奏とカメムシと 前編

 帰宅ラッシュにぶつからないように、夕暮れ前の電車で家路を辿った。

 お陰で二人掛けの座席にも座れたし、姫路駅を出た数分後には二人とも爆睡。

『人間の身体って不思議だよね。降りる一つ前の駅辺りで自然と目が覚めちゃうんだもん。神秘だわ』

 そう語っていたはずの本人は、僕より先に目を覚ますべきだったと、口を尖らせて後悔の真っ只中。

 Tシャツの胸ポケットに、よだれがダイレクトインするほど、口元の筋肉が重力に完敗していたのだ。

『写真、削除してくれた?』

「うん」

『嘘だ! にやけてるもん!』

 夕飯は、駅近くにある吉野家さんでテイクアウト。レジで支払いをしている間に、紅生姜をワサッと袋に入れてくれる奏。

『今夜は民宿「我が家」に素泊まりだね』

 コンビニに寄って、ほろよいとポテチも忘れずに買ったし、いつもの帰り道を鼻歌交じりに並んで歩く。

『やっぱり幸せバターが、一番好きなのですよ』



 全体重を預けるように勢いよくベッドに腰掛け、バスタオルでわしゃわしゃと頭を乾かす奏。

「おい、指」

 今朝、指摘していた右足親指の爪は、内出血しているかの如く、変わらず黒いままだった。

『ん? 取れなかった』

「いや取れるだろ。触ったら痛いの?」

『痛くないよ』

「んもぅ」

 僕が神経質なのかなぁ?

 なんで気にならないんだろうなぁと首を傾げながら、マキロンを浸したティッシュでそっと爪を擦ってやる。

 やっぱり黒く汚れた粘着質は、簡単に綺麗に取れるのだった。

『おお!』

「なんでお風呂に入ったのに綺麗に取らないかな」

『王様だから?』

 意味が分からない。

『ねぇねぇ』

「なんだよ王様」

『私、網走監獄に行きたいのだよ』

「王様、またご冗談を」

『え、だって行きたいんだもん』

「北海道の道東だぞ。行くの大変だべさ」

『なんとかして』

「んん・・・待たれよ」

『待たれよ』

「ッハハ!」

 出た!

 奏のモノマネ、ジブリシリーズ!

 今のは、ハウルの動く城のマルクルが、訪問してきたお客さんに使う台詞。

「もっ回、もっ回やって」

『待たれよ』

「ッハハハハハハハハ」

 やばい、本当似てる。

『なんとかして』

「ちょっと待ってマジで」

『40秒で支度しな』

「ッハハハハハハハ」

 天空の城ラピュタのドーラをモノマネする時は、絶好調にのってる時の証。もう笑わすことに特化してて、考えさせる気ないやん!

「んん、レンタカーしか思い浮かばんよ。千歳から・・・旭川からが近いか? どっちにしろ凄い道のりだぞ」

『ポテチ開けていい?』

「いいよ・・・北海道の地理を知らないまま好き放題言ってるだろ。どうでしょうを思い出してごらんよ、まじで凄い時間掛かるんだって」

『大臣でしょ、なんとかしろ』

「誰が大臣・・・あ、新千歳から女満別めまんべつ空港へ飛行機あったっけか」

『あるの?』

「うん・・・・・・あった。ほら」

『うひょおーーー』

「なんかレンタカーしか頭に思い浮かばなかった。他にも飛行機のルートありそうな気がするし、とにかく行けるな網走」

『あと明治大学にも行きたい』

「なんでよ?」

『拷問器具が見たいわけさ』

「そんな趣味あったっけ? 北国の監獄にアイアン・メイデン?」

『見たいの! あとコーヒー』

「飲みたいの?」

『いいの?』

「淹れるって言ってない」

『ほれ大臣、口を開けろ。褒美の幸せバターじゃ』

「はぁ・・・明日は今朝より起きるの早いからね」

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