奏と田中と その3

 田中さんが、日頃のストレスをぶちまけたいほど溜まりに溜まっているのは、知っている。

 男子は男子で集まりがあるみたいだけど、宮田さんを中心として、我々にも聞いてもらいたいことがあるのだろう。

「久保っち、あれどうなったの? 新しいやつ」

 田中さんを見兼ねてか、それともすでに何か相談を受けているのか、飲み会の席で仕事の話題を出さない宮田さんが、口火を切り始めた。

「社内体制改善プロジェクトですか?」

「うんそれ」

 うちの会社は、いわゆるブラック企業。ひとさんが心配する訳だってくらい真っ黒だ。

 介護の世界にも、ピンからキリまで様々な職場があるけれど、ここは決して何色にも染められない色に、隅から隅まで染まり切っている。

「この前の会議の時、進捗報告なかったんだよね」

 田中、お前は出てなかった。

 心の中で、松岡さんを射止めた宿敵田中に『ガルルルル』っと巻き舌混じりに牙を剥き、李っちゃんに勧められるがまま、目の前に出されたドリンクを一口含んだ。

『うぉ。これ美味しいですよ』

「お姉さんがァ飲ませてあげよっかァ」

 もう9年近く日本にいるらしくて日本語はぺらぺらだけど、まだ所々に片言感が抜けてないところがまた可愛い。

「上の人らは、おったん?」

 田中さんと、それに付き合っている風な宮田さんとの流れに、久保さんの表情も少し硬くなってるように見えた。軟骨の唐揚げ大好きなのに、あまり積極的にお箸が進んでいない。

「出席しなかったです。上がいると、下の者が意見を言わないとかで」

「いつものか」

 お前もいつものサボりな。

 女子会ってのが楽しいのに、んもぅ!

 大きめに切り分けられた出汁巻たまごを、怒りに任せて口一杯に頬張った。

「お疲れさまでーす」

『まふおふぁさん(松岡さん)』

 ひょこっと松岡さんが現れた。メタルキングに遭遇した時並みに嬉しい。

「まずは食べ終わってからねぇ」

『ふぁい。へも、ふぁひのへ(はい。でも、髪の毛)』

 びっくりした。いつも神々しい松岡さんが、ショートカットで益々神々しく輝いている。

 スポーツ漫画のヒロインが、突然ばっさりイメチェンした時と同じ衝撃を受けた。可愛い女子が好きで良かった。生まれてきて良かった。

「今日は私、出払ってたから会えなかったもんねぇ」

『松岡さんのポニーテール好きでした』

 あ、違う。しまった・・・

「ごめんねぇ」

『あ、いや、ショート凄く似合ってます。可愛いです』

 長くてサラサラ艶々している松岡さんの黒い髪の毛。いつも好い匂いがするし、仕事の邪魔にならないように工夫している姿は、不器用な私には天上人。

 うなじは言うまでもなく最高。白米が3杯は頂ける。大好きな女神が切った髪の毛を、お守りに欲しかったとは口が裂けても言えない。

「大月さんも前髪上げてて可愛いよ」

『デコパチーノです』

「ん?」

 あ、ひとさんにしか通用しなかったんだ。

『アル・パチーノ、デコ・パチーノ』

「あ、アル・パチーノね。映画鑑賞、好きって言ってたもんね」

 デコパチーノは余計だったか。でも可愛いと言って貰えたことに、にやにやが止まらなくなる。

 あぁ、透明人間になれたら、まず松岡さんをストーキングしたいなぁ・・・

「ん?」

『・・・??』

 ハッ! として思わず思考が全てストップした。

「敵スタンドだっ!」

 空条くうじょう承太郎じょうたろうが、そう叫ばずにはいられないほどに時間を止めてしまった。

 私にザ・ワールドを発動する能力があったのか。いや、そんなことを言ってる場合ではない。

 李っちゃんのモグモグしているほっぺ。

 レモンチューハイをゴクンと飲みかけている久保さんの喉元。

「お前ほんまなんでここにいんねん」と右手を振り上げている宮田さんと、叩かれそうなのに嬉しそうな田中さん。

 そして松岡さんの笑顔までもが静止状態。

 この場にいる皆の目線全てが、私に注がれている。そんな気がした。

 ただひたすらに恥ずかしい・・・

「あっはははは、そうかぁ、大月さんになら家の中までどうぞって、案内しちゃいそうだけどねぇ」

 あ、でもなぜか松岡さんが笑ってくれてる・・・

 ひとさんに注意されてた私の性癖。いや正確には性癖とまではいかないけれど、小さくて可愛らしいキッズたちを見かけては『さらいたい。家で手懐けたい』と口走ってしまう私の癖。

 本当に外では間違っても口には出すなよっと言われ続けてきたのに、無意識のうちに出てしまった。

「俺の部屋はダメだぞ!」

「お前は刺されてしまえ!」

「ちょっ、宮田さん!」

 温かい。和やかだった空気を一瞬で凍らせてしまうほど、犯罪レベルだった発言がなかったみたいに、凄く温かい笑い声が私たちを包んだ。

 松岡さんの神対応が、この流れを誘発してくれたのは間違いないけれど、それにしてもなんて心地良い人たちなんだろう。

 だから私は、いくら業務がキツくても、この職場を離れるなんて選択肢が、脳裏の片隅にもないんだろうな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る