1-3

「ねえ、さくらさん。学校を案内してよ」

 次の日の放課後。いつものように桜の枝に腰掛けていると、彼が息を切らしながらやって来た。その様子に、断る言葉が見つからない。

 どうせ、昨日の今日だ。来るだろうとは思っていたけれど、まさかチャイムが鳴った直後に現れるとまでは、予想していなかった。

「ねえ、さくらさん。お願い」

 お願いってなんだよ、可愛いなあ。

 わかった。わかったから見ないで。お願いだから、そんなキラキラした目で見ないで。

「十年もこの学校にいたら、詳しいよね。校舎デートしよう」

「……デート? 君は、友達とデートするの?」

 尋ねると、刹那逸れる瞳。これは、痛いところを突いてしまっただろうか。

「するかもね。いいから行こう」

 まあいいか。溜息を一つ吐く。私は腰を上げて、彼の目の前へと下りていった。

 歩き出す彼に、並んで進む。グラウンドや校舎内では、あちこちで様々な部活動が新入生を獲得しようと、アピールしていた。その様子を横目に、喧騒から離れていく。

「入学式の時も、チラシみたいなの配ったりしていたよね。いつも大変なことで。そういえば、君は部活見に行かなくて良いの? 確か、今って仮入部期間でしょ?」

 思ったことを率直に聞くと、途端に彼の唇が尖った。

「あー……バスケ部とかバレー部とか、教室にまで来たな……」

 それはそれは。他の生徒より、頭一つ分出るくらいの高身長だもんね。欲しがるだろうなあ。

「後は、軽音部とか」

「へえ? 音楽をやっているの?」

「カラオケは好き。だけど、楽器はやってないよ。木琴とかシンバルとかを、音楽の授業で触ったことがあるくらい。そりゃあ、ギターとか興味ないわけじゃないけど……」

 ギターも良いけど、このルックスならボーカルだな。センターに立っているだけで、ファンになりそう。それにこの声……一度、歌声を聴いてみたいものだ。

「確か、演劇部も来てたな」

 ああ、舞台映えしそうだもんね。王子役とか騎士役辺りが似合いそう。

「どこもかしこも、顔と身長だけ見て……」

 ぼそりと呟かれた声は、面白くないといった色を含んでいた。

 読心術とまではいかないが、どうも私はこの十年でいろいろな人のことを見てきたせいか、その色に含まれた言葉を容易に想像できてしまうようになっていた。

 こんなルックスで、人が寄ってこないわけがない。誰もが羨むその容姿は、しかし本人に言わせれば「望んだわけじゃない」のだろう。

 いったい、今までどんな環境に身を置いていたのだろうか。そして、何を身につけてきたのだろうか。時折見せる、大人びた年齢不相応の違和感が、その答えなのだろう。

「それにほら、部活なんて入ったら、さくらさんと会う時間がなくなるし」

 そうですか。別に、嬉しくなんてないんだからね。

「だから入らない。ということで、見に行く必要もなし」

「ふうん?」

 まあ、帰宅部の子なんて珍しくもないしね。この学校、その辺自由だから。

「さくらさんは? 何か部活、入ってたの?」

「さあ……覚えてない」

「え?」

「覚えていないの。さくらって名前と、病気だったことと、この学校の三年生だったこと以外は、何も」

「そっか……」

 話しながら、校舎内に入ってすぐの階段を上がる。上から行くのだろうか。最上階である四階の、一年生の教室が並ぶ廊下を歩いた。

「じゃあさ、これからいっぱい思い出を作ろう」

 彼が歩くままついてきた先は、とある教室。中に入ったかと思えば、おもむろに席に着いてこちらを見上げてくる彼。廊下には数人の生徒がいたが、この教室内では二人きりだった。私は、怪訝な顔を彼に向ける。

