9月 十六夜にかぐや姫(その1)
【相談があるの】
うだるような都内の暑さから逃れ、文豪作家たちが愛した軽井沢で涼を取りながら小説を書くはずだった夏合宿は、深夜にいなくなった彼女を探したり、大きな捕虫網に掛かったり、まるまる一日寝過ごしたり(これは自分が悪い)、物書きの研修生として何の成果も出さないまま、残暑の厳しい東京へ戻って来た。
軽井沢合宿を3日目の早朝で切り上げた叔父さんの急用の理由は分からず仕舞い。
帰りのクルマの中で、彼女が急に不機嫌になった理由も分からないまま。
おまけにユリさんからの微妙な告白に、モヤモヤ感を抱えたまま8月が通り過ぎ、
大学は9月いっぱい夏休みだが、カレンダーの中で季節は秋。
軽井沢合宿のあと、ユリさんは高校の2学期が始まり辺鄙な合宿所から足が遠のいている。
彼女は9月に入りブライダルモデルのお仕事が増えたのか、朝早く合宿所から出掛けている。
叔父さんは… 未だにあの人のことはよく分からない。
出版社勤めの不規則な生活に加え、学生時代からのオカルト同好会メンバーと昼夜を問わず今も活動しているようだ。
僕は… ボーッとしている。
慣れない東京で夏バテなのかもしれない。後期の履修届けが始まるので生活習慣を元に戻さなければ。
9月の半ば敬老の日、ダラッとしたままだと老いそうなので(19才だけど)気合を入れてお日様とともに目を覚まし、合宿所の周りを歩いてみた。
東京の空も心持ちすっきりと感じられ高く見える。中空の移ろいと皮膚に感じる空気の変化を楽しんだあと、合宿所に戻るとキッチンで彼女がコーヒー豆を挽いている。
「アラッ? おはよー。エムくんにしては早いのね。洗濯機を回してしまったわ。どうしましょう?」
彼女には僕の早起きが、降水確率100%予報のようだ。
「おはよー。いつも寝坊なのは否定しないけど、今日のお天気は保つと思うよ。玄関の脇にいた猫は顔を洗っていないし、蜘蛛の巣には朝露が掛かっていたから。そこ(ホールの隅)に転がっている
スーパーコンピュータや気象衛星データを使う天気予想よりも、近くの天気は昔からの言い伝えが当たると信じている。
「久しぶりに早起きして頭が冴えているのかしら。私もそれは知っているわ。単なる言い伝えではなくて自然現象よ。他にも『朝にカッコウ、夜にフクロウが鳴く』『トンビが空高く輪をかく』『朝霧と朝雲』は晴れるそうよ。東京にいるとそんな鳥には滅多に会えないけどね。コーヒー入れるけど飲む?」
久しぶりに話をする彼女は機嫌がよさそう。
「ついでで良ければ、お願いします」最近は顔を合わせていないので、彼女との距離感が掴みづらい。
「朝食はどうする? トーストと卵料理で良ければ、一緒に作るけど」
朝食も作ってくれるとは。今日、面倒なイベントは何もなかったはず。
「良ければお願いします。何かやっておくことはある?」彼女が食事を作っているあいだ、ここでジッとしているのは居心地が悪い。
「じゃあ、バスルームを洗ってくれる? 昨日は叔父さんの当番だったけど、サボったみたい」
「了解」
共有スペースの掃除は3人の当番制だけど、叔父さんの番の多くは僕がやっている。叔父さんは急にいなくなることが多いから仕方ないけど。
ホール奥の扉を開けてドレッシングルーム(叔父さんがそう呼ぶ)に入り、服を脱いでバスルームに入り、部屋全体にシャワーを掛けながら水アカが出始めているところはスポンジで擦る。1人で使うには大きすぎるバスルーム。叔父さんは何故こんなに広いバスルームを作ったのだろう。
自分のシャワーも兼ねたバスルームの掃除を終え、Tシャツと短パンでホールに出ると、ダイニングテーブルには2人分のコーヒーとトースト、小さなオムレツ、ベーコンとハッシュドポテト、キイウイ入りヨーグルトにグリーンサラダ。シャインマスカットが並んでいる。
どうした、いったい?
最近は彼女とホールですれ違っても『美少女スマイル』を見せることはなく、挨拶だけして何か考え事をしている様子。
「朝から、ごちそう」どう反応して良いのか分からないので差し障りのない言葉を口に出す。
「そう? 朝食は大事だから、ちゃんと食べないとね」久しぶりに見せる美少女スマイル。
朝食を食べながら、彼女が取り止めのない話をする。主にブライダルショーでの出来事。彼女の模擬挙式を見に来た花嫁予定の人が急に泣き出したり、新郎予定の人がウエディングドレス姿の彼女をガン見して、隣に座る相手から足を踏まれたり。
6月に見た彼女のドレス姿はとてもキレイだったから、足を踏まれた男性はお気の毒としか言いようがない。
ゆったりとした朝食を終え、お代わりのコーヒーを飲んでいると玄関の扉が開き、元気な声と共にユリさんが現れた。
そうか、今日は休日だ。
「おはようございます。アレッ? 今日はエムさんも早いんですね」
「ユリちゃん、おはよう。コーヒーを淹れるから、こちらへどうぞ」彼女は久しぶりに合宿所を訪れたユリさんに驚かない。
今日、ユリさんが来るのを知っていたのかも知れない。
バッグをソファに置き、ダイニングテーブルの斜め向かいの席にユリさんが座る。
「今月に入ってから初めて来たのかな?」ユリさんがココに来るのは軽井沢合宿以来だと思うけど、合宿であったことが話題になるのは避けたいので、ぼやかして聞いてみる。
「そう言えば、そうですね。学校が始まると、なかなか来られなくて」ユリさんも当たり障りのない返事をする。
今日のユリさんの装いは秋らしく、ザックリとしたコットンセーターに短めのタイトスカート、ショートブーツにレザートートバッグを肩から掛けていた。
先月までとはヘアスタイルを変えており、パツッとカットしたショートボブの前髪を分け、目元を中心にブラウン系のメイクして大人っぽい雰囲気。
彼女が自分とユリさんのコーヒーカップ持ってユリさんの隣、僕の正面に座る。
「ありがとうございます。今日、所長は外出ですか?」ユリさんは相変わらず叔父さんのことを『所長』と呼ぶ。
「叔父さん? いろいろと忙しいみたい。最近、顔も見ていないわ」彼女の表情が少し不機嫌になる。今月よく見る顔だ。叔父さんと何かあったのか?
「そうですか、夏合宿で書いた紀行文をまだ見せていなかったので、持って来たのですが」
ユリさんが書いた、僕を主体にした恋愛紀行文。読んでみたい気もするけど、軽井沢で遭遇した微妙なことを思い出すと、表に出して欲しくない気もする。
「叔父さんは最初から私たちに紀行文を書かせるつもりはなかったみたいだから、見せなくても良いと思うけど」
彼女はユリさんに張り合うように僕を主体にした紀行文を書くと言っていたけど、その気は失せたようだ。なんとなくホッとする。
それからしばらく、どうでも良いこと(本当にどうでも良いこと)を話し、午前中の時間がだんだんと少なくなって来たところで彼女が立ち上がり、ユリさんもつられる様に立ち上がったので、いつものように2人で5階に上がるのかと思ったら、彼女が神妙な顔をして口を開く。
「相談があるの」
隣に立つ、ユリさんがうなずく。
「僕に?」
「今、私とユリちゃんの前にはエムくんしかいないけど」
それは分かりますが…
高校で知り合ってから今まで、彼女から相談を持ちかけられたことはないけど、今日の彼女の表情は真剣。ちゃんと聞かないと。
「了解。ここで良い?」
「ここだと、叔父さんが帰って来ると面倒なので、私の部屋に来てくれない?」
叔父さんには話したくないこと? 5階の乙女の部屋なら冷凍庫も冷蔵庫も揃っているから、相談が長引いても大丈夫。
「了解」
僕の返事が合図になり、彼女とユリさんのあとを付いて、5階まで階段を登って行った。
【一目惚れ】
彼女の部屋に入るのは軽井沢合宿以来だが、部屋の様子は変わっていない。
開け放たれた掃き出し窓から秋を感じさせる風がそよいで、気持ち良い。
机にあるMacBookの横に封を切った大判の封筒が積み重ねられている。
何が届けられているのだろう?
部屋の真ん中にある丸いローテーブルの周りに小さなヨギボーが4つ置いてある。彼女とユリさんがそこに座るのを見て、僕もその一つに腰を下ろした。
彼女が口を開きかけて
改めてヨギボーに座った彼女は、何かを決した表情で僕の目を見ながら話を始めた。
「軽井沢合宿の時にね…」
あの合宿のことは、僕の頭の中でも整理のついていないことが多い。何を話し始めるのだろう。
「3日目の朝、叔父さんが急に『東京に帰る』と言ったでしょう?」
うんうん、お陰で最後が尻切れトンボな合宿になったけど。
「あの日、叔父さんは私の父と東京で会っていたの」
彼女のお父さんが東京に来ていたとは知らなかった。
「それで、叔父さんは急いでいたわけか… 親戚に何かあったの?」
兄弟同士でも歳をとると、親戚の御不幸とかがなければ、急に会ったりはしないはず。
彼女が言い淀む。何かまずいことを言ったかな?
「エムさん、親戚ではなくて、ミワ(彼女)さんのことなんです」
ユリさんが彼女の代わりに答えてくれたのだが『ミワさんのこと』と、言われると余計に分からないし、内容が気に掛かる。
ユリさんの言葉の後を彼女が継ぐわけでもなく、その表情は何を話して良いのか迷い口に言葉が出てこない様に見える。
「無理しなくて良いから、話せる範囲で話してくれる?」
10割増しの優しい言い方(当社比)で話しかけると、彼女がようやく口を開き、軽井沢合宿最終日以降に起こったことを話し始めた。
ことの始まりは、彼女がブライダルショーに出演した時のこと。
時期的には、お狐さま騒動あとの7月に
彼女がドレス姿で、ブライダルショーのステージを歩いていると、ショーを観に来た顧客予定の中に男性の一人客がいることに気がついた。
ブライダルショーはカップルで観にくる人がほとんどで、彼女はステージから観客席を見ながら不思議に思ったそうだ。
その日は何事もなく8月に入りお盆休み〜軽井沢合宿となったが、合宿3日目の朝早く彼女は叔父さんから起こされた。
******
「お前、お見合いをするのか?」
彼女を起こしに来た叔父さんがいきなり聞いてくる。
目を覚ましたばかりの彼女は、叔父さんが何を言っているのか分からない。
「叔父さん、二日酔い?」前の晩、酔っ払った叔父さんをエムくんが部屋まで連れて行ったのを思い出した。
「さっき、兄貴(彼女の父親)から電話が掛かって来て『東京に来たから会いたい』と連絡があったんだ」
「お父さんが東京に来ているの?」
「お見合いの件で相談があるそうだ」叔父さんは朝早く電話で起こされて、機嫌が悪そう。
「ちょっと、ちょっと待ってよ! 誰がお見合いをするの!?」
「兄貴の子供は、おまえしかいないだろう? 他人の見合い話で東京に来るほど、兄貴も暇じゃないぞ」叔父さんは面倒くさい顔をしている。
「どういうこと? しばらくお父さんと話をしていないけど… この前お母さんと電話したときも、そんなことは言っていなかったわ」仲の良い両親だから父親が勝手なことをするはずがない。
「話を聞いたばかりだから俺も中身は知らんさ。俺は一応こっち(東京)の保護者だろう? 兄貴に頼まれて引き受けたから(おまえが)東京に出て来られたわけだし。相談があれば保護者として聞かないわけにはいかんだろう?」
「それは、そうだけど…」
「分かったなら、さっさと東京に戻る準備だ。ユリちゃんとエムくんも起こしてくれ。今6時か… 7時に出発するぞ」
******
「それで、急な帰京したわけか」
「そうなの。今まで黙っていてゴメンナサイ」
今日の彼女はいつもとは違いしおらしい。
僕の方からコメントすることはなく謝る彼女にうなずくと、その先を説明し始めた。
******
彼女の父親が持ってきた見合い話は、家にとっては良い縁談。彼女にとっては微妙。
7月に1人でブライダルショーに来ていた男性は、親しい友人のカップルに付いてきて、そこに出演していた彼女に一目惚れ。
ショーが終わってから、彼女が所属するエージェンシーに彼女のことを問合せしたらしい。
エージェンシーも個人情報に関わることは表に出せないが、Webサイトで公表している内容は隠せない。その男性は公開情報を元にネットで調べてみると彼女の実家の会社が自分の実家と取引がありそうなので、実家を通じて彼女の父親に縁談を申し入れたらしい。
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「世の中にそんな一目惚れってあるんだ」彼女の話を聞いていて思わず口にする。
「エムさん、それはチョット
いや別に他人事と思っているつもりはないのだけど。
「でも、なんでそんなに回りくどいことをしたのかな? そんなに惚れたのなら、直接本人に会いに行く手もあると思うけど」
当たり前のことを言ったつもりだが彼女は困った顔をし、ユリさんの表情がイラッとした顔に変わる。
「ミワさんが、知らない他人からいきなり言い寄られても平気ですか?」
それはイヤだけど… 返答に困ると、彼女がその先を話し始めた。
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彼女に一目惚れした相手は、関西にある老舗卸問屋の長男。御堂筋一郎、29才。
現在大手食品専門商社に勤務しており、30才で実家に戻り家業を継ぐことを親と約束している。
御堂筋一族は跡取りのことを前々から気に掛けており一郎が学生の頃から度々縁談話を持ってきていたのだが、当の一郎は今まで縁談を断ってきた。
その一郎が自分から結婚したい相手を見つけたと言うので一族郎党大騒ぎ。御堂筋家は興信所を使い彼女と実家のことを調べ、彼女の実家が地方の商事会社を営んでいることが分かり、商流を辿れば御堂筋家とも浅からぬ縁があることを知り、御堂筋家が彼女の実家に縁談を申し入れたそうだ。
彼女は一人っ子なので両親は驚いたが、大きくはない商事会社の行く末を考えると悪い話ではなく(地方経済の先細りを考えると関西大手の卸問屋との合併も悪くはない)彼女は大学に入ったばかりなので、とりあえずお見合いをして良ければ婚約し結婚は卒業してから、と考えているらしい。
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「なんだか知らない間に、凄い話になってるね」あまりにも自分とは縁遠い話なので単純に驚く。
「エムさん、それ
そうか、ユリさんの実家、古書店は神保町だった。そういえば半月ぶりに会うユリさんの顔がふっくらとして見える。だからザックリとしたコットンセーターを着てきたのか。その見立ては間違ってはいないと思うが「体重増えた?」なんて、間違っても口に出せない。そもそも彼女のお見合い話と、ボンディのカレーは関係ないと思うのだが。
「ユリさんのカレーの食べ過ぎはともかく、(ユリ「なんか言い方が冷たくないですか?」)、いや、ユリさんは(体重が)大丈夫だと思うだけ。それで、もうお見合いをしたの?」
彼女とユリさんが顔を見合わせる。また間違ったことを言ったのか?
「エムさんは、
そう言われればそうだけど、今日のユリさんは圧が強い。カレーとプリンをたくさん食べてカロリーが余っているのか?
「これからお見合い?(彼女がうなずく)その前に『相談がある』ということは、お見合いの進め方? お見合いはしたことがないからアドバイスは出来ないけど」
ユリさんが小柄な身体(豊かな胸元)をテーブルの上に乗り出す。
「(ヘタレな)エムさんに、お見合い経験がないのは分かっています! 未経験者のアドバイスではなくて、親が勝手に進めているお見合いをぶっ壊す相談をしたいんです!」
ユリさんの怒気を含んだ発言に彼女も僕も驚く。17才という年齢は無敵なのかも知れない。
「ユリちゃん、私、そこまで言っていないわ。確かに突然のお見合い話で困ってはいるけど、叔父さんから聞いた話だと、無下にも出来ないし…」困惑表情で歯切れが悪い。
彼女が叔父さんから聞いた話をポツリポツリと始めた。
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軽井沢夏合宿から東京に戻り、叔父さんは僕らを合宿所で降ろし、彼女の父親が待つ都心のホテルに向かった。
待ち合わせ場所のホテルに入ると、ロビーで待っていたのは叔父さんの兄(彼女の父親)だけではなく、初めて見る青年が側にいた。御堂筋一郎である。
3人はラウンジに入り、お互いに自己紹介をする。
叔父さんの見立てでは、御堂筋一郎は好青年。ハキハキとした話し方で朗らかな表情を絶やさない。上背もあり、学生時代はゴルフ部の部長をやっていたそうだ。
叔父さんが『なんで彼女?』と聞くと『ステージの彼女を見て運命を感じた』とのこと。『同じ東京にいるのだから、なぜ話しかけなかったのか?』と聞くと『全く接点のないサラリーマンが、10才年下の女子大生に話しかけて不審に思われたらそこで終わりますから』と説明された。
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叔父さんの説明を彼女から又聞きする限り、特におかしいことはない。
コメントのしようは無く黙っていると、この話を聞くのが初めてではないユリさんが口を開く。
「ミワさんから初めてその話を聞いたとき、私『一郎さんって人、大丈夫?』って言っちゃいました。だって『ステージの彼女を見て運命を感じた』なんておかしいと思いませんか? 遠目に見る異性に運命を感じていたら、私なんて毎日が運命だらけで、人生が何回あっても足りません」
ユリさんは高校で交際範囲が広いのかな? 言うことも分からないではないが。
「でも、一目惚れってそんなものかも知れない。本人のことを何も知らないまま、見ただけで好きになるのだから。一種の憧れ?」
「アイドルを見て憧れるのは分かります。でも、そのアイドルとお見合いをしようなんて思いませんよね」ユリさんの言うことは真っ当。彼女から相談されて、ユリさんなりに今までいろいろと考えていたようだ。
「たしかに、憧れと実生活は全く違うから、一郎さんって人は、憧れを手元にたぐり寄せようとしているのかも知れない」欲しいものは何としても手に入れたい人なのかも知れない。
「エムさんは、やっぱり
『寝食を共にしている』という表現には語弊があるが、妙に説得力のあるユリさんの言葉を黙って聞いていると、ユリさんと僕の話を聞きながら窓外に目をやっていた彼女がこちらを向き、口を開く。
「先月、叔父さんから話を聞いて、私自身どうして良いかまだ分からないの。結婚なんて今まで考えたこともなかったし」入学して半年足らずの大学生が、結婚のことなど考えるはずがない。
「でしょう? この合宿所にいる研修生が目指すのは結婚ではなくて『小説家』になることです!」週末限定研修生、ユリさんの真っ当な発言が続く。
『小説家』の言葉に彼女の瞳がキラリと光り、ユリさんの顔を見て2度3度と大きくうなずく。
「そうよね。私、今まで何を考えていたんだろう。そうよ!『小説家』になるために東京に来たのだから『家』のことを気遣って隠居するには早すぎるわ」
今までうつむき加減だった彼女がスッと背筋を伸ばし、表情がパァッと明るくなる。これまで見てきた、いつもの明るくて伸び伸びした雰囲気の彼女。
その様子がこちらまで伝わってきて嬉しくなるけど、結婚って隠居なの?
「良かったぁ。やっとミワさんもその気になってくれました。それでは『ミワさんを婚約させない大作戦』を練りましょう!」
ユリさんはトートバッグからiPadを取り出して、彼女と僕に『大作戦』の説明を始めた。
【ユリちゃんの大作戦】
ユリさんは、彼女からお見合いの予定を聞き出し、作戦を立てていた。
来週、都内のホテルで御堂筋一郎氏と彼女がお見合いをする。
『お見合いだから両家の両親も同席』との話も出たが、それぞれ家の商売が忙しくて東京へ集まるのは難しく、彼女がユリさんの
「所長(ユリさんは叔父さんを『所長』としか呼ばない)が、一郎さんとミワさんを引き合わせて『あとは若い人どうしで』となる流れなので、作戦はそこから始まります」
ユリさんが彼女と僕に見せるiPadには、叔父さんと別れたあと想定される2人の行動が箇条書きで並んでいる。彼女からお見合いの場所以外の情報も仕入れているようだ。
「2人がホテルのカフェでどうでも良い話をするでしょう? ミワさんにはiPhoneを通話状態にしてもらい、会話の内容をエムさんと私がそれを聞いて作戦のタイミングを図ります。それから…」
ユリさんのやる気満々な、お見合い妨害大作戦の説明が続いた。
「と、まあ、こんな感じですが、いかがでしょう」
ユリさんは、iPadのKeynoteで作成した十数枚にのぼる資料で大作戦のあらましを説明した。
今どきの高校生は
「作戦の内容はともかく(作戦の中には実現不可能なものもある)このプレゼンスは凄いね。学校の授業でこんなこともやるの?」ユリさんの説明も手慣れている。
「高校ではこんなことやりませんよ。エムさんたちが卒業した高校と同じ大学受験用のつまらない授業ばかりです」
思わず『それで?』という表情で、その先の説明を促す。
「塾でいろいろ勉強しています。なので軽井沢合宿が終わってからは、ここに来る時間がありませんでした」
大学受験の塾でないのなら、起業家養成所? 昨今、女子高生の起業家も珍しくない時代。
興味が湧いたのでユリさんに聞いてみると、ユリさんは答えをはぐらかし「来年になったらお話しします」で、その話は終わり。彼女のお見合い妨害大作戦に話は戻り、ユリさんの作戦内容について話し合いを続けた。
翌土曜日の正午過ぎ、彼女は叔父さんのクルマでお見合い会場のホテルへ向かった。
僕は2人の出発を見届けてからユリさんに電話を掛け、自分は合宿所に備え付けの古い自転車で最寄り駅へ急いだ。
叔父さんは土曜午後の道路渋滞を考えて、早めに合宿所を出発したので、僕がこれから電車で出かけても、御堂筋一郎氏との待ち合わせ時刻には間に合うはず。ユリさんは、お昼前からホテルに入り下見をしておくそうだ。並々ならぬ気合いが感じられる。彼女のお見合いが、そんなに気になるのだろうか。
ユリさんが作った『お見合い妨害大作戦』は、打ち合わせで大きく修正され(ホテルの非常ボタンを押すのは、却下した)実行計画と裏プログラムに絞り込んだ。
当日の成り行きで、その中から作戦を選ぶ予定だ。
土曜日の空いている地下鉄に座り、スマートフォンでプログラムを読み返し「やっぱり、ここはやり過ぎだよなぁ」と1人でシミュレーションをしていると赤坂見附駅に到着した。
今回、彼女がお見合いをするホテルは、6月にお狐さま騒動があった挙式会場を運営している赤坂の大きなホテルである。
「着きました」ユリさんに到着したことを電話する。
「エムさん、早く! 叔父さんが2人を引き合わせています!」
「エッ! 彼女から聞いていた待ち合わせ時刻まで、あと30分以上あるはずだけど」言いながら地下鉄の階段を駆け上がり、ホテルへの道を足早に歩いて行く。
「所長のクルマが予定より早く着いて、相手の御堂筋さんも早くホテルに来ていたのだと思います。アッ! 3人がエレベーターへ向かっています」
それはおかしい。彼女の事前説明によれば、御堂筋氏と彼女はガーデンラウンジでお茶をしたあと、庭園を散歩する予定のはず。
「分かった。エレベーターホールへ向かうから、ユリさんは彼女たちの入る店が決まったら連絡くれるようにメッセージを入れておいて」
「分かりました。ツーッ ツーッ」電話が切れた。ユリさんが彼女にメッセージを送っているのだと思う。
それにしても困った。
ガーデンラウンジとホテルの庭園を舞台に作戦を実行するはずだったのに上の階、おそらくタワーレストランかビューダイニングに向かっていると思うが、そんな見通しの良いレストランだと作戦が実行出来ない。
ユリさんが最初に作って来た妨害大作戦の中から、没にしたモノを使うしかないのかも知れない。
エレベーターホールに辿り着くと、ホールから少し離れた庭園が見渡せる大きなガラスエリアでユリさんが小さく手招きしている。
今日のユリさんは濃いブルーのワンピースに麻のジャケットを羽織り、10cmはありそうなピンヒールと荷物が何も入らない小さなハンドバッグ。先週初めて見たパツッとカットしたショートボブの前髪は先週とは分け方を変えており、色の濃いサングラスを掛けている。童顔で幼く見える外見を、少しでも大人っぽく見せる努力が窺える。
「お待たせ(彼女たちは)どこに行ったの?」
ユリさんが、僕の格好を上から下までチェックする様に視線を動かす。
コードレーンのジャケットに併せたシャツとパンツ、シューズを身につけているので着替え直しは言われないはず。
「ビューダイニングに3人で入りました。所長も一緒です」サングラスを掛けていても困った表情が見て取れる。
「叔父さんも? 叔父さんは2人を引き合わせたら、いなくなる予定では?」
「理由は分かりませんが、まだ2人と一緒にいるそうです」
「困ったね。場所が作戦と違うし、何より叔父さんがいたら芝居が打てない」
ガラス窓から見えるホテルの庭園を見ながら、どうしたものかと考える。
ユリさんが「アッ」と言い何かを思いついた表情をして、テレフォンコーナーへ歩いて行きスマートフォンで何処かへ電話をし、しばらくして戻って来た。
「大丈夫です。もうしばらくしたら所長は、いなくなります」ユリさんは得意顔。
「どうやったの?」ユリさんはテレパシーが使える能力者なのか?
