8月 夏の合宿所

【夏到来】


 今年の夏は暑い。

 東京で過ごす夏は初めなので、例年より暑いのか分からないが、ニュースで『近年稀に見る暑さ』と言っているからそうなのだろう。


 前期試験はレポート提出が多く、結果はともかく試験は終わり、入学してからほとんど通学しないまま大学生初めての夏休み。帰省も考えたが東京に出て来た時のトラウマで、同じ新幹線に乗るのには躊躇する。3月末に彼女と東京へ来る途中の異常事態は記憶に新しく、文字に書き起こそうとするとキーボードの指運びが停まってしまう。いずれ書ける日が来るとは思うが。


 8月に入ると彼女のアルバイト、ブライダルモデルのスケジュールは空いているらしい。夏のあついシーズンはあついカップルも、あつい婚礼カタログは見たくないだろうし、結婚にうるさい親からあつも少ないのかもしれない。


「やっぱり5階にして正解。地表から離れれば熱い地面の輻射熱を浴びなくて済むし、上の階は風も入るから快適よ」

 暑くなってから彼女は、キッチンやバスルームを使う時以外、5階から降りてこない。5階は彼女以外誰もいないので、窓や扉を開け放して暑さを凌いでいるようだ。


 今どきエアコンも無いの? と驚かれるかも知れないが、この古い建物にエアコンは無い。正確に言うとオフィスビルだった頃にクーラーという遺構がある。叔父さんが住み始めてからクーラーが壊れ、業務用クーラーの修理費が高くて放置しているらしい。彼女が電気店にエアコンの設置を頼もうとしたら、叔父さんから止められた。面倒で費用のかかる電気工事が必要とのこと。


 小説家になる勉強をする前に猛暑対策が必要な合宿所へ、高校生のユリさんは今日も顔を出している。高校の授業があるときは週末限定研修生だが夏休みに入り、マメにここへ通っている。彼女とウマが合うのか、用事で下に降りてくるとき以外は5階の住民になっている。2人で小説を書き進めているのかも知れない。


 暑さに耐えられず、ボーッとしていると2階から叔父さんが降りてきた。最近は叔父さんもよく部屋にいる。「働き方改革で出版社にもテレワークがあるのだよ」と言っていたが、出版社は午後出社して朝帰りするイメージしかないのだけど。


 叔父さんは隣のソファにドサッと腰を下ろし、MacBookを開いている僕を見ながら聞いてきた。「執筆は進んでいるかい?」

 この暑さにダラけている姿を見れば分かると思うけど。「言い訳はしたくないのですが暑いですから。Macのキーボードに汗が流れて壊れないか心配です」少し大袈裟に言ってみた。

「じゃあ、みんなで涼しいところへ行こうか」叔父さんが勿体ぶった言い方をする。

 そんなに簡単に涼しいところへ行けるの?


「今日、ユリちゃんも来てたよな。ちょっと2人を呼んでくれる?」

 うなずいてMacBookを閉じ、ソファから立ち上がり階段を登り始める。この暑さの中、5階まで上がるのは大変。背中に貼りついたTシャツが気持ち悪い。


 風がそよぐ5階では、リノリウムの廊下に2人ともペタッと脚を伸ばして座り、壁に持たれてガリガリ君ソーダ味をかじっていた。

「アレッ? そのアイスどこで買ってきたの?」僕の質問に2人は不思議な顔をする。「どこって、近くの(近くはないけど)コンビニに決まっているでしょう。遠くから買って帰るとソーダ水になっているわ」

 コンビニで買ったのは分かるけど。「ユリさんが買ってきたの? いや? ユリさんは午前中からココ(合宿所)にいるから、アイスを買ってきても溶けているはず」

 僕が疑問を呈すると、彼女が『アッ!分かった』という顔をして、手に持つガリガリ君をブンブン振る。ガリガリ君のしずくが隣に座っているユリさんのショートパンツ姿の脚にボタボタと落ち、彼女が慌ててハンドタオルで拭う。

「ごめんなさい。エムくんが変な質問をしてくるから。その理由が分かったら嬉しくて」

 ユリさんの脚にガリガリ君のしずくが垂れたのは僕のせい?


