ハル・シオンと暗の道 -7
「レト、いるの」
――はっ、と息を飲む音が響いた。焚き火が思いのほか明るくて、暗闇に慣れた目がなかなか順応しない。
「レト、わたしよ。いるなら返事をなさい」
ねえさん、とか細い声が聞こえた。揺らぐ火のせいで、暗闇がなお深いような気がした。足を踏み出す。地面に右足をついたらずきりと痛みが響いて、小さく悲鳴をあげてしまった。
足を引きずりながら、火に向かう。気配を読むなんて上等な真似はできないけど、弟ひとりしかいないように思えた。小さな影が立ち上がる。
「……ねえさん」
弟の赤毛が燃え上がるようだった。ホウキを地面に置いて、レトの顔を両手で包む。前髪をかきあげて、赤銅の目をのぞきこむ。少し、ほほの肉が削げている。焚き火の近くにいたせいか、おでこが熱かった。
生きていた。
「どこか、痛いところはない?」
「うん。べつに、ない……」
「レト、帰りましょう」
震える語尾を必死になだめる。帰ろう。はやく。わたしたちのベースに帰ろう。オレンジのエニシダが咲いて、白いテントが太陽の光を反射する、わたしたちの居場所に。
幼い手を握る。冷たい指先。生きているなんて嘘みたいだ。温めるためにレトの両手を包んだら、ぱっと振り払われた。
「ねえさん」
「どうしたの」
「ぼくは、ベースにかえるの」
「ええ。あなた、一週間もいなくなって、こんなところにいて。はやく帰りましょ。テトがうんと心配してたわ。けがをしたんでしょう。手当するわ。見せてごらん」
「へいき」
ぶっきらぼうにレトが唇をとんがらせた。ふだんから着ている茶色のシャツは、ところどころほつれたり、汚れが付いていたりする。着替えさせて、お湯で全身洗って、食事を摂らせないと。体力を取り戻すには、睡眠と食事と清潔がなにより必要だ。
へいき、とレトが平坦なトーンで言った。赤さびに似た瞳がふと遠くを見つめた。
「ぼくね、もうかえれないんだって」
「……誰に言われたの?」
「そろそろ来るよ。ねえさんに会いたいっていってたから」
焚き火の近くにパンと鉄の水筒が転がっていた。食事は与えられているらしい。肩を押して、レトをぐるっと回して、わたしに背中を向けさせる。シャツの背中が大きく裂けていて、包帯が巻いてあった。
膝をついて、そっと包帯に触れる。血や膿のにおいはしない。包帯は真っ白で清潔だ。この場で創傷を見るべきか迷う。もう一度ぐるっと回して、レトの顔をのぞき込む。
「痛くない?」
「……いたくない」
「嘘おっしゃい。ベースに帰ってから見るわね。ここは寒いから、服を脱ぐのは嫌でしょ。ああ、上着を持ってきてるから、着ましょう」
「いたくないって、いってるだろ」
ぎゅーっと眉間にしわが寄るのがあんまりかわいくて、ひとさし指でつつく。嫌がって顔を背ける仕草すらうれしい。生きていればなんだっていいのだ。かばんから出したツイードの上着を着せて、襟を立てる。
「歩ける?」
「かえっちゃだめなんだよ。ねえさん」
「そんなの、あなたを連れ去った人が言ってるんでしょう。知らないわ。帰るわよ」
カバンのボタンとベルトを留めて、立ち上がる。ぐずぐずしているレトの手を引く。そりゃあ、レトを連れ去った犯人の顔を見て殴ってやりたいけど。一秒でもはやく安全地帯にレトを連れて行きたかった。
こつんとホウキで地面を叩く。洞窟の中のわたしの足跡が、ぼんやりと橙色に光った。たどっていけば、迷わずに帰れる。
「ねえさん、だめなんだってば」
「ベースで聞くから。はやく行くわよ」
暗い洞窟に足を踏み入れたら、場に似合わない花のにおいがした。ぶわっと背筋に鳥肌が立つ。みつかった。そう、わたしたちは、ずっと、なにかに見つかっていて、逆らえずにここまでやってきたのだ。
