第一章 史上最大の作戦

「お名前をお呼びするまで、このお部屋で、お待ちくださいませ」

案内の女子社員がドアを開けると、LEDで明るく照らされた、清潔で殺風景、味も素っ気も面白味もない部屋だ。普段は会議室にでも使われているのだろう。細長いテーブルが教室みたいに並んでいる。そこに二十人ぐらいの人間が男女とりまぜてすわって、首だけこっちに向けて無表情に僕を眺めていた。

「お好きなところにおかけください。テーブルの上に弊社の会社案内がございます。ご自由にお持ちください。では、申し訳ありませんが、しばらくこのままお待ちください」

女子社員が、僕を残して出ていくと、こっちを向いていた頭はまた一斉に正面を向いた。数えてみると、十四人。僕も含めて十五人。男が十人、女が五人だった。皆、黒っぽいスーツを着て、髪をぴったりとなでつけている。僕もそうしてきた。実はこの髪については、涙ぐましい苦心と工夫があったのだ。

 昨夜、聡美が家にやってきた。普段は役所の近くの単身者向けの寮に入っていて、めったに顔を見せないのに。

「聞いたわよ、登。明日、面接なんだってね。身だしなみ、ちゃんとするのよ。面接官はそういうところを見るんだから。清潔感があって、目立たないようにするのよ」

「目立たなきゃ選んでもらえないだろ」

「オーディションじゃないの。スーツは? どれ着ていくつもり?」

選ぶほど持ってない。大学に入学した時に買った一着だけだ。卒業式も、正志の結婚式も、祖母の葬式の時もその濃紺の上下で通した。ここのとこ運動不足で、二の腕のあたりがちょっときつい。でも、他にないから、それで行く。

 僕がそう言うと、聡美はフンと、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「それしかないなら、仕方ないわね。シャツは?」

「クリーニングから戻ってきたままのがある。おばあちゃんの初七日の時、ケチャップをつけちゃって、染み抜きしてもらったんだ」

「ほんと、ドジよね」

 その後、ネクタイは、かばんは、靴は、ハンカチはと矢継ぎ早の点検が続き、僕はダメ出しを食らってネクタイにアイロンをかけ、かばんの埃を払って金具を磨き、靴にブラシをかけるはめになった。へとへとになって、

「これでいいだろ」

 だが、聡美は僕の頭に、ぴたり、と人差し指を突き付けた。

「その頭。床屋へ行ったのはいつ?」

 ここ数年、御無沙汰してるとも言えず適当にごまかした。

「えっと、一年ぐらい前だと思う」

「一年前!」

 聡美は、うちの冷蔵庫で六か月前に賞味期限の切れた冷凍ギョーザを発見した時のような叫びを発した。僕が「もったいない」精神を発揮して、そのギョーザを食べてしまった時は、もっと騒いだ。別に、どうということはなかった。特にうまいとも思わなかったけど、僕は美食家ではない。倹約家である。腹の痛みより、懐の寒さの方が身にこたえる。

 何の話だっけ?

 そうだ、散髪の話だ。

「その雀の巣みたいな頭を見たら、どこも採用してくれないわよ」

「雀の巣って見たことあるのかよ」

「つんつんおっ立って、好き勝手な方を向いてるぼさぼさ頭ってことよ。それでよく履歴書が通ったわね」

「履歴書の写真はね、五年前、正志の結婚式の時にとった写真を使った。ネクタイしてる写真はあれしかない」

「呆れた」

「床屋はもう閉まってるよ」

 僕は浮き浮きと言った。「この辺、田舎だからさ、深夜営業の床屋なんかないよ。これで行くしかないね」

 僕の髪は生まれつき、固く、黒く、好き勝手な方向を向いて生えている。それが僕の自然状態だ。てんでにばらばらな方向を向きたがる髪を、ドライヤーで、トニックで、ジェルでポマードでスプレーで、その他思い出したくもないありとあらゆる不愉快な手段を行使してねじ曲げ、同じ方向を向かせるのは理不尽じゃないか。個性の抹殺は時代の流れに逆行すると思う、と言う前に、聡美は部屋から消えていた。

 あいつは僕の意見には絶対に賛同しないと決めている。生まれる前からだ。僕が期待してたのは子分になる弟で、役立たずの妹じゃなかった。病院で皆が、猿みたいな顔をした赤ん坊を見せて、「かわいい妹ができて良かったわね」と言った時、これは裏切りだとはっきり思った。

 裏切者は、おばあちゃんの使ってた大きな裁ちばさみを持って戻ってきた。僕はぎょっとした。

「何する気?」

「そのうざったい前髪だけでも切ってあげる。それだけでも、ずいぶん違うはず」

「やめてくれ」

 その時僕が感じた恐怖は、フロイト的なものじゃない。聖書のサムソンも頭になかった。もっとずっと個人的で切実な、肉体的な恐怖だ。

聡美は恐ろしくぶきっちょなんだ。

「大丈夫。痛くしないから。このハサミ、よく切れるのよ」

 聡美は、カチャカチャとハサミを鳴らした。

 よく切れるから怖いんじゃないか。

「いいよ。ちゃんとブロウして、ヘアスプレーでガチガチに固めていくから」

「切っといた方が、まとめやすいわよ」

「いいって」

 僕はダッシュして部屋を飛び出した。廊下を駆け抜けてトイレに飛び込んでロックした。

「ちょっとー、何やってんのよ。やだー、信じられない」

 聡美ののんきな声がトイレのすぐ外でする。

「冗談やめてよ」

「冗談じゃないよ。お前、本気で僕の髪、切るつもりだろ」

「その方がいいと思うからよ」

「ごめんだよ。血まみれになって、面接どころじゃなくなるよ」

「やだ、大げさね」

「チビのこと考えてみろ」

 チビは、うちで飼っていた柴犬だ。信州の涼しい高原で生まれたせいか、夏の暑さに弱かった。舌を出してあえいでいるチビを見て、小学生の聡美は、毛を刈ったら、涼しくなるに違いないと考えた。ハサミを持ち出してチョキチョキとやり始め、腹のあたりをやっていて、うっかり、たくさんある乳首の一つをチョキン、と。血がどぱーっと出て、聡美は泣き叫んだ。被害者のチビの方は、あんまり騒がなかったように思う。母が獣医に連れていって、しかるべく処置してもらった。「大丈夫、わんちゃんはいっぱい、おっぱい持ってるから」獣医はまだ泣きじゃくってる聡美に言った。「でもね、ハサミをいたずらしちゃいけないよ。危ないからね」

 僕は聡美に、獣医のこの言葉を思い出してもらいたかったのだ。

 ドアの向こうで、しばらく沈黙が続いた。

「わかった」

 不満そうな声が聞こえた。

「ハサミ、戻してこい」

「登なんか大嫌い。せっかく心配してやったのに」

 

 僕はジェルで髪を撫でつけ、「ハードネット」を謳っているヘアスプレーで、がっちりと固めた。コンクリートなみに、浅草の「雷おこし」なみに固めた。以前、貰い物の雷おこしをかじったら、歯が欠けた。周りから、カルシウムが不足している証拠だと言われた。エンゲル係数が高いと、カルシウムが足りなくなる。貧すれば歯が欠ける。歯医者へ行く金がないから、ますます欠ける。やはり貧乏は良くない。なんとかして、正社員になろう。憧れのボーナスと厚生年金を手に入れるのだ。

 周りのライバルたちの頭を見ると、真っ黒なのからごま塩っぽいのまで、グラデーションはあったが、みんな、頭にはりついたように「まとまって」いる。暗い色のスーツと同じで、これが、「社会に期待されている人材」のスタイルらしい。その点についちゃ、聡美はまちがってなかった。別に驚きはしない。聡美はいつも、正論しか言わない。