「では、疑問を持つエムくんにお答えしましょう。私たちは21世紀に暮らし文明の利器があります。文明の利器があれば、暑い夏でも冷たいものが食べられます」彼女は得意そうに極フツーのことを説明する。なるほど、僕が知らなかっただけか。

「冷蔵庫を買ったの? 運んだ覚えはないけど」 冷蔵庫が届いたら僕に「5階までよろしくね」の指令が飛ぶはず。「エムくんが頑張ってもあれを運ぶのは大変よ。見てみる?(僕「見てみたい」)仕方ないなぁ。乙女の部屋には簡単に入れないのよ」扉が開けっぱなしの、乙女の部屋を見せてくれるようだ。


 彼女とユリさんはリノリウムの廊下から立ち上がり、彼女が「では、どうぞー」と手招きをする。考えてみれば彼女の部屋に入るのは、5月の真夜中に彼女に呼ばれたコウモリ騒ぎ以来。久しぶりに入る彼女の部屋は、以前入った時とは大違い。前回は真夜中の緊急事態で部屋をあまり見なかったが、ここまでモノは無かったはず。家電製品他いろいろ揃っている。中でも異質なのは、お店で見掛ける小ぶりな業務用冷蔵ケースが2つ。「右が冷蔵で左が冷凍用。コンビニみたいに大きくはないけど、ジュースやアイスを冷やすならこれで十分よ」

 彼女が冷凍ケースのドアを開けて、ガリガリ君ソーダ味を渡してくれる。

「ありがとう。でもこんなもの、どうやって手に入れたの? 運ぶのも」

「ブライダルモデルのエージェンシーが事務所で不要になったものをもらったの。お願いしたら5階まで運んでくれたわ」 なるほど、僕が大学に行った日に届けられたのかも。


 部屋には他にも珍しいもの(変なモノ)があり、ガリガリ君を齧りながら彼女の説明を聞いていると、階下から大声が聞こえてきた。「ミイラ取りがミイラになったのかぁ!」そうだ! 叔父さんに彼女たちを連れてくるよう言われたのを忘れていた。でも叔父さんの例えは、おかしいと思う。『ミイラ取とりがミイラになる』は『相手に働きかけようと出かけた者が、逆に相手に取り込まれてしまう例え』。神に誓って「僕が彼女に取り込まれてしまうことはない」と信じたい。神様を知らない葬式仏教徒だけど。


 彼女とユリさんを連れて急いでホールへ降りて行くと、叔父さんは立ったまま玄関横の窓から、夏の日差しがきつい外を見ながら電話をしている。

 僕たちは長ソファに並んで座り、叔父さんの電話が終わるのを待つと、しばらくして「うん、そういうこと。じゃあよろしくね」と通話を切り、長ソファの向かいにある1人掛けソファに腰を下ろした。

「研修生のみなさん(叔父さんから初めてそう呼ばれた気がする)暑い中、執筆活動お疲れさま。君たちの執筆が捗るよう、涼しいところを確保したから参加するように。明日の午後出発するからそれまでに泊まる準備をしておくこと。俺のクルマで行くから交通費は不要。行った先には一通りのものが揃っているから心配は無用。今日はこれから出掛けるのであとはよろしく」


 叔父さんはそれだけを言うと、アロハシャツに短パン姿、あとはいつもの鍔付き帽子にサングラスの出立ちのまま、玄関を出てクルマに乗り、どこかへ出かけてしまった。




【紀行文】


 叔父さんの急な話に、僕たちは何事?と思う。

「『涼しいところを確保した』と言ったけど、避暑地に連れて行ってくれるのかな?」叔父さんは、そんなに甘くないはずと思いながら口にする。

「叔父さんは別荘を持っていないよ」

 そうか。彼女は親戚だから叔父さんのプライベートも知っているのか。


「私は家に戻って準備をします。父はココ(合宿所)へ来ることを認めているので、明日から合宿所に泊まり込むと説明します。知らない所へ行くと言えば、父が心配しますので」ユリさんが尤もなことを言う。父親が叔父さんと仕事で知己があるとは言え、泊まり掛けで知らないところへ行くと言えば、ご両親の許諾は難しい。


 何かを考えていた風の彼女が大きく頷き、口を開く。

「もう、避暑地行きの執筆時間は始まっていると思うの」

 彼女の瞳が輝き始める。僕は行き先への不安が高まる。


「文豪作家が執筆のために避暑地へ行くのは分かるけど、文壇デビューもしていない私たちが、涼しいところで小説が書けるなんて変だと思わない?」それは彼女の言う通り。わざわざ僕たちを避暑地に連れて行く理由はない。

「叔父さんは私たちに、ここから始まる紀行文を書かせるつもりなのよ」


 どこ情報? 疑問に思っていると、ユリさんが何かを思い出したのか、スマートフォンで調べ始めた。「ありました!『紀行文』という言葉が耳に残っていて、これですね」

 ユリさんが見せてくれたディスプレイには「ティーンエイジ『夏の紀行文』募集」が表示されている。


 10代限定なので賞金や賞品はそれなりだが、主催と協賛が出版会社の有名どころ。「それそれ! 私もどこかで見たと思っていたからそれよ。そっかー、叔父さんも考えてくれているのね」彼女の中で叔父さんの株が上がる。

