3.白いベッドと赤い蝶
「ちょっと、やめてください! まだ授業中なんです!!」
教室の後方、スライド式のドアが乱暴に開けられた。慣性ではなく、終わりまで手の動きによって開けられきったドアは大きな音を立て、その勢いの強さでドアにとりつけられていた曇りガラスが割れた。
生徒の一人が小さな悲鳴を上げ、教室内の視線すべては開け放たれた扉へ、そして、そこから入室してきたボロボロの女へと向けられる。
「ちょっ、
ぼさぼさの髪、ぼろぼろの爪、深い隈と血走った目、どう考えてもまともな様子ではないその女は、制止しようとする数人の教師たちの存在など意に介さず、ただ一人の名前を叫び続ける。必死に、この世の終わりかとも思える形相で。
「そ、そらッ、空音ぇっ!」
すべての視線が一斉に空音へと向けられた。
「空音っ、ああ、見つけた……」
女は縋りつくように、何人もの教師を引きずりながらも声を上げる。
「お父さんがいないの、ねえ、探さないと──」
不幸にも夫を亡くした一人の女。その末路がこれだ。心身を喪失し、起きては寝て、泣いては寝て、たまに彼の名前を呟く。ただそれだけだったらよいものを。
母が授業中の教室に乱入したのは、これが初めてではない。何度も何度も、何度も何度も、寄生と錯乱を連れ立って彼女は空音の前へと現れた。
次第に、空音の周囲から人は消え失せた。
そりゃあ、そうだ。父親を無くして以来、ただでさえ本人は目に見えて人を遠ざけていた。そして親は授業中の教室に割って入る。誰がそんな人間と共に居たいと思う?
すべてが、そう、すべてが嫌だった。錯乱する母親も、それを知って妙に気を遣おうとしてくるクラスメイトたちも。
だから、周囲から人が失せてくれたことが少しだけありがたかった。おもいきり、悲劇に浸って膝を抱えることができたから。
◇
「あ、起きた」
聞き覚えのある声で、空音は目を覚ました。
病的なまでに白いベッド、手に刺さった点滴が少し痛々しい。首を動かしたときに抵抗があったと思ったら、耳には愛用のヘッドフォンが被せられていた。
ベッドで眠る人間にヘッドフォンをかけようなんてまず思わない。ということは空音についてよく知っている人間がいるということであり、聴力についてまで知っているとなると、自然と数人へと絞られる。
空音の最後の記憶は学校の廊下。誰かがそこから運びだしたとなると、その答えは一つに絞られるだろう。
「──
「だいせいかーい!」
ベッドを取り囲むカーテンが開き、そこから顔をのぞかせた桜色の少女は満開の花のような笑顔を浮かべた。
彼女を苦手とする人間は多少いるだろうが、嫌いだと言い切れる者はほとんどいないだろう。人を惹きつけてやまない、一種のカリスマ性を持つ少女だ。
「やっぱり桜盲だ。なんで桜盲が……い"っ」
ベッドから身体を起こそうとすると腹部に痛みが走った。顔を歪める空音を、桜盲が慌ててベッドの上へと押し戻す。
「まだダメだよ、縫ってから数分くらいだから」
「縫、う?」
空音がそっと服を捲り上げて見れば、脇腹に小さな縫合痕が見て取れた。縫合に使われたのは赤い糸のようで、珍しいものだと空音は目をぱちくりさせた。
「ガラス片が結構深くまで、ね。ちょっと危なそうだからその場で摘出、縫合したけど」
摘出に、縫合? 場にそぐわないその台詞に空音は思わず口をぽかんと開けてしまった。
「……桜盲が、やったの?」
「えっ、あ、うん。だいじょーぶ! 初めてじゃないし!」
手を目の前に付きだし、ピースを決める桜盲。
よかった。もし “はじめてだよ! 成功してよかったー!” なんて言っていたら殴りつけていたところだった。それを言いかねないうえに、やりかねないのが桜盲という人物なのだ。
とはいえ、疑問は尽きない。記憶の最後は──そうだ。先生を葬った。この手、この──?
ふと、空音は自分の両手へ目線を降ろした。
なんの変哲もない、手。この手を鳴らし、この手を振るい、化け物と、化け物が、なにが、起きた? 私は、なにを起こした?
