十七歳 その4
それはそれは、見事なピアノソロだった。
可奈子に見えたのは葉月の背中だけだったが、それで十分だった。
曲が始まった途端、ああこれはあの『See you again!』だな、と理解した。
難しいピアノソロがある曲だ。葉月はこの曲が好きだと何度か言っていた。あれ弾いてみたいなあ、とも。
しかしまさか、この大舞台で目標を達成してしまうとは。それも完璧な形で、だ。
可奈子は彼らのバンドの完成度に、終始驚きっぱなしだった。なんだこんなことできるならもっと早く言ってよ、と思った。
能勢葉月は、自分の言ったことを何でも実現できる人なのだ。前からそんな気はしていたけど、今回で確信に変わった。
曲が終わりに近づくにつれ、あれが来るぞ、もうすぐ来るぞと可奈子の方が緊張していた。
しかし本人にはその様子すらなかった。まるで誰かに話しかけるように、それも楽しげにソロをやり遂げた。
曲が終わった瞬間、可奈子はこれまでの人生で一番大きな拍手をした。これ以上の音は出ないだろう、というくらい、手のひらが真っ赤になるくらい拍手し続けた。
演奏が終わってからステージを降りるまで、葉月は可奈子の方を見なかった。
もし目が合ったら、言ってやろうと思っていた言葉があった。
「ちょっと見ないうちに、めちゃくちゃ上達したね」
でも口に出す機会は来なかった。それはそれで良いような気もする。葉月なら「上から目線かよ」とか言って怒るだろうな、と可奈子は想像していた。
体育館の熱狂はなかなか冷めなかった。外から見れば、ライブが終わったことすら分からないだろう。
さっき可奈子が出て来たドアをくぐって、四人は第一体育館を出ていく。
今頃彼らは肩でも叩き合って喜んでいるだろうな、と可奈子は思った。
バン、と肩を叩かれ、葉月は転びそうになる。
犯人は慎二だ。こんなことをするのは、ダル絡みの牧野慎二くらいのものである。
「痛えよ」
「やったなお前」
二つの体育館の間の通路で、四人は並んで歩く。
一旦第二体育館まで行って、しばらく経ってからステージの片付け、というスケジュールになっていた。
「能勢ちゃん、今日のソロキレッキレじゃなかった?」
沙耶香の声も、流石に上ずっている。まだたった今終わったライブの興奮が抜けていないのだ。
確かに上手く行った。練習通りというより、今までのどの練習にも増して最高のパフォーマンスが発揮できたと思う。
「オレって本番に強いのかな」
「そういうのすんごい羨ましいわ」
「お前の歌は常にキレッキレじゃん!今日なんて最高のMCよ」
翔太は照れ臭そうに笑いながらやんわり謙遜する。バックグラウンドでもスターなやつだ。
葉月は、ついさっきの自分の演奏を思い出していた。
確かに練習の成果ということもある。本番に強いというのも、多少はあるのかもしれない。
しかし、それだけだっただろうか。あの難易度の高い楽譜を、練習でもノーミス率の低かったソロを、こうも完璧に弾けたのには、やっぱりもっと根本的な原因があったのではないか。
そう考え始めると、どうしてもあの声が蘇ってくるのだ。
「能勢ちゃあぁぁん!」
本番だけじゃない。練習の時からずっと、葉月は彼女が演奏を聴いてくれることを想定していた。
ボーカルの誘いを断られる前はステージ上で、断られたあとは体育館の客席で。いずれにしてもこの演奏を彼女に聴いて欲しいのだ、というモチベーションは揺るがなかった。
集中力のない葉月がこうも練習に打ち込めたのは、やはり彼女のおかげだったのではないか?
何だか腹が立つ気もするが、それは認めざるを得ないのだった。
「いやあ、ピアノ歴四年とは信じられないねえ」
慎二がぽろっと言う。
「おい」と、葉月は素早く慎二の首をロックする。
「な、何だっ?」
珍しく慎二の声が動揺する。本当に驚いた時の、怯えさえ混じった声だ。
「それ、絶対あいつの前で言うなよ。それができないならいっそもう、あいつの前でしゃべるな」
「あ、あいつって誰だよっ」
葉月は何も言わなかった。その代わり、第一体育館へのドアを顎で指す。
「え?可奈子ちゃ——」
その先は葉月に激しく絞められ、声にならなかった。慎二は慌てて、葉月の腕を叩く。ギブアップだ。
「わわ、分かったよ、よく分かんないけど、分かった」
「ほんとか?」
「俺は約束を守る男だぞ、そうだろ」
それから葉月は、慎二を解放した。何やかんや言って、確かに彼は嘘をつくことはしない。
第二体育館に入ってもなお、後ろの方に多くの人の気配を感じた。あれだけ時間をかけて来たことがこんなにあっという間に終わってしまうなんて、つい数分前までステージ上でライブしていたなんて、信じ難かった。
空っぽで薄暗い第二体育館は、別世界のような静けさで葉月たちを迎えた。
四人は並んで、バレーコートのど真ん中に座った。足元にある換気窓からの風と、自分たちの呼吸だけがその場の空気を動かしているのだと思った。
スポーツドリンクを飲みながら汗を拭う。まだ耳の奥は騒がしい。
「なあ、できたらさ」
ふっと、三人の顔が葉月を見た。どれも達成感や充足感に満ちた表情をしていた。
「できたらだけど——来年もやりたくない?」
「もう来年の話?」
沙耶香は両手を背中より後ろについて上を見ていたが、ゆっくりと体育座りになった。
「うん、私やりたい」
熱で耳まで赤くなった彼女は、満足そうに微笑んだ。
「そのための『See you again!』だったんじゃないの?」
あぐらをかいた翔太は、両手の親指を突き出す。
「お前は?」
慎二は葉月に話を振られても、なぜか答えなかった。
彼はにんまりといやらしい笑顔を作り、口元をファスナーで閉めるような仕草をした。
「お口にチャック」。口を閉じたままだが、多分慎二はそう言った。
——何してんだ?
彼の視線が葉月とは微妙にずれていた。どちらかと言うと、その後ろを見ているかのような——。
はっと気づく。葉月は、いつの間にか三人ともが見ていた方向——真後ろを振り向いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます