1-2

 広がる景色に、目を細める。

 暖かな風が悪戯に吹き、芽吹いた花びらをそこかしこへ散らした。晴れたり雨が降ったりと、最近の雲は忙しない。行き交う人の服装も、随分と身軽になったようだ。

「春だねえ」

 そんなことを呟き、私は見慣れた景色から目を逸らす。

 ぱさりと揺れる長い黒髪が、視界を塞いだ。それを耳にかけながら、溜息を一つ。それは、いつもの退屈によって生まれたものではなかった。

 どうやら、今日は始業式のようだ。

 春休みの静けさを打ち消すように、生徒たちの賑やかな声があちこちから聞こえてくる。私は、いつものように学校の桜の木の枝へ腰掛けながら、久々に登校してきた学生たちを見下ろしていた。

 ……あの子は、この中のどこかにいるのだろうか――無意識に目が探していることに気付いた瞬間、私はぶんぶんと首を横に振っていた。

 どうして思い浮かべてしまうのだろうか――ふとした瞬間に考えているのは、入学式に会った彼のこと。

 後悔などしていない。私は幽霊なのだから、人と恋愛などできるわけがない。

 そう――私は、もう生きてはいないのだから。

 蘇った数日前の記憶を払うように、私は目を閉じた。


 ――あれは、十年前のことだった。気が付いたら、私はここにいた。すぐさま自分に肉体のないことを察した私は、その理由が知りたくて記憶を辿った。

 しかし、自分が病気だったということと、この学校の三年の生徒だったこと。そして、名前……。それ以外に、覚えていることはなかった。何一つ、思い出せなかったのだ。

 そうして、そこかしこを彷徨って、この高校の敷地内から出られないということを知った。どうしてこの場に囚われているのか、それは私にもわからない。失ってしまった記憶の中にヒントがあるような気がして、当時は想起に繋がる何かがないか、学校中をくまなく探したものだ。

 しかし、それもいつしか止めてしまった。諦めた。何一つ、欠片さえ見つけることができなかったからだ。

 得たことといえば、ただ一つ――何にも触れられず、誰の目にも映らない、そんな虚しいリアル。

 一人だけ長い永い夢を、覚めることのない悪夢を見続けているかのよう――いや、そもそも夢だったならば、どんなに良かったか。

 これが現実――ならば、こんな空虚な思いを抱いて、これからどうすればいいのか。何のために、自分はここにいるのだろうか……。考える時間は、たくさんある。それが幸か不幸かは、思考し続けた先に決めればいい。どうせ、誰にも干渉されることのない、籠の中の自由なのだから。

 それから私は、ずっとこの枝にいる。こうして、大きな優しさに甘えている。この木が許可してくれたから。ここは唯一、私が体を預けることを許せる場所だ。

 何もせずにただここで、流れる時を見てきた。毎日、時を刻み数えるという、途方もなく無意味なこと。それだけをこの十年間、止め時を失った私はずっと続けている。

 それが、ただ空虚感を煽るだけと知りながらも――

「もう、あれから十年か……」

 誰に言うわけでもなく呟いた声は、届かず消える――そのはずだった。

「十年間、ここにいるの?」

 突然聞こえてきた声に、動くわけもない心臓が跳ねた。

「良かった。また会えた」

 木の下には、眩しい笑顔。間違えるはずがない。入学式の時の、あの子だ。

「どうして……」

 どうして、ここに?

 どうして、笑っているの?

 どうして、そんなに嬉しそうにしているの?

 どうして……あの日、傷ついた顔で愕然としていたくせに――

「あの時どこかに消えちゃったから、もう会えないかと思った」

 心底嬉しいとでも言うかのように、彼は満面の笑みで私を見上げた。向けられる眼差しに、いっぱいの想いが詰め込まれている。

 その視線に、ぎゅうっと胸の辺りが苦しくなった。していない息が、しづらい。

 目を逸らすこともできず、たくさんの「どうして」をぐっと呑み込んで。私は、彼の目の前まで下りて行った。呑んだものよりも、言わないといけないことがあると思ったからだ。

 そんな呆れなど微塵も勘付いていない様子で、彼は私が近付いたことに更に笑みを深くした。

 イケメンの無邪気な笑顔って、可愛い。破壊力がある……じゃなくて!

「君は、私が幽霊だってことを、ちゃんとわかっているの?」

「もちろん」

「そ、そう……」

 笑顔であっさりと肯定されたことに、出鼻を挫かれる。

 この子は、私が呆れていることに気付いていないのだろうか。人の気持ちを汲めない子なのだろうか。鈍感なのだろうか。もしもわかっていてやっているのなら、質が悪い。

 そんな考えが、顔に出ていたのだろう。彼は、少し慌てた様子で言葉を継いだ。

「怒らないで。確かに時々、生きている人か幽霊なのかがわからないこともあるけど、今回はちゃんとわかってるよ」

「……わかっていて、あんなことを?」

「あんなことって、もしかして告白のこと? そんな言い方、しないでほしいな。めちゃくちゃ緊張したし、真剣だったのに」

 ムッとした顔で、拗ねたように言う新入生。どうも、外見がこれなので忘れそうになってしまうが、改めて彼が私より年下なのだという事実を認識させられた。

「それは、ごめんなさい……だけど、尚更理解ができない。私が幽霊だとわかっていて、付き合ってほしいだなんて……」

 彼の方が私よりも背が高いので、自然と見上げる形になる。すると、もう機嫌が直ったのか、無邪気な瞳と視線がぶつかった。

「理解できないなんて言われても。好きな人に好きって言うのに、説明や理由が必要なの?」

「――え……」

 言葉を失うとは、こういうことかと思った。ダメだ。このままだと、呑まれる。

「そ、それは……生きている人の話でしょ。もう死んでいる人間を口説いて、どうするのよ」

「そんなこと言われたって……。だって、好きになっちゃったんだから、仕方ないでしょ?」

 眩しくて、自信たっぷりの笑顔。偽りのない気持ちをぶつけてくる言葉。

 いったい、どうすれば諦めてくれるというの? こんな意味のないことの終着点は、どこ?

 そう私が戸惑っていると、彼は頭の後ろを掻きながら、構わず話し続けた。それはどこか照れくさそうで、口はまったく挟めそうにない。

「俺、中二の時に進路とか、まあ、いろいろ悩んでいた頃に、この学校の前まで来たことがあるんだ。気分転換に散歩をしたかったのと、学校の雰囲気を見ておきたいなと思ったのが理由なんだけどね。その時だよ。この木の枝に座っていた貴方を、見つけたんだ」

 知らなかった。この木は割と正門から近いのに、まったく気付かなかった。

「その姿に、一目惚れした。だから、この学校を志望したんだ。でも、当時の学力じゃギリギリだったから、それからめちゃくちゃ勉強した。貴方のそばにいたくて、努力して、それでこの学校に入学したんだ」

 ああ、もう……どうして、そんなに真剣な目で私を見るのだろうか。困る。困るのだ。やっと、今の環境に慣れたのに。掻き乱されそうで、呑まれそうで、翻弄されそうで、私は……。

「入学式の日にやっと貴方を目の前にして、そばに立つことができて、すごく嬉しくて。ようやく、ここまで来れたって思って、真剣に告白したのにさ……なのに、貴方の返事は幽霊だからダメ、だもんな」

 数分前の自分に、彼に呆れていた私に教えてあげたい。侮っていた年下の彼は、人の気持ちを汲めない子でも、鈍感でもない。むしろ、私に怒ってさえいる。年齢にそぐわない、妙に賢い思考で言葉を放つ。それが違和感で、なんだか気になった。

「しかも、それだけ言って消えちゃうなんて、ひどいと思うんだけど。俺、かなりショック受けたし、落ち込んだし。フラれたって思ってさ、ご飯の味もわからなかったんだからね」

 ……ご飯は食べたのね。って、そうじゃないか。

「でも、その後考えたんだけどさ。俺、まだフラれてないよね。幽霊ってことを気にしているのなら、俺は構わないよ。貴方といられるなら、手も繋げなくていい」

 ――え?

「いや、あの……理由は何であれ、私は断ったよ、ね?」

 だから、まだフラれていないとか、よくわからないポジティブなことを言われても困るんですけど……。

 そう私が戸惑っていると、目の前の彼はきょとんとしていた。

 どうして、びっくりされるの? 驚いているのは、こちらなのだけれど。

「え? 何で? もしかして、俺のこと嫌い?」

「え、いや、そんなことは……」

 嫌いかと聞くのって、ズルい人がすることだと思う。わかっていてやっているのだろうか。

「幽霊ってことを抜きにしても、俺じゃダメ?」

「……」

 しゅんとする彼に、思わず手を差し伸べたくなってしまった。

 困った。返す言葉が出てこない。ただ一言「そうだ」と、突き放してしまえばいいだけなのに。

 早く、早く言わなきゃ……。そう思うのに、どうして声が出ないのだろう。

「……そうだよね。いきなり現れて、こんなのおかしいよね。ごめんなさい、困らせて……つい浮かれちゃって、はしゃぎすぎた」

 今度は、先程までとは打って変わった、弱々しい声。どうやら、彼なりに反省したらしい。傷付いた顔を見ていられなくて、私は目を逸らしてしまった。なんと声を掛ければいいのか、わからない。

「じゃあさ、恋人じゃなくていい。三年だけだと思って、友達としてそばにいることを許してよ」

「え――」

 なんてことを言うのだろう。そして、私は彼になんてことを言わせてしまったのだろう。私は、衝撃に言葉を失ってしまった。俯いていた彼の顔が、見開いた私の瞳を捉える。

「ごめんなさい。俺、ひどいことを言ってるって、わかってるつもりだよ。これから三年間ずっとそばにいて、そして貴方を残して一人だけ卒業していなくなるんだから。こんなの、自己中なワガママだ。だけど、どうしても諦められなくて……だから、お願い……」

 ああ、そんな風に泣きそうな声で言うなんて、本当にズルい。

 この子はやっぱり、妙に大人びていると思う。そして時々、幼い子どもになる。

 ワガママな、年下の男の子。

 表情がころころと変わって、見ていて飽きないのだから不思議だ。

「そうね……」

 三年で終わる関係――いや、そんなに続くかどうか。だって彼の周りには、綺麗な子も可愛い子もたくさんいるだろうし。いつかもっと素敵な人と出会って、真っ当に生きるのだろう。その時が来たら、私は寂しいと思うかもしれないだろうけれど、そうあるべきなんだ。こうして私に気持ちが向いているのなんて、一時のことだろうし。

 それでも、こんなに想ってもらえることは正直嬉しい。好意を向けられるのなんて、いつぶりだろうか。

 人と話したのだって、十年ぶりだった。だからだろう。入学式の日から、彼のことを忘れられなかったのは。

 私だって、彼との時間をどこかで楽しんでいる――だから、いいかもしれない。どうせ一人で過ぎ行くだけの、惰性の日々だ。退屈に流れた十年間に、ちょっとした彩りが添えられるだけ。そうして、また元に戻るだけ。

 終わるとわかっている関係――孤独感に今更傷付いたところで、そう……構いやしない。

 生前の私が何をしたか知らないけれど、これも何かの罰なのかもしれない。

 それに、ここで断ったとしても、どうせ構わず今日みたいに現れるだろうということが、容易に想像できてしまった。

「わかった。好きにすればいい。どうせ、私はこの学校から出られないのだから」

 そう言うと、彼は満開の花のように、嬉しそうな顔で笑った。

「本当に? ありがとう! あ、そういや、まだ名前も言ってなかったね。俺はレオ。黒崎礼央くろさきれおだよ」

「……さくら」

「さくら……綺麗な名前だ」

 さあっと風が吹いた。春の風は、どうしてこう悪戯なのだろうか。花びらを乗せて、彼の笑顔を更に煌かせる。

 すとんと、落ちる音がした。

 恋って、するものじゃないんだね。死んでから知るとは、思わなかったよ。

 学校のチャイムが鳴り響く。シンデレラにかけられた魔法が解ける時間を、告げるみたいに。

「もう行かないと。また来るから。またね、さくらさん」

 そう言って、彼は足早に校舎へと駆けていく。時折振り返りながら、ブンブンと大きく手を振って。

「騒がしい子……」

 思わず、くすりと笑みが零れる。もう姿も見えないというのに、私は彼が消えていった校舎の入り口を、ずっと見ていた。

 しかし、ふっと去来した想いに、今度は嘲笑する。

「滑稽ね……」

 この日私たちは、互いと自らを偽った。エイプリルフールでもないというのに。

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