立ち止まったわたしの腕を、レトがぎゅっと握った。細い肩を抱き寄せて、背後に隠す。
膝が震える。浅い呼吸を何度か繰り返して、なんとか口を開く。
「……どなた?」
「魔女よ」
嫣然と微笑む赤い唇が目に浮かぶようだった。ニオイスミレのかおりだ、思いながらホウキを握る。洞窟の中で、涼やかな衣擦れの音がした。くすくすと笑い声が響く。
「こんばんは。良い夜ね」
「そうかしら。わたし、あんまりそう思わないです」
ねえさん、と小さくレトが呼ぶ。肩を撫でて答える。ふっと花のにおいが強くなった。近づいてきている。
「そんな風にいうものじゃあないわ。魔女にとって、夜はすべて素敵なものでしょ」
「いいえ、わたしはべつに。あの、わたしたち、帰りたいんですけれども。通してくださる?」
こつん、とささやかな足音が響く。雪のような白い髪が真っ先に視界に入った。次いで、死人のような白い顔と紫の瞳。背後に隠しきれていない大きな杖。手にはとんがり帽子。
若い女のような、軽快な響きの声だったのに。いじわるそうに笑う目元と口元にはレースのようなしわが無数に刻まれていた。
「あら。その子、死渡りの子なの。面倒なのを引いたわ」
「ええ。わたしの弟なんです。だから、連れて帰ってもいいでしょう?」
「駄目なのよ。ごめんなさいね」
くすくす笑う声がうつろに響く。黒いレースに包まれた指が、わたしの頬に伸びた。逃げるか逃げないかを考えて、逃げない方を選ぶ。レースのざらりとした感触が、居心地悪く皮膚の上を滑った。
「たしかに、目元が似ているわね。おいで。火の近くの方がいいわ」
「いいえ。帰ります」
「止した方がいいわ。名乗ってあげるから、おいで。あなた、不思議な肌を持ってるのね? 久しぶりに外に出たけど、幼い子たちは楽しいわね」
不愉快さで目をすがめてしまった。目の下を親指で撫でれられる。ぎゅっと唇を噛み締めて、紫の瞳をにらみつける。
「ねえさん、やめたほうがいいよ」
ぐっと袖を引かれる。レトの、猫に似た目がこちらを見上げていた。わたしとレトに血のつながりはないけど、似ているんだろうか。
「ぼくはだいじょうぶだから。あの人と、はなしをしたほうがいいよ」
「レト……」
「おねがい。ねえさん」
数秒考える。ぱっと顔を右に振って、手をふりはらった。
「いいです。今晩だけなら。火を貸してください。レトにもう少し栄養のある食事をさせてあげたいんです」
「構わないわ。少し長い話になるだろうから、あたたかいお茶でもあると嬉しいわね」
黙ったまま焚き火の近くに向かう。カバンから毛布を引っ張り出して地面に敷いて、レトを座らせる。三脚と小鍋も出して、お湯を沸かす。
「紅茶でいいですか。ミルクもレモンもありませんけど」
「よろしくてよ。名乗ってあげるわね」
赤い唇が笑う。魔女の名乗りならば、わたしは立ち上がらねばならなかった。己の武器と弱点を晒しあげるのが、わたしたちの名前。
高名な魔女だろう、と想像はついている。しわくちゃの顔とちいさな体なのに、圧倒的な存在感だったから。ホウキを強く握る。ころころ転がる鈴のような声が、託宣のように響く。
「わたくしは、クトル・アシェ・テフラ・レルジ。またの名を、原始の罪人、オールド・オールド・レディ、七人の魔女の一人目。ただの古い人間で、一番初めに罪を犯し、この世界に傷をつけた者」
なんてことだ、と全身に鳥肌が立つ。一瞬忘れた呼吸をなんとか思い出して、ホウキを胸の前まで持ち上げる。
「わ、たし、は。ハル・シオン。眠りの肌と青の瞳を持つ、名のない旅団の総領娘。……無礼をお詫びいたします、御柱様。まさか、このようなところにいるなんて」
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