「思い出?」

「そう。俺たち二人の思い出。さくらさんの、学校の思い出。……ねえ、覚えて。ここが、俺の席。一年五組の、この席だよ」

 そんなものを覚えて、いったい私にどうしろというのだ。まったく、どうしてくれるんだ。胸が締め付けられる。

「もっと、さくらさんのことを、たくさん教えて。好きなものや嫌いなこと、笑った顔や怒った顔も見せて。それで、いっぱい俺のことを知って」

「……どうして」

「好きだから。好きな人のことは何でも知りたいし、知ってほしい」

 開けっ放しの窓から風がふわりと入ってきて、カーテンと私の心を揺らした。

「君は、とてもワガママで、残酷な人だね」

「うん、そうだよ。さくらさん限定だけどね」

 本当にやめてほしい。私は、泳ぎが得意じゃないの。このままじゃ、溺れてしまう。

「さくらさん」

 そんな優しい声で、呼ばないで。

「好きだよ」

 そんな嬉しそうな顔で、囁かないで。

「……知っているよ」

 だって私は、それだけしか言ってあげられないのだから――

「うん。それでいいんだ。それで……。よし、校舎探検に行こう」

 妙に明るい声を出して立ち上がり、教室の戸を開けて廊下へと出て行く彼。その背を見つめて、私は声も出さずに呟いた。

 ――嘘吐き。

 一個覚えたよ。君は嘘を吐く時、私の目を見ないんだね。

「さくらさん、どうしたの? 行こう」

 ついてこない私に気付き、顔だけひょっこり戸から覗かせた彼が、無邪気に誘う。その姿からは、先程までの空気は消えていた。

「……今行く」

 私が追いつくのを待って、彼は歩き出す。今気付いたが、彼はゆっくり歩いてくれていた。これだけ長い脚だ。歩幅もさぞ大きいだろうに。それが私のためであり、私とできるだけ長く一緒にいるためなのだろうかと想像すると、こそばゆい気持ちになった。

 気取られたくなくて、視線を周りへ向ける。廊下には変わらず、ちらほらと生徒たちがいた。彼が視界に入ると、無意識にその姿を目で追っている。やはり、この容姿は目立つのだ。その中で、一人の女子生徒が彼に気付き、笑顔を向けた。

「黒崎くん、どこかに行くの?」

「うん。じゃあね」

「えっ、あ……うん。またね」

 同級生らしき彼女に話し掛けられたというのに、彼は足を止めることなく手を振って歩いて行く。結構、可愛い子だったのに。もっと喋りたそうだったよ? それなのに、素っ気なくして……。

 私の視線に気付いたのか、彼が目線だけをこちらへ向けてきた。この何げない仕草さえ様になるのは、どうにかならないものだろうか。

「やっぱり、モテるんだね」

「そうかな」

「そうでしょ。さっきの子、すごく可愛かったのに。良いの?」

「良いも何も……今は、さくらさんとデートしてるのに。他に時間を取られるなんて、あり得ないよ」

 左様ですか。

「それとも何? 俺は今、試されていたのかな?」

「え?」

「俺はさくらさんが好きって言ってるのに、そんなこと言われるなんてって怒って良かったのかな?」

 怒って良いの? だって……もう怒っているくせに。

「わかった。私が悪かったよ。もう言わない」

「本当に、わかってくれてるのかな?」

 唇を尖らせて言うんじゃないよ、まったく。何しても格好いいくせに、何しても可愛いなんてどういうことだ。

「ま、いっか」

 何が楽しいのか、笑って。傍目には一人で校舎内をぶらつく彼は、隣校舎へ向かったり、普段は滅多に行くことのない廊下の端まで足を運んでみたりしている。そうして、どこに何があるのかを確かめつつも、あれが変だとかこんなものがあるだとか、目に映る一つ一つを私に報告してくる。同じものを見ているのだから言われなくてもわかっているのだけれど、なんだかそんな様子が微笑ましくて、私も案外楽しんでいた。

「なんだ。誰がはしゃいでいるのかと思えば、黒崎か」

「先生……」

「何をやっているんだ? こんなところで。遊んでいないで、部活の見学に行くか、帰って予習復習するかしろよ」

 通りかかった教師に声を掛けられ、ピタッと動きを止める彼。男は、そのまま通り過ぎて行った。

「怒られちゃったね」

 別に怒られたわけではないと思うが。

「行こうか」

 さっきの担任なんだ、などと言いながら外へと向かって行く彼。子どものようにはしゃいでいたのを見られて気恥ずかしいのか、誰にも内緒だよと人差し指を口元に当て悪戯に笑ってみせる。内緒も何も、私の声なんて他の人には届かないのに。そんなことを言う余裕さえ、与えられてはいなかった。

 実体がなくて、良かったかもしれない。私の身が持たない。心臓がいくつあっても、足りやしない。これからこんな日々が続くのかと思うと、頭を抱えたくなった。翻弄なんて言葉じゃ温いくらいに、侵されていきそうだ。

「さくらさん」

「何?」

「何でもないよ。呼びたかっただけ」

 無邪気とは、なんて恐ろしい言葉だろうか。これで悪気がないのだから。まったく、困った子どもに捕まってしまったものだ。

 そして私も、ほとほと困った人間だったらしい。わかりきった未来が待っていると知っているのに、禁断の果実の甘美な香りに抗えず、誘いの手を取ってしまったのだから。

 後で泣くのは、私なのに。なんて愚かなピエロだろう。この時は、頭の隅でそう思っていた。微塵も疑うことなく。未来など、見えるはずもないというのに。

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