「父に電話して『所長が近くに来ていて、時間がありそうだから会えば?』と伝えておきました」
なるほど、赤坂と神保町ならクルマで直ぐの距離。ユリさんの実家、古書店と叔父さんの関係を聞きそびれているが、叔父さんとユリさんのお父さんが小説家養成合宿所の話をしているのを、ユリさんが耳に挟んだので親しいのだろう。
「叔父さんがエレベーターで降りて来ると鉢合わせするから、何処かに入ろう」ユリさんと僕は、大作戦で御堂筋一郎と彼女が入る予定だったガーデンラウンジに入り、ホテルの通路から陰になる座席に座った。
ユリさんは彼女にメッセージを打ち終わると、メニューを確認する。
「お昼、まだですよね?(僕「そう言えば食べていない」)今日は長丁場になるかもなので、お腹に何か入れましょう。えっとー(メニューを見ている)、いつお店を出ることになるか分からないので、ランチビュッフェにしませんか?」
「いいよ。それで」ビュッフェならオーダーを待つ時間も省ける。
係の人を呼びオーダーを伝えると、ビュッフェの客と分かる札をテーブルに置いてくれた。
「いつ上からお呼びが掛かるか分かりませんから、取りに行きます」食べる気満々のユリさん。見かけによらず、食欲旺盛なことを思い出した。だからランチビュッフェにしたのか。
ユリさんがバッグとスマートフォンをテーブルに置いたまま料理を取りに行ったので、席で待つと両手に大皿を乗せて戻って来た。右手の皿にはプチケーキがたくさん、左手の皿にはローストビーフと付け合わせ。その組み合わせ、おかしくない?
「戦いに備えてタンパク質と糖分の摂取が必要です」視線に気がついたのか、僕が聞く前に
「なるほど」差し障りのない返事をしながら席を立ち、ビュッフェコーナーに行くと残暑の9月に合わせた涼しげな料理が並ぶ。
冷たいジャガイモスープ、アスパラガスサラダ、冷製ミートパイ、9月のジュース(何だろう?)をテーブルに運ぶと、大皿のケーキが半分ほどなくなっていた。最初にケーキ?順番がおかしくない?と思いつつ席に着く。
「エムさん、水分をたくさん摂取すると、おトイレが近くなって尾行が出来ませんよ」
「彼女たちを尾行するの?」彼女の作った大作戦に、尾行は無かったはず。
「だって前提が大きく変わったでしょう? ミワさんたちが入ったお店は違うし、所長も一緒です。ホテルの庭園で決着をつける予定でしたが、長期戦になるのかも知れません」
尾行が必要になるかは分からないが、作戦実行の前提が大きく変わったのは間違いない。「次に取りに行くとき、控えるよ」と言い、遅いランチを始めた。
ユリさんが2回目のビュッフェコーナーで取った皿をキレイに平らげ、僕はデザートが終わりかけていた頃、時計を見ると3人がエレベーターに乗ってから1時間近く経っている。
「叔父さん、降りて来ないね」満腹になり眠たくなってきた。
「エッ! 嘘! なんでお父さんが来ているの!」ユリさんが声を抑えながら小さな溜息をつく。ユリさんの視線を追うとその先には、着流しを着た如何にも神田古書店の店主っぽい人がエレベーターホールに現れた。
「ユリさんのお父さん?」一応確認する。
「何でだろう?『所長が近くに来ているから神田に呼べば?』て言ったのに」解せないユリさんの言葉はホールにいるユリさんのお父さんに届くはずはなく、開いたエレベーターに乗りこんで行く。ユリさんのお父さんも同席すれば、お見合い妨害作戦の実行は不可能となる。
「彼女からメッセージは来てない?」叔父さんが彼女と御堂筋一郎氏と、別れていたら来るはずの連絡はまだ来ない。
「ミワさんにメッセージを入れてみます」ユリさんは手早くメッセージを送り、席を立つと、涼しげなデザートと飲み物を持って戻って来た。
思わず「まだ食べるの」と言いそうになるのを押さえ、残暑が厳しそうな庭園をガラス越しに眺めていると、テーブルにあるユリさんのスマートフォンが唸り出す。
ユリさんが取り上げてディスプレイを見ながら「なるほどー、そういう流れになりましたか。今日は長期戦ですね。こちらも戦力を増強しましょう」ユリさんが素早くメッセージを送る。
「結局、どうなったの?」
「上のレストランにいる4人は、所長のクルマで移動するそうです」
「となれば、尾行は出来ないね」僕たちはホテルでの作戦しか立てていない。
「今日、レイさんが
「でも、どうやってクルマを追跡するの? 叔父さんたちは直ぐにホテルを出るかもしれないし」スパイ映画の様に簡単にはいかないはず。
「エムさんはSF小説を書いているのに、思いつきませんか?」ユリさんが得意そうにiPhoneの画面を見せてくる。iPhoneの『探す』アプリをタップすると彼女の位置情報が表示されていた。彼女は今、ホテルの上階にいるから僕たちと同じ場所だ。
「見失ったときのことを考えてミワさんと位置情報を共有しておきました」
ユリさんが『お見合い妨害大作戦』のプレゼンテーションを先週Keynoteにまとめてきた気合いは未だ続いているようだ。
テーブルのスマートフォンがまた唸りだし、ユリさんは手に取りタッチして何かを入力してバッグにしまう。
「レイさんが
ユリさんの動きは早く、小さなハンドバッグとiPhoneを手に椅子から立ち、お店を出た。会計をする札はテーブルに置かれたまま。
ホテルのレストランで女子高生に払わせるつもりはないが、会計をすると大学生にも分不相応なお値段。どこかで帳尻を合わせなければ。
会計を済ませてフロアに出ると、ユリさんは正面玄関の方から手を振っている。そっちに行くとレストランから出てくる叔父さんたちと鉢合わせをするのでは?
