第19話 悲しいことなんてない
マスクをずらして、その整った相貌をわかりやすくすると、笹井さんは涼し気に笑った。
とりあえず発見後即通報といった雰囲気はなく、僕はとりあえず安堵する。
だけどその笹井さんの微笑みは、どこか刹那的な寂しさを滲ませている気がして、それが少し気になった。
「まさか、私の作品を本当に見に来てくれるとはね。嬉しいわ」
「(偶然チケットを手に入れて、そこで笹井さんの名前を見かけたので。その。はい)導かれたとしか言いようがないな。どうも世界は俺に笹井さんを追わせたいらしい」
「私の作品を見てくれるのは嬉しいけれど、せっかくだから他のも観たら? いつまでもここにいたら、悪目立ちするしね。私はあんまり顔出しをしてないけれど、それでも知ってる人は知ってるから」
解釈によってはストーカーを自白したとしか思えない僕の発言を、心優しい笹井さんはスルーしてくれる。
毎回毎回、本当にありがたい限りだ。
艶やかな黒髪を耳にかけて、笹井さんは自らの油絵から目を離す
「ほら、こっちの作品なんか、私けっこう好きよ」
いつまでも自作品の前にたむろするのが、作者的には気になるのだろう。笹井さんは自然と隣りのブースに移動する。
笹井さんの作品を見て、はいさようならというのも変なので、僕も彼女に付いて行く。
「芸術には色々な形があるっていうのが、よくわかるわ」
「(おー、これも凄いですね。発想が凄いです)これもいいな。俺のお墨付きをやってもいいくらいだ」
「器用なものよね。そして自由」
透明な箱の中に飾られていたのは、恐竜の模型作品だった。
でももちろんただの模型じゃない。
素材が全てポテトチップスでできた恐竜模型だ。
「エンタメ性があるわ。芸術(アート)の世界はメッセージ性に傾倒しがちだけれど、これくらい分かりやすくて面白い作品も、もっと増えるべきね」
「(美味しそうです。斬新ですね)食欲を誘う芸術作品か。新しい風が俺の心を靡かせてるのを感じる」
ポテトチップスを、あえてのり塩のものを使っているおかげで、なんとなくリアル感がある。
脊椎は幾つもの細かくパーツ化されたポテトチップスで組み立てられていて、まずこのパーツ群をポテトチップスで成形するだけで信じられないほど大変そうだ。
というかこれ、どれくらいのポテトチップスを消費してるのだろう。
普通サイズの袋一つ分でできるのかな。
だとすれば、案外安上がりだ。
「このイベントには、本当に面白い作品が集まっているのよ。本当、企画力とか人を見込む才能に疑いはないんだけどね……」
館内を歩きながら、笹井さんは消え入るような声で呟く。
写真にしか見えないほどの画力で、幻獣の方の麒麟が描かれた絵の前で、笹井さんは真剣な面持ちで立ち止まる。
現実に存在しない麒麟が、動物園の檻の中に卓越したリアルタッチで描かれている絵は、どこか滑稽でいて、ユーモラスで、そして少しだけ切ない気持ちを抱かせた。
「……ごめんなさい。森山くん。私、君に謝らないといけないことがある」
「(え? 僕が謝らないといけないことじゃなくてですか?)ん? どうしてもっと早くに顔を見せてくれなかったのか、ということなら謝らないぞ?」
意を決したかのように、笹井さんは言葉を紡ぐ。
笹井さんが、僕に謝らないといけないこと。
何一つ思いつかない。
反対に僕が謝るべきことは、いくらでも思いつく。
このイキリクソ野郎がまた顔を出してすいませんとか、色々だ。
「本当は私、君がこのイベントに来ることを、知ってたの。いえ、来ることを知ってたというのは語弊があるわね。来る可能性があることを、知ってたと言った方が正確かしら」
「(どういう意味ですか?)なぞなぞは得意だぞ」
笹井さんは、口を開きかけては、閉じて、開きかけては、閉じるを繰り返す。
苦痛に耐えるように唇を噛み、もう僕の方を見ようとはしない。
「……もし君が私の作品を観に来てくれたら、言わなくちゃいけないと思ってたことがあるの」
なんだかとても嫌な予感がした。
笹井さんの痛みが、僕に伝播する。
言葉遣いが変わっても、僕は僕のままだ。
きっと、何も変わっていないのだから。
「私、森山くんとは友達になれない。森山くんの友達になる、資格がない。……だから、今日が本当に最後。これから先、もし私を見つけても、決して近寄ろうとしないで。私は君を、傷つけたくないの」
意外にも、突然だなとは、思わなかった。
あれほどの沢山の人がいたのに、まるで僕と笹井さん以外、誰もいなくなってしまったかのような錯覚。
杞憂なんかじゃ、なかった。
友達には、なれない。
近寄らないで。
やはり、僕は笹井さんにとって、目障りな存在だったのだ。
ちょっと何回か喋っただけで、どうしてこんなに調子に乗ってしまったのか。
最後の情けとして、今はこうして隣りにいてくれているだけなのに。
「ごめんね、森山くん。巻き込んで、本当にごめんなさい」
人に避けられることには慣れていたのに、ここ最近少しばかりお喋りになり過ぎていた反動か、まったく言葉が出てこない。
閉口に黙り込む僕は、今、どんな表情をしているのだろう。
もう話すことはないとばかりに、マスクをつけ直した笹井さんの横顔を見つめることで精一杯。
「……でも、今日、来てくれて本当に嬉しかったわ。私を観てくれて、ありがとう、森山くん」
それじゃあ、さようなら。
短い別れの言葉を最後に、振りかえることなく笹井さんは僕の隣りから去って行く。
だけどきっと、これでよかったんだ。
笹井さんは将来を嘱望される、若き天才画家。
僕は何の才能もない、無名の凡人未満。
本来僕たちは、交じりあうことのない存在だった。
僕と笹井さんが友達になれないことなんて、当たり前すぎて、怒りや恨みなんて微塵も感じない。
むしろ、冗談ではなく、本当にストーカーになりかけていた僕に、これほど優しく釘を刺してくれたことに感謝したいくらいだ。
僕と笹井さんが友達になれないことなんて、当たり前。
だから何も、悲しいことなんてない。
(やっぱり、嫌われちゃったか)
「好き避け、という奴か」
僕の心は折れているのに、減らず口は変わらないのがおかしくて、屈折した笑みが浮かぶ。
僕はもう一度、目の前に描かれた檻の中の麒麟を見る。
どうしてか今は、少しだけ泣いているように見えた。
――――――
「お疲れ様、ハル」
屋外のベンチに座る私に、囁くような声がかかる。
憔悴していた私は、うんざりと顔をあげた。
「……これでいいんでしょう。森山くんに手は出さないで」
「わかってるさ。僕は約束を守る男だからね。イシュウくんの通ってる大学も、バイト先も全部突き止めたけど、この情報を活用することは今のところなさそうだ」
丸い黒縁眼鏡をかけた一見優しそうな青年――川海創歩が私の隣りに座り、長い足を組む。
いつもと変わらない穏やかな表情で、私を舐めるように見つめていた。
「思ったより変わった子だったからね。僕が話をするより、直接ハルに話をさせた方がいいと思ったんだ」
私にはもう、選択肢がなかった。
もう彼の中に、私への愛がないことには気づいている。
だけど、全て手遅れ。
私はもう、他の居場所をすべて捨ててしまった。
彼がただの独占欲だけで、私をトロフィーのようにコレクションしようと、他の女に私がいないところで愛を囁こうと、どうすることもできない。
今の私にできるのは、彼の下で、ただ一人、孤独に絵を描き続けることだけ。
「ハルには、僕だけでいいんだよ。他には何も要らないんだ。僕と一緒にいれば、全てが手に入る。わかってるよね、ハル?」
「……わかっているわ。だからそれ以上、喋らないで」
「ひどいなあ? イシュウくんとはあんなに楽しそうにお喋りしてたのに、僕とは喋ってくれないのかい?」
森山くんは、とても良い人だった。
それに面白くて、優しさも持っている。
本当は友達になりたかった。
もしかしたら、それ以上になる可能性だって――、
「ハル、愛してるよ。君には、僕以外必要ないんだ」
――そこまで考えて、私は無意味な想像をやめる。
今持っているもの以外、手に入らない。
私は私の居場所を守るために、悪魔と契約してしまった。
もう、戻れない。
帰る場所なんて、どこにもないと、私は知っているのだから。
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