「叔父さんは僕たちに紀行文を書かせて、執筆力を上げさせようとしているの?」 僕の素朴な疑問に、彼女は微妙な表情。

「それは当たり前だけど、叔父さんの狙いは私たちに賞を取らせて、合宿所のスポンサー確保を目論んでいると思うの」何? その壮大な計画は。

「叔父さんはスポンサーを捕まえて、一儲けを考えているわけ?」


 ユリさんが珍しく口を挟んでくる。「この前クルマでここへ送って頂いた時『クーラーも修理したいけど高くつくからな』と仰っていました。スポンサーを募って合宿所の整備をするつもりではないでしょうか」

 高校生のユリさんが見ても、この合宿所の設備はマトモではないらしい。ココに住み始めて4ヶ月経つ僕が身に染みて分かっているのだから間違いない。


「大手出版社が主催するコンテストなら、賞を取るのは簡単ではないと思うけど」 僕は真っ当なことを言ったつもりだが、彼女の瞳がキラリと輝いた。いや『爛々と』という表現が正しいのかも知れない。

「エムくん、今の発言は戦わずして負けを認めたのと同じよ。不戦敗ね。最初からそんな弱気でどうするの? 文学賞の応募は文壇デビューに必要な通り道よ」

 言われることは尤もですが、僕は「小説家になろう」が募るコンテストにクリックだけで安易に応募するくらいですから。


 ユリさんがソファから立ち上がる。「では、今日は失礼します。所長(ユリさんは叔父さんのことをそう呼ぶ)は午後出発すると言われたので、明日のお昼までに戻って来ます」

 暑い陽射しが照り付ける中、ユリさんは玄関を出て行った。




【避暑地へ】


 翌日正午前、ユリさんが合宿所に現れた。

「暑いですぅ。死にそう」

 背中に大きなノースフェイスのバックパックスクエアボックスを背負っている。このバッグはいつから高校生の制服ならぬ制鞄になったのだろう。容量が大きくて便利そうなのは分かるけど。


 首筋の汗をハンドタオルで拭いながらホールに入って来たユリさんの服装は、濃いブルーのTシャツに白のショートパンツ。大きなストローハットで顔をあおぎながらホールに入って来た足元は、ストラップ付コルク調サンダル。空色のペディキュアが目を惹く。健康的な女子高校生の夏服姿。リュックを背負っているのでTシャツ生地の胸元に緊張感が漂っている。ユリさんが初めて合宿所に来た時の彼女の観察眼は正しかったようだ。ユリさんは彼女の2才年下だが、慎ましやかな彼女のそれと比べてユリさんの胸元は豊か。でもそれを口にするのはあらゆる意味で危険。無意識にユリさんの胸元へ視線が行き、彼女が僕の視線を追っているのに気が付いた。さりげなく視線をずらし、陽射しが眩しい窓の外に目を向ける。


「ユリちゃん、ちょうど良かったわ。お昼を作ったところなの、一緒に食べましょう。叔父さんは昨日あれから出掛けたままだから、戻って来たら直ぐに出発すると思うの」一瞬、眉間が険しく見えた彼女は、何事もなかったかのようにユリさんに声を掛ける。


 彼女に促され、僕の正面に彼女が、その隣にユリさんがテーブルにつくと、いつもの勝負飯。「銀座」「骨董通り」「赤坂」に続き、今回も彼女は何かと勝負をするつもりなのか? アレッ? 今までとメニューが微妙に違う。おにぎり、卵焼き、御御御付けは今まで通りだが、それと、お稲荷さん? 6月のお狐さまは祓われたはずだけど…


「美味しい! 暑くても、この御御御付けを頂くとサッパリします。お稲荷さんに生姜が入っていて甘過ぎず、幾らでも食べられそう」

 ユリさんは小柄だけど食欲は旺盛。17歳の育ち盛り。栄養は身長には向かわず、他のところへ行っているのかも知れない。冗談でも口にすると危ないから黙っておこう。視線にも気を付けなければ。

「ユリちゃんから『美味しい』を貰えて良かったわ。お稲荷さんは作り過ぎたからタッパーに入れて持って行くの。叔父さんのクルマは古いから、途中で止まった時の非常食」どこの避暑地へ行くのか聞いていないけど、マトモに辿り着かないことが前提なの?

