと調べたら本当だった」
葉月は慎二に、そして可奈子は沙耶香に、花火大会当日の予定を聞いてくるのが宿題だった。
去年は高校二年目にして初めて、吹部のパーカス四人で花火に行くことができた。今考えれば、あれが一番暇で自由な時期だったのかもしれない。
今年も同じように、と簡単には考えづらかった。四人の予定を考慮した上で行くかどうかを決めよう、ということになったのだった。
葉月と可奈子はお互い、口に出さなくとも、花火には行くつもりだと分かっていた。だから残りはあの二人だったわけだ。
「慎二のくせになあ」
「でもまあ、慎二くんってああ見えてすごいとこ目指すんでしょ?」
「大阪のナントカ大学な」
「それならしょうがないよ」
「でも何も花火まで捨てなくて良いじゃんか。高校最後の花火大会は一生に一度だぞ?」
一息つく。それは可奈子も同感だった。でも慎二の考えも分からなくはない。
「受験っていうのは、やっぱりそれだけのことなんだよね」
「今E判だからってさ」というのは、可奈子に向けられたのではなく、葉月の独り言らしかった。
模試の結果のことを言っているのだろう。この時期に、志望校の判定が「要努力圏」のDやEであることは何も珍しくないというか、当たり前のことだと担任は言った。むしろ今「合格ボーダー圏」を超えるBやA判定だったら、もっと高いレベルの大学に進路変更しろと勧められる。
「その言い方からすると、沙耶香も?」
その通りだった。可奈子はうなずく。
「沙耶香本人は行きたい気持ちがあるらしいけど、両親が許してくれないんだってさ」
沙耶香は、早い段階から志望校が固まっていた。東京のある大学に、英米文学の権威と言われる教授がいるそうで、その人に教わりたいのだという。
私立大で、受験科目は一般の国立大より少ないのだが、その代わり日本史・世界史と国語の難易度がかなり高いそうだ。
沙耶香は可奈子の誘いを、「私も、花火くらい良いじゃんとは言ったんだけどね」と例によってクールに断った。
厳格な両親は、どうしても許してくれそうにはなかった。昼にちょっと遊びに行くならまだしも、花火という拘束時間の長い行事に行かせるのは、やはり抵抗があるらしかった。
ここまで説明すると、葉月は残念そうに頭を抱えた。
「いやあー沙耶香んとこは厳しいなあ」
「仕方ないね、期待されてるんだろうね」
またコーヒーを飲む。
やっぱり耐え難い苦味が口の中に広がるのを感じつつ、可奈子の頭は目まぐるしく回転していた。
ここまではしかし、想定内のことだった。きっと慎二や沙耶香のことだから、受験勉強はキッパリ切り換えてやるんだろう、というのは大体分かっていた。
じゃあどうするか?可奈子にできることは何か?
それこそが、可奈子がこの席に座るよりずっと前から、何なら昨日から既に考えていた問題だったのだ。
そしてついに、その時が来てしまった。
可奈子はゆっくりと、呼吸を整えた。
「参ったな、二人とも来られないとなると」
追い討ちをかけるような、葉月の言葉だった。独り言なのかそうでないのかは判然としなかった。彼はただ、自分の手元のアイスティーの容器をペコペコといじっているだけだった。
可奈子は口の中で何度も練習した。今しかない、今しかないと思いながら、それを口にするのは想像以上に難しかった。なぜ難しいんだろう?
鼓動が早まる。顔も熱い。いつの間にこうも緊張していたのだろう。だけどそれを気にすれば、余計にひどくなるだけだ。
なんてことない、大したことではない。自分に言い聞かせながら、同じ言葉を繰り返した。
それじゃあ、それじゃあ、それじゃあ、それじゃあ——。
「それじゃあ、二人で行かない?」
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