 部屋の中はしんとして、空調の音がやけに耳につく。誰も何もしゃべらない。うつむいてスマホをいじったり、パンフレットらしきものをパラパラとめくったりしている。映画館や劇場の上演前とちょっと似てる。手持無沙汰でいながら、これから始まるイベントへの期待感と緊張感が漂っている。ただ、ここには、コーラもポップコーンもない。歯医者の待合室の方にもっと良く似てるかもしれない。陽気さのかけらもない、不吉なサスペンスだ。

 僕は部屋の真ん中へんに、空いてる席を見つけてすわった。

隣の席には日焼けした筋肉質の男がすわっていた。机の上に、頑丈そうなアタッシュケースを置いている。男は怯えたような顔で僕を見た。

僕は安心させるようににっこりと笑って、こんにちは、と言った。

「だいぶ、待っていらっしゃるんですか」

と、話しかけると、男はますますどんぐり眼になった。

「ええ、まあ」

と、ささやくような小声だ。別に、内緒話をしているわけじゃないんだから、普通に話せばいいのに。立派な体格してるくせに、気が小さいのかな。神経衰弱になったシルベスター・スタローンみたいだ。

「どんなこと、聞かれるんですかね?」

 僕が言うと、さあ、と自信なさそうに言葉を濁してうつむいた。

 その時、ドアが開いて、さっきの案内係が、クリップボードを片手に入ってきた。

「お待たせして申し訳ありません。マスゾノさん、サトウさん、オノさん。お荷物をお持ちになって、こちらへおいで下さい。他の方は、もうしばらく、そのままお待ちください」

 男二人と女一人が、ごそごそと立ち上がって出ていった。

「始まったみたいですね」

僕はもう一度、会話を試みた。

「ええ」

「なんの順番で呼んでいるんでしょうね。五十音順じゃないみたいだし、応募書類を受け付けた順番かな」

「さあ、よくわかりません」

 男は言って、身体を少し斜めにして僕に背を向けるようにした。薄いパンフレットの中に鼻を突っ込むようにして一心不乱に読み始めた。内気な男らしい。

 僕の前にも、会社のロゴの入ったA4サイズの封筒がある。さっきの案内係が言ってた会社案内だ。暇つぶしに、見てみることにした。

 未来への展望。と表紙にある。その下に西暦と会社名とロゴ。つるつるの上等な紙で、触るのが申し訳ないようだ。パラパラとめくると、真ん中のページがぱっと開いた。センターフォールドってやつ、外国の雑誌だと若い女の子のヌードなんかが載ってるページだ。このパンフにそれはなかった。その代わりに、わっと目を引く鮮やかなマリンブルーのページが現れた。銀色の水玉が見開きページいっぱいに飛び散っている。その中に、夢、とか、成長、とか、実現、とかのポジティブ系の言葉が大きな活字でちりばめてある。変なの、と思った。水玉模様と夢の実現、なんの関係があるんだろ。

それ以外のページはわりとまともで、業績のグラフなんかが載ってた。一番最後のページは、年表形式の会社の歴史で、僕はそこまで見て、パンフレットを閉じ、封筒に戻した。なんか眠くなった。ふわああああとあくびをして、両腕を頭の上にあげて、うんと伸びをした。視線を感じてふと見ると、隣の「神経衰弱」がまじまじとこっちを見ている。目が合うと急いでまた、パンフレットに鼻を突っ込んだ。社交的な気分になったわけじゃないらしい。仕方ない、廊下をトイレまでジョギングしてこようかと思い始めた頃、また、ドアが開いて案内係が顔を出した。クリップボードを読み上げる。

「ワタナベさん、ナガノさん、エガワさん、どうぞ」

 隣の「神経衰弱」が立ち上がった。僕の方を向いて「お先に」と蚊の鳴くような小声で言った。僕が立ち上がると、ぎょっとしたような顔をした。僕も呼ばれたんだよ、また一緒だね、と僕は、愛想のいい笑顔を見せてやった。彼を元気づけてやりたかったのだ。

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