異世界召喚されて出会った彼はお触り厳禁でした

やらぎはら響

第1話

「やめてよ、離して!」

夢中でもがきながら、留衣は暗闇に目を凝らした。

三歳の時に姿を忽然と消した祖母の遺産を食いつぶした両親が、金と引き換えに十六になった娘をどこぞの嫁にやると言われたのが昼間。

そして夜になり寝付いていたら、旦那になる予定だと言われた男に寝込みを襲われた。

長い黒髪がもがくたびに布団の上にバサバサと散る。

目の前の男は、留衣がもがくたびに舌打ちをした。

夜着の白い浴衣の胸元を無理矢理はだけられたところで。

「は、なして!」

 渾身の蹴りを男の腹部に入れると、ゆるんだ拘束の下から素早く這い出した。

 そのまま障子扉を開き、転がるように縁側から裸足で土の上へと降り立つ。

「待て!」

 追いかけてくる男の姿に庭の奥へ逃げようとして、留衣は足をもつれさせた。

 べしゃりと転んだ瞬間、右足にかすかにビリリと痛みが走る。

 白い浴衣が土にまみれて汚れたのも気にせず立ち上がろうとしたところで、後ろから太い指が留衣の華奢な二の腕を掴んだ。

「きゃああ!」

 悲鳴を上げた刹那だった。

 眩い光が留衣の体を包み込む。

 留衣は目を開けていられずに、ぎゅっと瞼を閉じた。

 そして、ふっと掴まれていた腕の感覚がなくなりその場にまた転ぶ。

「いたっ」

 何が起きたのかわからずに、転んだまま顔を上げると。

「何者です」

 凛とした声が留衣の耳をついた。

 怜悧なその響きに、何が何だかわからないと思いながら留衣が顔を上げる。

 そこには一人の男がこちらを睨み下ろしていた。

 二十五、六に見える男は、その白い肌と人形のように整った顔に彼が本当に人間なのかと思わせるほどに綺麗だった。

 鳶色の瞳に通った鼻筋、薄い唇。

 なにより左側でゆるく編まれた長い蜂蜜色の髪が、夜闇にぼんやりと光っているように見えて幻想的だった。

 優男な外見なのに、身につけている黒いシャツの上からは鍛えているらしい引き締まった体が見て取れる。

 思わずぼうっと見とれていると、さくりと草を踏む音がして男が一歩足を踏み出した。

 そこでようやく、留衣は土の剥きだしている自宅の庭ではなく青々とした芝生の上に倒れていることに気付いた。

 きょろりと見回せば、追いかけてきたはずの男もいない。

 そしてそれ以上に驚いたのが、男の背後に煌々と明かりのついた建物があるのだが、見慣れた自宅の古い日本家屋ではない。

 夜の帳の中でもわかる白亜の建物二階建てで、中から光が漏れている窓の形はまるでヨーロッパの建物のようだった。

「答えなさい。何者ですか」

 冷たい声に、慌てて体を起こす。

 どうなっているのだと忙しなく周囲を見回すが、まったく見覚えがない。

「あ、あの」

 こちらが誰なんだと聞きたいと思い声を出すと、男が留衣の目の前まで歩いてきた。

「黒髪……?それにその服」

 訝し気に細められた目に、なんだなんだと思う。

 とりあえず現状把握しなくてはと思って、ここはどこなんだと口を開きかけると。

「ここはトリアスト国の王都イルレーゼです。聞き覚えは?」

逆に質問されてしまった。

しかもまったく聞き覚えがない名前だ。

「え、えと、ない。知らない」

 ふるふると首を振る。

 自分は日本の自宅にいた筈だ。

 やたらとでかくて古いだけの。

「では、日本という言葉に聞き覚えは?」

 質問にきょとりと留衣は目をまたたいた。

「聞き覚えも何も、日本でしょ?ここ」

 そこまで答えると、目の前の男はあからさまに面倒くさそうに溜息を吐いた。

 綺麗な顔は眉根を寄せている。

「違いますよ、さっきも言いました。ここはイルレーゼです。日本ではありません」

「え?で、でも私さっきまで家で」

「ここはあなたのいた場所とは違う世界です」

 はっきりと言われたその言葉に、留衣はサアーッと血の気が引いた。

「嘘でしょ」

「こちらが嘘だと思いたい、面倒な。とりあえず立ってください、いつまでもそこにいられても迷惑です」

 あんまりな言いぐさだ。

 少々むっとしながらも、言われたことは一利あるので立ち上がろうとして、留衣はバランスを崩した。

 さきほどくじいたらしく、右足首に軽い痛みが走ったのだ。

 転びそうになり慌てて、目の前にいる男の右手にしがみつくと。

「ッ!」

「わっ」

 掴んだ瞬間、大きく手をはらわれた。

 そのせいで尻餅をついてしまう。

 しかし手をはらわれたことも吃驚したが、それ以上に。

「なんか、いま……」

 振り払われた手をじっと見下ろす。

 彼に触れた所から何かが吸い込まれたというか、流れ出た感覚があったのだ。

 特に痛いとか、気持ち悪いとかはない。

 しかし、確かに何かが移動した。

 じっと触れた手のひらを見下ろしていると、頭上から声が降ってきた。

「私に触らないでください」

 硬質な声に、その顔を仰ぎ見る。

 そこには冷めた無表情があるだけだ。

「え……すみません」

 なんだかとてもいけないことをしたのだろうかと思いながら謝罪をとりあえず口にすると、男はくるりと建物の方へ踵を返した。

「ついてきなさい。ああそれと、胸見えてますよ」

「うわあああ!」

 言われた瞬間自分の体を見下ろすと、浴衣の襟元が大きくはだけていた。

 慌てて襟元をかき掴んで、白いささやかな胸を隠す。

 顔が耳まで赤くなるのを感じたが、男がさっさと歩いて行くので慌てて立ち上がり、ひょこひょこと右足をかばいながら追いかけた。

 この場所は庭だったらしく、開け放たれているテラスの中へと男が歩いていく。

 追いかけて室内に入ろうとしたところで、留衣は自分の足が泥だらけのことに気付いた。

 このままでは室内を汚してしまうと立ち止まったら、男が肩越しに振り返った。

「どうしました?」

「足が泥だらけだから部屋の中汚しちゃうなと思って」

 留衣が眉を下げたが。

「かまいません。入りなさい」

 言われてしまえば抵抗はあるが、仕方ない。

 裸足の足でテラスから室内へと足を踏み入れると、ふかふかの絨毯の感触がする。

(これ絶対に高い、絶対に高いよ!)

 なるべく汚さないようにと怖々歩く。

 室内は落ち着いた色合いの部屋だった。

 暖炉があり、部屋の真ん中に一人がけのソファと長椅子が置いてある。

 ローテーブルの上に本が置いてあるので、おそらく読書をしていたのだろう。

 しかしいたるところに何やら石の塊やら、よくわからない置物というか道具のようなものが床に転がっていて散らかっている。

「座ってください」

 もはや浴衣が汚れているのを気にしない方向にして、留衣は長椅子へと腰を下ろした。

 でないと、冷たい鳶色の眼差しにさっさと座れと射抜かれそうだ。

 男が一人用のソファに座ると、ついで部屋の扉がノックされた。

「入れ」

 扉を開けて入ってきたのは、ワゴンをカラカラと押した二十歳くらいの女性だった。

 水色の髪を耳下で切りそろえていて、黒いロングワンピースに白いエプロンをつけている。

 いわゆるメイドだった。

 白い顔は無表情で、男以上に作り物めいて見える。

 いつのまにお茶を持ってくるように言ったのだろう。

 メイドが黙ってお茶の準備をテーブルにしていくのを見ていて、留衣は気づいた。

「影がない……」

 オレンジ色に淡く照らされている室内で、留衣と男の影は濃く落ちているのにメイドには一切の影がなかった。

 ぱちぱちと目をまたたくと。

「人間じゃないですからね」

 さらりと言われた。

 一瞬何を言われたのか分からずにぼけっと男を見返して、ついでメイドを見やる。

 メイドは無表情にお茶の準備が終わって一礼すると、部屋の隅へと控えた。

 その足元には、やはり影がない。

「おばけ?」

 思わず首を傾げる。

 しかしおばけにしては存在感はしっかりあるなと思う。

「似たようなものですね。蝶々を依り代に私が魔力で作った思念体です」

 今のセリフに違和感を覚えて留衣は男へ視線を移した。

 男は白地にミモザ柄のティーカップを綺麗な所作で持ち上げている。

「なんかよくわからないけど今、魔力って言った?魔力って魔法のこと?お兄さんは魔法使いなの?」

「質問ばかりですね」

 そりゃそうだ。

 わからないことだらけだし、不思議なことだらけだ。

「いやだって、私さっきまで家にいたのにどう見てもここ家じゃないし、違う世界とか魔法とか言われるし」

 あわあわとまくし立てると、とりあえずお茶を飲みなさいと言われてしまい、留衣はおそるおそる両手でティーカップに手を伸ばした。

 温かい飴色の紅茶を口に含むと、ほっと息を吐く。

 それを確認すると、男はティーカップをソーサーに戻した。

「説明をしましょうか」

 その言葉にこくりと頷き、カップをソーサーへと置く。

「さっきも言いましたがここはトリアスト国の王都イルレーゼ。魔法が当たり前にある世界です。あなたのいた地球という世界ではありません」

 ハッキリ言われてしまった。

 なんとなくさっきからの言葉で、日本どころかおとぎ話の世界だと思っていたら、本当に違う世界とは。

「いるんですよ、あなた以外にも日本という場所にいたという人が」

「ええっ!」

 思わず大声を上げてしまった。

 ティーカップを戻しておいてよかったと思う。

 持ったままだったら絶対に落としていた。

「そ、その人は?私戻れるんですか?」

「その方は亡くなりました。戻れるかは知りません」

「そんな……」 

断言されて留衣は血の気が引いた。

「ただ、あなたと同じような服を着ていましたし、何よりトリアストに黒髪黒目はいません」

 思わず浴衣とその上にさらりと流れる黒髪を見下ろした。

 男はチラリと暖炉の上にある小さな額縁に目線をやった。

 それを追いかけると、そこには上品に笑う着物姿の老婦人が描かれている。

 確かに着物を着ているが、それ以上に驚いたのが。

「おばあちゃん!」

 目を丸くした留衣は慌てて立ち上がり、その額縁へと近づいた。

「おばあちゃん?あなた、フミの事を知っているのですか」

「私のおばあちゃんだよ、三歳の時に急にいなくなったの。間違いないよ、名前だってフミって言うんだから」

 まくし立てると、男は目を見張った。

 人形のような無表情が、わずかに崩れて人間味を帯びる。

「フミの孫……」

 ポツリと呟くと、額に手を当てて深々と溜息を吐いた。

「わかりました。城にでも保護してもらおうと思いましたが、フミの孫なら面倒見ましょう。彼女には世話になりましたから」

「え?いいの。ありがたいけど」

 しげしげと祖母の肖像画を見ていた留衣は、男の言葉にきょとんと小首を傾げた。

「ほかに行く当てもないでしょう」

「まあ確かに。じゃあお世話になります」

 ずうずうしいとは思ったが、ありがたい申し出だ。

 ぺこりと頭を下げる。

「ただし、私には一切触れないでくださいね。でないと命の保証はしませんよ」

 なんとも物騒な物言いだ。

「私は他人の魔力を奪う力を持っています。魔力は枯渇すると死に至りますからね」

「私にも魔力なんてあるの?」

 思わず両手を見下ろすと。

「ありますよ。だいぶ魔力が多いですね」

「へえー」

 マジマジと思わず手のひらを見つめてしまう。

 先ほど触れた時に何かが吸い取られる感覚があったことを思い出す。

(あれが魔力を吸うって感覚なのかな?)

 特に何とも思わなかったけれど、と思う。

「おばあちゃんにも魔力ってあったの?」

 男を見やると、目をゆるく伏せて。

「覚えていません」

 今までで一番の、拒絶するような硬い声が返ってきた。

 驚いて眉を上げると、男はソファから立ち上がり部屋の扉へと向かって行った。

「あとはニーナに任せます」

 メイドの名前だったのだろう。

 部屋の隅に控えていた彼女が一礼する。

 そのまま背中を向けて出ていこうとする男に、慌てて留衣は声をかけた。

「私、留衣っていうの。あなたは?」

「トゥーイです」

 端的に答えるとトゥーイは出ていってしまい、パタンと扉は閉じられてしまった。

「なんて不愛想な」

 思わず半眼になってしまう。

 はあ、とため息を思わず吐き出す。

「ルイ様、お風呂へ案内します」

 声をかけられて振り返ると、ニーナが小さく頭を下げてそう言った。

「お風呂!ありがとう」

 髪から浴衣に足まで土にまみれているので、ありがたい。

 ニーナの案内で風呂場へと着くと、そこは湯気でホカホカと温かかった。

 白いタイルの上に陶器の猫足のバスタブがあった。

 タイルには所々に金色で小花が描かれていて、なんとも上品なバスルームだ。

 さて、と浴衣を脱ごうとすると。

「失礼します」

 ニーナが留衣の浴衣を脱がせだした。

 これには留衣も吃驚だ。

「ひえええ!一人で脱げるからっ」

 慌ててニーナから一歩後すさる。

 しかしニーナは表情を変えなかった。

「ではお背中と御髪を洗わせていただきます」

「大丈夫、一人で出来るから!ていうこの世界ではこれが当たり前なの?」

 浴衣を死守しながら声を上げると。

「そうですね、地位のある家柄などは」

 淡々と答えるニーナに、思わず留衣は目を丸くした。

「まさかさっきのトゥーイさんも?」

 女性に体を洗ってもらっているのかと驚いたが。

「いいえ、トゥーイ様はすべて一人でなさいます」

「じゃあ私もそれで!」

 この年になって誰かに入浴の手伝いをされるなど恥ずかしい以外のなにものでもない。

「しかし」

「それより足を痛めたから湿布とかあると助かるんだけど」

 ニーナの声に被せるように頼み事を言うと、彼女は一度まばたいて留衣の服を脱がせようとしていた手を下ろした。

「では手当の準備と寝室の用意をしてきます。着替えはそちらに」

 一礼してバスルームを出ていくニーナの背中を見送って、留衣ははあーと息を吐き出した。

「助かった……」

 ぽつりと漏らして、いそいそと泥だらけの浴衣を脱ぐ。

 まずは泥を落とそうと、金色の蛇口をひねりシャワーを浴びて体と髪を洗ってからバスタブへと体を沈めた。

「にしても、魔法のある国なんて夢みたいだけど夢じゃないんだよなあ」

 温かいお湯の感触がどう考えても夢にしてはリアルすぎる。

「おばあちゃん行方不明だと思ったら、死んだのかあ……」

 ポツリと漏らす。

 祖母がいたのは留衣が三歳の頃までだ。

 享楽的な両親は自分の遊ぶこと優先だったので、面倒を見てくれていたのは祖母だった。

 優しくて美味しいご飯を作ってくれて大好きだった。

 両親は情の薄い人たちだったから、祖母がいなくなった当時はよく泣いたものだ。

 成長するにつれて見つかるという希望は持てなくなっていたけれど、実の両親よりも大好きだった祖母。

 それがこんな場所でいつのまにか亡くなっていたというのは、留衣にとっては行方がわかった喜びと二度と会えないという悲しみでぐちゃぐちゃだった。

「おばあちゃん……」

 じわりと目尻に涙が浮かぶのを、ばしゃんと湯舟に潜ってごまかした。

(今は、これからどうするか考えないと)

 ぷはっと水面に顔を出して、ぐいと前髪を後ろへ流す。

「とりあえずトゥーイさんが面倒みてくれるっていうし、ありがたくお世話になろう」

 よしと気合を入れて湯舟から上がり着替えようとすると、それはおそらくトゥーイのものなのであろう。

 白いシャツが置いてあり、着て見ると裾が膝まであった。

「でかい……」

 袖をまくりながら、背が高かったもんなと思う。

 冷たい飲み物を運んできたニーナに礼を言って足に手当をしてもらい、寝室へと案内してもらった。

 ベッドとライトテーブルがあるだけのシンプルな部屋に案内されたので、礼を言ってからニーナと別れてベッドへ潜り込む。 

 眠れないだろうかと心配したが、結構図太い留衣の神経は律儀に眠気を引き起こして、すやすやと眠りについたのだった。

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