幸運
船の上でぼーっとハシナガイルカが海面を飛び跳ねるさまを見て、健太郎は甲板で体育座りをしていた。船は停止したまま、三十分くらいこうしてぼーっとした時間を過ごしている。
健太郎も島で会得したのんびりの極みを解放し、腑抜けた表情でサービス精神旺盛なイルカたちの空中曲芸を眺めていた。
まあ、マイマイの説明曰くあれは別に人間へのサービスではないらしいのだが、そんなの受け手の勝手だ、と健太郎はぱちぱち拍手を送る。
「あー」
「……ニート極め過ぎて廃人になってない、あれ」
「……あたしもちょっと心配かも」
何を言われようとも平気なのだ。
何故ならば今、健太郎の心ここにあらず、だから。
「あー、残念なお知らせだ。さっき無線で連絡が入ったんだが、風が強くなってきて波が高くなり過ぎた。鮫池につけられねえから、南島上陸はなし、だ」
「そもそも上陸できないでしょ。ここにガイドいないし」
「うん、初めから今日はないと思ってたよ」
またしても海老原父と初音、マイマイの会話が理解できない。だが、今の健太郎ならば耐えられる。何故なら心がここに無いから。のんびりを極めたから。
「いやぁ、七海ん家のとーちゃんにスタンバイしてもらってたんだわ。俺の案内じゃ上陸はさせられねえけど、現地にガイドがいれば問題ないだろ。今は閑散期だし、入島制限に引っ掛かるほど観光客もいないしな……あれ、どうしたお前ら」
「だったら行く! 行かなきゃダメ!」
マイマイ、急に駄々をこね始める。
「……そういうことなら、何とかならないの? ほら、裏から回らせるとかさ。私たちで引っ張っていけば、このカナヅチも持っていけるだろうし」
「カナヅチではない」
珍しく初音も執着しているのだが、健太郎の耳に入ったのはカナヅチという悪口だけであった。のんびりしていても心無い言葉は入ってくるものなんだなぁ、と彼はしみじみ思った。
「まだ何とかなるが、風はさらに強くなっていくみたいでな。波も高くなるし」
「今ならまだ何とかなるなら、さっと行ってさっと出ればいいんでしょ」
「まあ、そりゃあ、そうなんだが」
「はい、じゃあ決定! 親父、操船よろしく!」
「船長は俺だぞ、馬鹿野郎」
ゴネた娘の勝利。父はしょぼんとしながら無線で連絡しつつ、一路南島へ向かう。
○
そこはまさに地上の楽園であった。
本来、島への入り口である鮫池の反対側、アーチ状になっている岩場を抜けると、そこには純白の砂浜と完全に人の手が入っていない静謐なる空間があった。
箱庭のような小さな空間である。自然そのままで形成された閉ざされた芸術。完成された美が其処にあった。
こんな空間を自然が、誰が手を加えるでもなく形成したというのだ。千年、万年をかけてゆっくりと、悠久の時を経てその空間は、ただ其処に在った。
「凄いでしょ⁉」
「うん、凄い。これは本当に、凄い」
閉ざされた芸術、これはクラシックだ、と健太郎は思う。ジャズの自由を知って、人の営みに、雑多なる世界に目を向けたことで薄れていたクラシックへの情熱、憧憬。しかし、こんなものを見せつけられてしまうと、嫌でも心が揺らいでしまう。
言葉にすれば全てが陳腐に思えてしまう。楽譜に刻めばただの記号である『音楽』と同じ、聴かねばわからない。見なければ理解できない。
ここで、立って、感じなければ、わからない。
「この白いのはね、ヒロベソカタマイマイだよ。もう全部中身は死んじゃっているけど、ここにある全部が化石なんだ。踏んだり持って帰ったりしたら駄目だからね」
「言われなくても、そんなことしないよ」
自分がここにいること自体、芸術を冒しているような気分になってしまう。景色の一部を持ち帰るなど言語道断。歴史がどうとかではない。完成された芸術に手を付けること自体が罪なのだと健太郎は感じた。
白い殻、無数に転がる死ですら美しいと感じる。
「今でこそ入島制限とか結構厳しくしてるけど、昔はさ、親父とかあそこのアーチで飛び込んだりしてたらしいけどね。度胸試しだ、みたいに」
初音の言葉に台無しだ、と思いつつも、それもまた営みだ、と飲み込めるぐらいには度量が備わってきた健太郎。
でもなぁ、聞きたくなかったなぁ、と後日言っていたのは内緒である。
先に上陸して待っていた七海父監修の下、マイマイによる時間短縮簡易版の説明が始まるも、申し訳ないほどに耳に入ってこない。その様子を咎めることなく、マイマイはむしろ嬉しそうであった。初音もまた自慢げに微笑む。
なるほど、彼女たちが強引な理由もわかった。ここは来るべき場所だ、感じるべき空間だ、小笠原に来てここを訪れないなんてありえない。
一度踏み入れば、そう思えるはず。
ただ、こんなにお天気でも、風がちょっと強くなっただけで、波が高くなるだけで、入れなくなる場所でもある。小笠原に来て行こうと思っても行けない場合もある。天気には逆らえない。それでも、一度は感じて欲しい。
この完成された世界を。