急いで正面玄関へ行くと、ユリさんは玄関を出てピンヒールで走り始め、追いかけ始めた僕の方を振り返り大声を出す。「ミワさんたちがエレベーターに乗ります。急いで外に!」
石畳の玄関から外の出口までユリさんと走る。ゲートを出てホテルの威厳を保つ塀の外にはオレンジ色のアバルト695が停まっていた。運転席にはイタリアの小さなクルマには似合わない白装束のレイさんが座っている。
ユリさんとアバルトに駆け寄ると、窓を開けたレイさんから「早く乗って」と言われ、助手席のドアを開け、僕が後部座席にユリさんが助手席に座り、ユリさんが今までの様子を説明した。
「状況は分かりました。私はユリちゃんのナビでミワさんたちを追えば良いのね」久しぶりに会うレイさんは、6月に会ったときと同様、落ち着いている。
「昨日『もしかしたら』と連絡していたのが、本当になってしまいスミマセン」なるほど、ユリさんは彼女のお見合い話をレイさんにも伝えていたのか。それにしても手際が良い。
「気にしなくて良いよ。神社の用事はお昼前に終わり食事をしていたところ。先に着替えておけば良かったけど仕方ないね」なるほど、だからレイさんは上が白装束で下は空色の袴を履いているのか。
「アッ、所長のクルマが出て来ました」ホテルのゲートから年季の入った赤いボルボステーションワゴンが出て来た。
「では追跡を開始します。2人ともシートベルトを忘れずにね」レイさんが落ち着いた物腰で話しかけるので安心してシートベルトを装着すると、スタートボタンを押したレイさんはアクセルを吹かしてマニュアルミッションを1速に入れ、タイヤを鳴らしながらホテルのゲートから反対側に出ていったボルボを追いかけ始めた。
「どこまで行くんでしょう?」助手席に座るユリさんが、誰に聞くでもなく口を開く。
「私も首都高速に乗った時は『ユリちゃんから聞いていた、お見合いの追跡ではないよね』と思ったけど3号や5号ではなくて1号線だから、遠くても三浦半島止まりだと思うけど」レイさんはボルボとの間に一台乗用車を挟んで追跡中。僕と同い年で大学に入ってから自動車免許を取ったと言っていたから運転歴は半年足らずだと思うが、マニュアルミッションの小さなイタリア車を小気味良くドライブする。
「このクルマ、レイさんが選んだのですか?」神主修行には少し似合わないように思う。
「このアバルト? これ兄貴のクルマ。今、論文が忙しくて研究室にこもっているから私が乗ってるの」
残暑が厳しい9月、週末の午後。
僕たち3人が乗る小さなイタリア車は首都高速を南西方向に南下して行った。
【行き着く先は…】
叔父さんのボルボステーションワゴンは、首都高速横羽1号線からベイブリッジを通過してその先の横浜横須賀道路に入り、更に南下する。
「お見合いではなさそうだね」都内からわざわざ三浦半島まで両家の親ではない付き添い(叔父さんとユリさんの父)がいる、お見合いはあり得ない。
「分かりませんよー。三浦海岸には『女神のカフェテラス』があるそうですから」ユリさんが後席を振り向いてニンマリする。ユリさんもあのヒロインがわんさか出てくるアニメをチェックしているのか?
そんなことを考えていたら、叔父さんのクルマは朝比奈インター手前でウインカーを点滅させ出口へ向かう。レイさんはマニュアルギアをシフトダウンしながら叔父さんのボルボと微妙な距離を保ちつつインターを降りて行った。
ボルボは一般道に降りると鎌倉方向にハンドルを切った。
「三浦海岸ではなさそう。鎌倉だとアニメも映画も多いから題材には困らないけど」そんなどうでも良い独り言を呟く。
ボルボを追いかけて対向車線のない登り坂を登っていく。
「ここ、どの辺?」GPSを見ているユリさんに聞いてみる。
「私もそれが気になっています。ナビでは山の中だけど鎌倉市内には入っているみたい」レイさんは狭い舗装路のカーブを減速しながらやり過ごし、叔父さんのクルマから少し距離を置いて追いかけている。
アスファルト舗装は荒くなり道路幅は狭くなり、この小さなイタリア車でなければボディに枝が掛かるくらい木々も鬱蒼としている。
辺りの景色は急に霧が掛かったように白く濁り、レイさんがクルマの速度を緩めて進んで行くと目の前に格子状のフェンスが現れた。
「行き止まり?」
レイさんが高い声を上げながら助手席の僕の方に向ける顔が、疑問系から怪しみ系の表情に変わる。レイさんの視線を追い外を見ると左ドアのすぐ横に防護服を着た人が立っていた。
窓を開けるようノックしてくるので、助手席に座る僕がウィンドを少し下げると、マスクで顔が分からない防護服を着た男から命令口調で指示される。
「汚染エリアに入ったので収容施設へ向かって下さい」
「どういうことですか?」
クルマのハンドルに手を掛けたまま、レイさんが不審な表情を隠さずに防護服の男に尋ねる。
防護服の男は「防衛省」と書かれた顔写真付身分証明書を提示して答える。
「この一帯に毒ガスが広がりました。皆さんは汚染されているかもしれません。除染装置を設置したので、この先にある建物へゆっくりと向かってください」
防護服の男はフェンスを開け、クルマの侵入を促す。
「どうします?」このまま進んで良いのか?
