奏と勇者と時々ゾンビと
『おぃドンキ!っざけんなよっ!』
『あーーー落ちるーーー!』
『あーーもう誰だよ今ぶつけたやつぅ!』
『ちょ!嫌だもう、どこ行ったらいいの!』
『落ちる落ちる落ちるあーーー!』
奏の雄叫びが響き渡った夜。
この日の朝は、一晩中、雨が降り続いていた。
通勤電車から降りた時の空は、まだ鉛色。いつも通り改札を出て、いつも通り駐輪場の管理人さんに元気よく挨拶。
雨を体で感じるのが好きな奏。通勤だろうが関係ない。濡れたって問題ない。自転車に乗り換えたら、鼻歌交じりに雨風を切る。
河川敷に着く頃には、前方の空を覆いつくす雲の隙間から、晴れ間が見え始めてきていた。
そろそろかなぁ・・・
この瞬間。奏は決まって「ドラゴンクエスト5の街で流れる曲」を愛用のiPodで再生する。
『私は勇者だぁ!』と言わんばかりの優越感にひたれる瞬間らしく、ここから数分間、奏は勇者になれるそうだ。
『呪われた魔法から解放された小鳥たちが空を飛び交い、どこからともなくエルフの奏でるハープが鳴り響く。長旅とモンスターとの死闘でボロボロになったローブに身をまとい、空を見上げながら両手を広げ、胸一杯に鼻から空気を吸い込みクルンと一回転』
「ん?ミュージカルなの?」
『街の人たちと会話をしながら、楽し気に城下を歩き回り、リンゴを頬張る』
「だが、どんどんと晴れてきて雲がなくなり、太陽がサンサンと顔を覗かせると、うぁぁぁぁ! という奇声とともに、私は塵となり跡形もなく消えてしまうのだった」
『違う! 私は勇者なの!』
「あぁ?」
『あぁっ!?』
ドスッ! ドスッ!
僕の腹部に、何度も何度もダメージを与え続ける鈍い音がする。
『勇者と呼べ!』
善良な市民を殴る勇者様が曰く、
『モンスターに支配されたエリアのボスを倒しに行って帰ってきて、どんよりしていた空気が晴れるみたいな。例えば、んんん・・・レヌール城にオバケ退治に行って、帰ってきた朝みたいなだよ』
おやぶんゴーストってエリア支配してたんだっけ? と頭をよぎった・・・
いや待て。いま僕の目の前にいるのは、シャドーボクシングに余念のない勇者様。ぴょんこぴょんこ上下に跳ねながら、なにやら嬉しそうにシュッシュ言ってるので、細かいことは黙っておこう。
奏は「ドラゴンクエスト5」が大好きで、ファイナルファンタジーこと「FF」と、どっちが好き? とお決まりの質問をすると、断然ドラクエだと自信満々に言い放つ。中でも「5」はダントツだと鼻の穴を膨らませる。
この勇者になれる現象。僕も自転車通勤なので、チャンスがあった時に試してみたのだが、なるほどだった。
凄く清々しい気分になり「あぁ冒険したい」「勇者になりたい」って高揚感に包まれる。今すぐコンサート会場に足を運びたくなってしまうほど、気持ちよかった。
その話を聞いた勇者様は『そうでしょ』と言い放ち、ドヤ顔。どうやら御満悦のようだ。
『ふふん、納得させてやった』と上から見下ろす感じが、ビンビンに伝わってくる小憎たらしい顔だけど、ちょっと嬉しそうにニヤニヤしてる。
この機嫌のいい時に奏の口から出る『そうでしょ』を聞いて、安心したい僕がどこかにいる。
奏が嬉しそうにしてると、幸せな気持ちに包まれて、身も心も温かくなるんだよな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます