第29話、名前(忘れてた)

(何じゃ、どうしたんじゃ一体)


 動かなくなった時の青年の様子は、明らかに動揺を見せていた。

 もしや怒らせたかと思って訊ねたものの、特にそういう訳ではないらしい。

 とはいえ流石にこんな幼児に見とれていたという事もないだろう。


 今は平静を取り戻している青年を見ながら、賢者は小さく首を傾げる。

 けれど結局答えは出ず、まあ良いかと気にしない事にした。


「そういえば殿下よ、陛下は今回の件について許可を出したと考えて良いのかの?」

「ああ、頂いたよ。『どうせお前は王を継げない。好きにしなさい』とね」

「それは・・・」


 それを許可と言って良いのかと、賢者は思わず口に出しかけて止めた。

 つまりそれは青年に何も期待していないという事ではないのか。

 王子として、王太子として機能しない子に、国王として興味は無いと。


 何ともない様に青年は告げたが、そこに思う所は本当に無いのか。

 自分が気にした所で何も変えようは無いが、それでも青年の心を案じてしまう。

 ただそんな賢者の様子に気が付いた青年はニコリと笑って応えた。


「気にしなくて良いさ。私も特に気にしていないから」

「・・・本当かの」

「本当さ。言い方は悪いかもしれないが、好きにして良いと言ってくれたんだ。君が思う程投げやりな言葉じゃない。むしろ私としてはありがたいとまで思っているよ」

「・・・ならば、良いが」


 今生の賢者は愛されている自覚が在る。今も尚愛されて育っている。

 そんな自分の境遇からすると、どうしても国王の言葉は好きになれなかった。

 だとしても本人が良いというのであれば賢者にはそれ以上口を挟めない。


 賢者としての人生であればまだ別だが、親に愛された幼女の言葉など何を言っても軽すぎる。

 そう判断した賢者はこの会話を打ち切り、何か話題は無いかと気まずい気持ちで頭を回す。

 視線をキョロキョロさせながら悩む賢者に対し、青年はクスクスと笑って口を開いた。


「後は君の御父上に許可を頂ければ、晴れて婚約成立かな」

「あー・・・やはり父上は反対されたか」


 自分の発言が原因ではあるが、流石にそうなる事は予想がついていた賢者。

 だがこれに関しては謝るのも不味いだろうと、それ以上の事は口にしない。

 何せ下手な事を言うと、背後の侍女が何をするやらと。


「そうだね。ただ条件を出された」

「条件? 何なんじゃ?」

「それは――――」

「殿下」


 賢者の問いに答えようとした青年の言葉は、背後の侍女によって遮られた。

 流石にこれには「ザリィよ、それは不味かろう!?」と焦る賢者。

 自分の方が余程失礼な発言をしているのは完全に棚上げである。


 ただ青年は気にした風もなく、足を止めずに軽く後ろに顔を向けた。


「解っている。約束を破る気は無いさ。だが忠告は受け取っておくよ」

「差し出がましい真似を致しました」


 侍女は軽く頭を下げて謝罪をすると、また黙って後ろをついて来る。

 周囲の護衛達も特に異を唱える様子は無く、ただ少し困った様子を見せるだけ。

 部屋で顔を合わせた時と似た様な反応に、賢者は先程の言葉の続きが気になった。


「・・・儂には話せん事なのか?」

「そうだね。ナーラ嬢には内緒という約束になっている」

「・・・儂らの婚約なのにか」

「言ってしまうと婚約が叶わなくなる。そういう条件だからね」

「・・・そうかい。ならば聞かぬよ」


 父は一体どんな条件を青年に告げたのか、この調子では侍女も教えてはくれないだろう。

 気にはなるが自分が蒔いた種である。青年が上手くやってくれる様に祈るしかない。

 少々不満は残るものの、やはり余計な事は言わぬ様にと口を閉じた。


「それよりも、だ。私は一つ気になっている事があってね」

「ん、何じゃ、何ぞあったのか?」


 唐突に笑みを消して真剣な表情を向ける青年に、賢者も真面目な表情で応える。

 婚約以上に気になる事など、精霊術師関連しか賢者には思いつかない。

 なのでまたぞろ問題児が現れたのかと、内心はうんざりした気持ちではあるが。


「君は私の名前を憶えているかな?」

「む? 何じゃ、そんな事か」


 だが青年からの問いは予想とは違い、問題が起きた訳ではなかった。

 その事に小さく息を吐いたものの、賢者はそのまま固まってしまう。


(やっべぇ、こやつの名前なんじゃっけ・・・ロー、ロー何とかだった気がする・・・不味い、マジで名前が思い出せん。殿下としか呼んでおらんかったから、完全に頭から抜けておる!)


 固まった笑顔で脂汗を流しながら、必死になって思い出そうとするも思い出せない。

 先程絡んできた老人や、襲ってきた少女の事はすぐ思い出せるというのに。

 その不審な様子に気が付いた青年は、思わず苦笑を漏らしてしまった。


「やっぱり覚えていなかったんだね」

「あー・・・その・・・えっと・・・申し訳ない」

「いいよ。そんな気がしていたからね」


 流石にこれは気まずく感じて謝ると、青年は賢者の頭を撫でながら許しを口にした。

 特に気分を害していない様子にホッとして、途中で「あ、コレ違うわ」と気が付く。

 青年は頭を撫でているのではなく、頭にある耳を撫でている。ぺたんと寝ていた熊耳を。


 そのせいで申し訳ない気分は全て吹き飛び、嬉しそうな笑顔の青年に半眼を向ける。


「私の名はローラル。ローラルだ。今度は覚えていて欲しいな」

「・・・しかと覚えておこう」


 ただそこで覚えていなかった名を名乗られてしまい、これでは文句も言い難い。

 悪いのはこちらなのは明確であるし、少しぐらい好きにさせてやるか。

 賢者は諦めの溜息を吐き、青年にされるがままに耳を撫でられる。


(しかしこやつ、もしや本気で熊耳が目当てで婚約を申し込んだのではなかろうな)


 嬉しそうに熊耳を触る青年の手を感じながら、一抹の不安を覚える賢者。

 最早触るや撫でるどころではなく、揉んでいる状態ではあるが。

 この調子では会う度に同じ事になりそうだと、若干の不安が胸によぎる。


(ま、良いか)


 とはいえ真面目な話の時以外は良いかと、あっさり気にしない事に決めてしまった。

 何故なら青年の手はやはり気持ち良く、賢者は段々うとうとし始めていたのだ。


(あの時は真面目な話の最中に気が散るとイラっとしたが、特に何事も無ければこのまま続けても嫌ではないんじゃよな。弟子に腰を揉んで貰った時と同じ気分じゃ・・・いかん、眠い)


 青年自身にその意図は無いのだが、完全にマッサージの様相を呈していた。

 弟子と青年を重ねている辺り、完全に婚約者を見る感覚ではない。

 もはやウトウトどころか、寝るのにあと一歩と言う状態まで砕け始めている。


「んあっ」

「「「「「「っ!?」」」」」」


 ただ眠気が限界に来ていたせいか、賢者は気持ち良さから高い声が漏れた。

 本人はぼーっとしていてその事に気が付かず、けれど周囲の空気は固まっている。

 特に背後の侍女は射殺さんばかりの目を王太子に対し向けていた。


 当然青年もこの空気の冷え方に気が付いており、恐る恐る後ろを向き侍女と目を合わせた。


「・・・殿下、一体今何をされたので?」

「い、いや、私はただ、山神様との契約の証である耳を触らせて貰っていただけで・・・」


 青年としては何も不味い事をしたつもりは無かったが、冷静になるとそうでもない気がする。

 彼女の頭の上の耳は確かに顕現しており、どうも彼女と感覚がつながっている様だ。

 となれば彼女の本物の耳をずっと触っていたのと変わらないのでは?


 今更ながらその考えに至り、何と答えても不味い気がして途中で口を閉じた。


「んあ、何じゃ、終わりか? ふあぁ、気持ち良くて寝そうじゃったのに・・・中途半端は気持ち悪い。もうちょっと続けんか、ほれ、はよう」


 ただ眠気で欲望に忠実になっていた賢者は、空気に気が付かず青年の手をペチペチ叩く。

 賢者を誰もが困った目で見ていたが、一番困っているのは青年である。

 許可を求める様に侍女に目を向けると、向けられた本人はとても残念な目を賢者に向けた。


 そしてほんの少しの思考の後で、溜息と共に「お続け下さい」と許可を出す。

 本当に良いのだろうかと思いつつも、青年は許可通りに手を動かし始めた。

 とはいえ一度始めると、葛藤なぞどこかに吹き飛んでしまった様だが。


 お嬢様も問題だけれど王太子も大概だなと、二人を見つめる侍女はまた溜め息を吐いた。


「すぅ・・・すぅ・・・」


 そして気持ち良さから寝落ちた賢者は、目的地に着くまで起きる事は無かった。

 最早完全にただの女児である。

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