「ここまで登って来た道が狭くてバックが出来ないから、前に進むしかないかなぁ」
レイさんは消去法で行動を決めるようだ。
運転をしているレイさんの意見に従い、クルマはフェンスの中にゆっくりと入って行った。
鬱蒼とした林の中をしばらく走ると大きな別荘風の建物が目の前に現れた。
先ほどと同じ防護服を着た男が建物の前に立ち、地下に続くスロープを指さす。
「『あそこに入れ』と言っているみたいだけど?」
「ここまで来たら入るしかないかぁ。中に入ってヤバそうだったら直ぐに出てくれば何とかなるでしょう」
レイさんの言葉に僕とユリさんは頷き、スロープを下って行った。
建物の地下部分と思われるスペースはクルマが数台止まれる広さの駐車場になっている。光量の足りない蛍光灯が薄暗く周りを照らしていた。
「とりあえず着きましたがどうします?」自分が疑問系ばかりを投げかけているが、仕方ない。
「何だか怪しくないですか?」
今まで後部座席で黙っていたユリさんが口を開くと同時に、入って来たスロープから大きな音が響き、シャッターが閉まった。
「やられたかぁ」
レイさんが『やっぱり』という表情をして、フロンドウインドから何かを探すように周りを見ていたら蛍光灯が消え、明かりは自動車のヘッドライトだけとなった。
「何にやられたのですか?」だんだん自分が間抜けに思えてきた。
「防護服の人がフェンスで見せた身分証明書があったでしょう」
「防衛省の?」
「そう。防衛省の身分証明書を現場の人たちが付けるはずがないわ。現場だったら陸自や海自の身分証明証のはず」
「ニセモノ?」
「たぶんね」
「私たちは誘拐されたのですか?」後部座席からユリさんが不安げな声で聞いてくる。
「自分のクルマで入ったから誘拐ではないかな? 悪意を持って誘導された感じ?」
レイさんは何かに騙されたところまでは勘づいていたようだ。
防護服の男たちが現れるのではないかと思いクルマの中でじっとしていたが、しばらくしても状況に変化はないので、この地下駐車場から脱出するために出口を探すことにした。もしもに備えてレイさんはクルマの運転席に控えて、僕とユリさんはスマートフォンの明かりを頼りに出口を探すためにクルマの外に出た。
「建物に入れそうなドアがありませんね」一緒に地下駐車場を一回りしたあと、ガッカリした声でユリさんが話し掛けてくる。
「地下駐車場なら建物に入るドアがあっても良さそうなものだけどね」この地下駐車場はクルマで降りてきたスロープ以外に出入口は無さそうだ。
レイさんもクルマから降りてきた。どうやってここから脱出するのかをクルマのヘッドライトだけが頼りの暗闇で相談していたら、どこからかスピーカー音が聞こえてきた。
「準備はよろしいですか? 除染を始めます。これから毒ガスを中和するガスを流しますが、人によってはアレルギー反応が出たり、場合によっては死に至るかも知れません。しかし皆さんが浴びた毒ガスは中和しない限り、死体に近づいた人も毒に汚染されてしまいます。ですから万が一の事があっても運命として受け入れて下さい。中和ガスを浴びている時は動き回らないようにして下さい。死亡リスクが高くなる恐れがあります」
ヘッドライトに照らされたレイさんとユリさんの表情は固まっていた。
おそらく自分も同じ顔をしているのだと思う。
自分たちが置かれた状態にどう対処して良いのか分からないまま、3人は立ち尽くした。
一時して、レイさんが大きく頷き声を上げた。
「クルマに戻ろう!」
レイさんが言い終わる前に3人は急いでクルマのドアを開けて乗り込み、直ぐにドアを閉めた。レイさんがカーエアコンを切り送風口を閉めエンジンを切る。
3人とも息を潜めヘッドライトに照らされたクルマの周りを見ていると、何処からともなく白いガスが流れてきて地下駐車場内を満たしはじめた。
「これが中和ガスでしょうか?」後部座席からユリさんの小さな声が聞こえてくる。
「死ぬかも知れない中和ガスなんて、あるのかしら? 絶対なにかおかしい」
そう言いながらもレイさんは口にハンカチをあてている。
僕も気休めにハンカチを口にあてながら周りを見ていると、意識が薄れていった。
(9月 十六夜にかぐや姫:続く)
彼女と僕の奇妙な日常【小説家になろう!】 MOH @moh
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