 彼女の美味しい勝負飯を食べ終えても叔父さんは戻って来ず、彼女とユリさんは(涼を求めて)5階に上がり、僕は叔父さんを待ちながらホールのソファで MacBook を開いたまま寝落ちした。


「オイ! 出掛けるぞ」

 頭の上から降ってくる声で目が覚めた。目を開けるとホールがバタバタしている。うだるような暑さのホールでうたた寝をして汗びっしょり。革張りのソファに張り付いたシャツを背もたれから引き剥がして立ち上がると、彼女とユリさんは玄関を出るところ。叔父さんはキッチンで何かを探している。


 寝ている間に叔父さんが帰って来て、他のみんなは出発の準備をしている。僕も東京に来る時に使ったキャスターバッグを転がして玄関を出ると、彼女とユリさんがボルボの開いたテールゲートの前で難しい顔をしながら立っている。僕が近づくと彼女が荷室を指差す。

「エムくん、荷物入らないよ」

 叔父さんのクルマは古いとはいえボルボのステーションワゴン。

「広い荷室に入るはず」と思い彼女の横に立つと、目の前のカーゴエリアは荷物でいっぱい。叔父さんは何を詰め込んだのだろう。ユリさんが背負ってきたバッグは座席に置くとしても、彼女と僕のキャスターバッグはどこにも入らない。

 僕たち3人がどうしたものかと、キツい日差しの下で立ち尽くしていると、叔父さんが大きな箱を持って玄関から現れた。ダンボール箱を大事そうにクルマの脇に置き、僕たちの方を向いて不思議そうな顔をする。

「どうした? 荷物をサッサと積み込んで出発するぞ」

「バッグを入れる場所がないの」彼女が自分のキャスターバッグを指さす。

「そんなアホな。ステーションワゴンだぞ… ありゃ? いっぱいだ。誰がこんなに詰め込んだんだ?」叔父さんは積荷の一つをカバーの上から手で触り、ゆっくりと頷く。

「なるほどー、あいつらか… 仕方ないな。バッグは屋根に積むからエムくん、ルーフキャリアを取ってきてくれる?」

 叔父さんに言われた通り1階の納戸にスーリーのキャリアを取りに行き、クルマに取り付け荷物を括り付けて、叔父さんの運転で僕が助手席、彼女とユリさんが後部座席に座りようやく出発した。


 都心は道路渋滞で時刻は午後3時過ぎ。今日中に目的地に着けるのかどうか。

「叔父さん、うしろに何を積んでいるの?」彼女が後部座席まで迫っている荷物を手でパンパンと叩きながら聞いてくる。それは僕も知りたい。

「オイオイ、叩いたりしたら危ないぞ。触らないこと」バックミラーで彼女を見ながら叔父さんは注意をするが、肝心なことには答えてくれない。

「叔父さん、まさか爆弾とか積んでいないよね?」彼女は慌てて手を引っ込め、前の座席に乗り出してくる。

「そんな物騒なものは積んでないぞ。でも触るなよ」 後ろの荷物を気にしながら振り返る彼女の姿勢を糺すように、叔父さんは古いボルボのアクセルを踏みつけ、首都高速の入口を駆け上がった。


 クルマが高速道路に入ってからは渋滞もなく関越自動車道路を北上する。8月とはいえ、お盆を過ぎ平日の夕方は空いていた。嵐山パーキングエリアで途中休憩した時、彼女が叔父さんに行き先を尋ねるが「着いてからのお楽しみ」としか答えない。

 そのあと藤岡JCTから上信越自動車道路へ入り、碓井軽井沢インターを下りると午後6時を回っていた。

「叔父さん、もしかして軽井沢に泊まるの?(叔父さん「あぁ」)やったー! さすが編集長。いにしえから文豪たちにゆかりのある避暑地よ。有島武郎、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、堀辰雄、最近だと遠藤周作かな。これで創作意欲が湧かない方がおかしいわ」後部座席で半分寝ていた彼女は急に元気になり、隣のユリさんも彼女が挙げる文豪の名前に頷いていた。みんな明治時代の小説家だけど、二人ともよくご存知。彼女は遠藤周作を「最近」と言っていたけど作品はどれも昭和の時代。小説家になるためには昔の小説も読まなければならないのか。




【軽井沢だけど】


 叔父さんの運転で、旧軽井沢銀座通りに入っていくと昼間の歩行者専用時間帯は終わっており、クルマは通りをゆっくりと登って行く。お盆を過ぎたからか、通りを歩く人もまばら。三笠通りに入ると整備された街路樹が整然と立ち並び、そこからクルマは左折して、舗装されていない幅の細い道を上っていくと周りの木々が鬱蒼としてきた。「たしか、この辺だったと思うんだけどなぁ」

