奏とカメムシと 後編 その4

『本当にしばらくカニはいらない』

「贅沢発言ですな」

 酔った時に見せる、ほぇーとした特有の表情。

 僕の浴衣の裾を軽く握り、少しおぼつかない足取りで斜め後ろからトボトボと付いて来る。完全にギュッと握り締めるのではなく、軽く握ってくる奏がいつも好きだった。

 部屋に戻ると、中央に置かれていた机は隅に追いやられ、代わりに、純白のシーツがひんやりしていて、気持ちよさそうな布団が二組。僅かにだけ距離を置いて敷かれていた。

 すぐさま身を預けるようにゴロンと横になってしまう奏。

「奥様、浴衣が開けてますわよ」

『んにゃ!』

「お茶、淹れようか?」

『ううん、しばらく何もいらない』

「深夜のお風呂はダメっぽいね」

『むぅ・・・』

 広縁の卓上に設置されている四角い和風テーブルランプ。その明かりを点け、部屋の電気を落としてみる。

「あ、凄い雰囲気がいい」

 オレンジ色の光が、満腹感で満たされた二人を、深い深い癒しへと導いてくれた。

 ふすまを開けてみると、月明かりが差し込んでくる。

 不思議の国のアリスのチェシャ猫が、透明になりながら姿を消し、その口元だけが、にんまりと微笑んでいた。

「奏、チェシャ猫みたい」

 よいしょっと重たい体を起こし、四つん這いで少しずつ近寄ってくる。

『おっ、本当だねぇ。あ、私ここで昼間に買った本、少し読む。いい?』

「いいよ」

 この広縁は、この為に造られたんじゃないだろうかというくらい、読書をする姿がビタッと綺麗に納まった。

 絵になる・・・

 先程まで、顔の周りをお花が咲き乱れていたはずの表情。それが一瞬でキリッと切り替わり、文学をたしなむ女性へと姿を変える。もちろん写真も忘れずに数枚撮った。

『あ、誕生日。楽しみにしててね』

「プレゼント?」

『うん、もう決めてあるんだ』

「毎年、楽しみにしてるよ」

『誓約のことだけどさ・・・』

「うん」

『この一年、かなり追い込んじゃったよね、ごめんね』

「ううん、尻叩いてもらったのに結局結果残せなかったし、奏が謝ることはないよ」

『ひとさんの思うようにしてくれたらいいよ。納得いくまでやってくれたらいい』

「うん・・・」

『今年も美味しそうなケーキを選びに行こうよ。誕生日はケーキだよ』

 急に勢いの増した熱い言葉『ケーキ』に思わず笑みがこぼれた。

『大月の驕りですぞ。誕生日ですゆえ!』

「へぇ、いいの? 約束だから今まで通りホールケーキ御馳走するよ?」

『ケ・エ・キ! ケ・エ・キ!』

「わかった、わかったよお言葉に甘えるよ」

『ケ・エ・キ! ううっ! ケ・エ・キ!』

 時折、ラジオ体操の序盤と終盤にある「腕と脚の運動ぉ」みたいな動きが混ざっている変な踊りと、ムカつくほど憎めない表情。

 これが、優秀な後輩たちを従えていた歌劇団のボスなんだろうか。ツッコミ待ちなんだろうけど、面白いしムカつくし、何よりずっと見ていたい。

 放置しておこうか・・・

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