「あー、あー、落ち着いて落ち着いて!」
錯乱へ沈み始めていた空音の思考を桜盲の声が引き上げた。
そっと空音の両手を自らのそれをもって包み、言い聞かせるように言う。
「全部説明するから、ね?」
◇
「空音はさ、耳いいじゃん?」
空音が寝かされているベッドに腰をかけると、桜盲はそう言った。
空音と桜盲は幼い頃からの付き合いだ。空音の聴覚についても知っているし、耳栓やらヘッドフォンやらを上手く扱えなかった時期は人が多いところに遊びに行けなかった。そのせいで迷惑をかけた記憶もある。
「それはもう、ものすっごくいいじゃん。常識なんかじゃあ測れないくらいに」
幼い子供用に両手を目一杯広げる桜盲に、空音は少し苦笑しながら答える。
「……それは、まあ」
「そんな“常識で測れない”がすこーし行き過ぎるとね──」
桜盲が右手の指を一本立てた。最初はなにかしらの数を表そうとしているのかと思った空音だが、その認識はすぐに覆ることとなった。
ひらひら、と。どこからともなく一匹の蝶々がカーテンの内側へ舞い込んできたのだ。その蝶々は桜盲が立てた指の先に止まるった。
「──私の
蝶はゆっくりと翅を広げ、閉じる。よくよく見れば、その蝶は自然由来のものではなかった。布かテープかを組み合わせて作られた蝶だ。蝶の模型、模して造られた非生物、どう考えたって、自立して飛ぶわけはない。
「これは、ある意味でのルールなんだ。私だけが持ち、私だけが行使できる法則」
「ほう……そく」
桜盲が少し微笑むと、どこからともなく二匹目の蝶々が羽ばたいた。そして三匹目、四、五──
いつの間にか、カーテンで区切られたベッドの周囲には蝶の楽園が繰り広げられていた。ベッドの上、カーテンの側面、空音の頭の上や、桜盲の肩。それぞれの蝶は自由に動き、羽ばたき、舞う。ある意味では幻想的な光景だ。
「リボンで作った蝶に、簡単な命令ができる。それが私の法則、《
“特に、縫合と分解は得意なんだよね”
桜盲がそう言うと、彼女の指先に止まる一匹がおじきでもするかのように触角を動かした。
「……すごい」
まるで、物語のようだ。いや、事実、そうなのかもしれない。
“耳が良い”なんて、この力の前では霞んで見える。
だが、感嘆の言葉を漏らす空音に、桜盲は困ったような顔で、
「……凄いのは、空音なんだけどね」
“ともかく”と続け、桜盲が指をちょっと動かした。途端、あれだけ自由に羽ばたいていた蝶はいっせいにほどけ、物言わぬ、短く切られたリボンへと変わって床に落ちた。
「しばらくは寝ててね、お夕飯は持ってきてあげるから!」
「あ、桜盲、そもそもここって──」
「ちゃんと寝ててよー!!」
空音の言葉が聞こえているのかいないのか。恐らくは聞こえていないのだろう。
桜盲は勢いのままに言い放つと、そのままカーテンの向こう側へ消えた。遅れて扉が開き、閉まる音が聞こえる。
勢いのままに行動をする癖はどうやら変わってはいないらしい。
さて、なにをしようかとふと見れば、ベッドに添うようにしておかれた棚に水差しとコップが置かれていた。水差しには結露ができており、中身が冷たい水であることが察せられる。
これ幸いと手を伸ばし、水差しを持ち上げて……
「……痛い」
そういえば、桜盲も安静にするように言っていたっけ。
それでも、喉は乾く。なるべく痛みがでないように、机に支えてもらいながらコップへと水を入れ、それを一気に喉へ流し込んだ。
冷たい。刺すような冷たさ。けれど、この冷たさもじきに室温に馴染んでいくのだろう。
空になったコップを置くと、空音は改めて自分の両手のひらを見つめた。天井照明に透かしてみる。なにも変化はない。まじまじと、手相一つ一つに目を近づけてみる。変な箇所など一つもない。けれどこの手が、この手で、空音は怪物を殺した。怪物になってしまった先生を殺した。
この記憶も、いつかは水差しのようになってくれるのだろうか。
室温に馴染んでくれるのだろうか。
◇
あれやこれやと考え事をしているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。空音を浅い眠りから起こしたのは、扉の開く音だった。結局カーテンの向こうを見ることはできていないので、扉がどこにあるのかは分からない。
結局、ここがどこだかもわかっていないのだ。最初は学校の保健室なのかとも思ったが、こんなに新品同然なベッドではなかった気がする。ということは病院なのだろうか。
そんなことを考える間にも、室内に入って来たらしい誰かはベッドに近づいてくる。桜盲ではないはずだ。桜盲だったら室内に入って来るなり大声でなにかを喋り始めるはず。反面、この誰かは一言も発さずに、ただ近づいてくる。
僅かに耳からヘッドフォンを浮かせ、音を聞く。君が悪いほどに無音な室内、本当に足音だけだ。
そして遂に、カーテンがゆっくりと捲られた。隙間から顔をのぞかせたのは……巨大な魔女帽。
「なんだつまらん、寝ていればいいものを」
そしてそれを被った幼い少女の姿だった。
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