閉ざされた、地上の楽園を。
○
健太郎は昼食を済ませた後、ぼーっと甲板で体育座りをしていた。今日は衝撃的なことばかりだった、と一人感想を噛み締める。練習がしたかった、という考えなどすべて吹き飛んだ。一度の練習よりも感じるべき景色がある。
取り込むべき空気がある。
きっと、そういうものを原動力に芸術家というものは存在しているのだ。自分が取り込み、咀嚼した美しいものを、別の形で吐き出して、どうだ、凄いだろうと見せつけるために。だからこそ、あらゆるものを飲み込む貪欲さが必要なのだろう。
そして、あらゆるものを音に変換して吐き出す努力が必要なのだ。中身のない音では人を震わせることは出来ない。
今日、取り込んだ全部は、きっと一生の宝物になる。
昔、マイマイに引きずり回されて島を駆け巡った時も、たくさんのものを得て内地に戻ったのだろう。それを自分が忘れてしまい、気づけば輝きを失っていた。
今度は刻もう。今日と言う日を。これまでの全部を、抱きしめて――
「お、来たぞ来たぞォ! バンドウイルカは見つからなかったが、この時期にこいつを拝めるなんざ運が良い。近くでブロウが確認された、野郎ども気合入れろォ!」
「マジ⁉」
「やったぁ!」
何か起きているようだが、充足を噛み締めている健太郎には届かない。船が快足を飛ばし、撒き散らすしぶきが頬を撫でる。こんなものでも心地よいと感じてしまう。
今日は良い日だ、とても良い日だ。
「うわ、本当にブロウが見える。健太郎、ぼーっとしてないでこっちこっち」
「早くしなさいよ、すっとろいんだから」
「あーあー、悪口は聞こえなーい」
耳を塞げば聞こえてくる。波の音、海の音、そして――
「あっ、やべ、近づき過ぎた。お前ら何かに掴まれぇ」
「「ちょ⁉」」
海老原父、サービス精神と持ち前の豪快さで寄せ過ぎてしまう。その瞬間、とんでもない近さで――クジラが跳ねた。大きな、黒い巨体。躍動する、生。
健太郎は唖然と、それを見つめ、圧倒されながら――
「あっ」
体勢を崩し、ころりと海に落ちた。
「「「あーーーーー」」」
三人の絶叫が海面に響く。だが、海中にいる健太郎にそれは届かない。
(うわ、はは、こりゃあ、すげえ)
そんな心配をよそに、健太郎は目の前に広がる威容に圧倒されていた。巨大なクジラが群れを成しズンズンと海を征く。
ひと一人、太刀打ちなど到底かなわぬ圧倒的な存在感。
大口を開けて、一頭が近づいてくる。あれに飲み込まれたらひとたまりもないだろう。クジラからすれば健太郎を食う、という意識すらない。少し大きな魚が海面付近にいるだけ。自分の通り道に、健太郎と言う人間がいるだけ。
これが自然、これが彼らの当たり前。
健太郎は人知れず、笑みを浮かべていた。迫りくる死を前に、ただ呆然とそれを待つしか出来ない己の、人間のちっぽけさに、何故か笑みがこぼれたのだ。
だが、次の瞬間、何かに弾き飛ばされたような痛みが走った。そこには必死な形相のマイマイと初音が、二人同時に飛び込み、健太郎を救おうと突っ込んできたのだ。彼女たちのおかげか、そもそもクジラ自体の進行方向がズレていたのか、間一髪のところで死から逃れる健太郎。海面に上がり、ただただ呆然と同じように海面に顔を出したクジラが過ぎ去っていく様を、見つめていた。他のクジラも、同じ方向へ進む。少数だが雄大な、群れである。
ぱちん、呆然としていた健太郎の頬にビンタがさく裂する。そこには目に涙を浮かべながら歯を食いしばって健太郎を睨みつける初音がいた。
「あああああああ、健太郎が、死んじゃうかと思ったぁぁあああ」
そして横には、自分を支えながら泣き始めたマイマイも、いた。自分よりも自分を心配してくれた二人を見て、健太郎は小さく「ごめん」とつぶやいた。
今日は、本当に忘れられない日になった。忘れてはならぬ日に、なった。
遠くで弾むクジラの巨体を見て、健太郎は苦笑する。
そしてまたビンタを貰う羽目になった。
○
船から降りた健太郎たちを待っていたのは皆の家族であった。激怒する海老原母の形相を見て、さんざん娘に罵詈雑言と親子のスキンシップならぬ暴行を受けていた海老原父は「ひい」と小さく縮こまっていた。他の皆はそれを見て苦笑している。
「どうでしたか?」
短く、節子は孫に問う。
「僕は絶対に、今日という日を忘れないよ、ばあちゃん」
健太郎は祖母に満面の笑みを浮かべて、そう答えた。
「それならば、よかった」
節子もまた笑みを浮かべ、孫の頭をそっと撫でた。
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん」
彼は今日と言う日を生涯忘れない。
たくさんの思い出の中にいる、二人の親友のことを。
初めてできた、友達との思い出を、絶対に、忘れない。
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