13
私は全く気付いていなかった。彼の指導をしていたとはいえ、ずっと見ていたわけではない。
私は深い罪悪感に陥り、口が聞けなくなった。彼を残し、私は無言のままふらつく足取りで部屋を出た。
その日以来、私はピアノに近づくことはなかった。彼との食事は取っていたが、何を話せば良いのか分からず、終始重たい空気が立ちこめていたかのように思う。
それからしばらくして、彼が
私はこうなることを分かっていた。彼を手放すのは惜しいが、彼はきっと私の傍にいるのが嫌になったのかもしれない。だから代わりの者まで、すでに用意していたのだろう。それもピアノに精通しいる者をだ。
彼は今や立派なピアニストである。たとえピアノを弾くと指が千切れるかもしれなくとも、彼は自由に弾きたいという思いがあるのかもしれない。
私は辞めるにあたり、彼に一つだけ条件を出した。
最後に私と一曲だけ、連弾して欲しいと。
彼はもちろん渋った。自分の手はまだ大丈夫だが、貴方の手はピアノに触れるわけにはいかないと。
だけど私が折れないとみると、さわりだけで良いならと渋々了承してくれた。
グランドピアノを前に、初めて二人並んで腰掛ける。
数年振りに触れたピアノは懐かしく、しっくりと指に馴染む肌触りだった。
指を置き、つるりとした鍵盤を震えた指で押し込む。
鋭い激痛。灼熱の鉄板に触れたような衝撃に、私は手を引きかけた。だが彼も同じようで、痛みのせいか顔を顰めていた。
彼が伴奏を弾き、私が追うように音を乗せる。
血が指から溢れ出し、包丁で肉を断つよう徐々に切れ目が増していく。それが包帯越しにも分かっていてもなお、初めての彼との連弾はそれを凌駕する程に魅力的で、楽しかったのだ。
辛酸の中に混ざる甘美な音色。
朝の美しい白光に包まれながら、私はその指が落ちて床に転がるまで、演奏を止めることはなかった。
落指 箕田 はる @mita_haru
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