 叔父さんも初めてのところ? クルマにナビがないので、どこにいるのか分からない。「あった、あった。ココ、ココ。門を開けてくれる?」

 道幅が更に狭まり「森林」という表現がピッタリのところまで来ると、叔父さんはクルマを停め、その先には映画の秘密基地に出てきそうな大きな門が構えていた。 助手席を降り、掴み所のない鋼鉄製の門を力任せに押してみると鍵は掛かっておらず、錆びた金属の擦り合う音を立てながら鋼鉄の扉が開いていく。


 目の前に現れたのは、古いリゾートホテルのような2階建ての建物。

 僕が開けた門を、叔父さんのクルマは建物まで伸びる石畳を徐行し、その後をついて歩きながら周りを見回すと、敷地を囲む塀が見えないくらい木々が生い茂っている。敷地内も手入れがされていないのか、雑草が生え放題。

 建物の中央にあるクルマ回しにボルボを停め、叔父さんたちが降りて来た。

「ココは何の施設?」彼女が古びた建物を胡散臭そうな表情で眺めている。

「見れば分かるだろう。今日、泊まるところさ」叔父さんはポケットから大きな真ちゅう色をしたキーを取り出し、玄関扉の鍵穴に差し込んで回すと『ギィーッ』と大きな音がして扉が開いた。

「なっ? 預かった鍵も合っているし、ここが避暑地の小説家養成合宿所」なるほど、暑さとの戦いが最優先だった東京の合宿所とは、比べものにならないくらい涼しいけど、別の意味でも涼しそう。ここにはあやかしとか出ないよね?


「お腹も空いたし、早く中に入りましょう。叔父さん、夕食はどうするの?」料理好きな彼女は、食事のことが気に掛かる。

「バーベキューセットを近くの人に届けさせると聞いているから、準備しているはずさ」叔父さんはキャリアに積んだ荷物を下ろしながら『準備が良いだろう』と言わんばかりにドヤ顔をする。

 彼女はキャスターバッグを受け取りながら「さすが、編集長」と持ち上げる。

 食事の準備と雑誌の編集業務は関係ないと思うのだが。


 クルマから荷物を下ろし、中に入ると建物の中は真っ暗。 手探りでスイッチを探して照明が点くと、玄関を入ってすぐのところに吹き抜けのホールがあり、傍に階段とエレベーター。両側に廊下が伸びている。


「部屋はどこにあるのでしょう?」ユリさんが、ガランとした廊下の左右を見ていぶかしい表情をする。

「どこでも使っていいと言っていたから、好きにしていいぞ」

 好きにしろと言われても、どこに何があるのかわからない。

 叔父さんの言葉を聞いても、誰も動かないままでいると、叔父さんが廊下をスタスタと歩き始め、廊下に並ぶ扉を適当に開けていく。彼女と僕はキャスターバッグを転がし、ユリさんはバッグを背負い付いて行く。


「オッ! ここがキッチンか」

 大きな両開きの扉を開けた叔父さんは、宝物を見つけたかのように嬉しそう。僕たちを引率して来たのだから、どこに何があるのかくらいは知っておいてほしい。


 陽はすっかり暮れ、窓越しに虫の音が聞こえてくる。

 荷物の片付けは後回しにして、夕食の準備をすることにした。

「今からだと夕食は遅くなるわね」と、彼女が呟くと、「心配いらんよ」と叔父さんは何の迷いもなく、業務用冷蔵庫に入っている切り分けられた肉と野菜のトレイを取り出す。なぜ食材の収納場所を知っているのだろう?

「さっきバーベキューの準備をしていると言っただろう。編集長なるもの、手はずを整えておくのは当たり前さ。裏庭にバーベキューセットが用意されているから、トレイを運んでくれる?」叔父さんは大人の余裕を見せ、顎髭に手をやる。

 キッチンに入るまでの手探り状態と、食材を取り出してからの手際の良さのギャップが気になる。


 キッチンの外扉を開けると、そこは裏庭というには広すぎる空き地が広がっていた。周りの眺めは良く遠くに見えるのは浅間山かな。

 建物の外灯に照らされたテーブル、グリル、椅子が用意されており、食材のトレイをそこまで運んで行く。叔父さんが居なくなったと思ったら、出掛けるときクルマに運び込んでいた段ボール箱を持って現れた。

「さぁ、乾杯しよう。ガスバーベキューグリルだから焼くだけだ。あとはよろしく」

 叔父さんは段ボール箱からクーラーボックスに入ったビールのプルトップを開けて飲み始める。「叔父さん、いつもみたいに酔い潰れても、今日はお世話をする大人の人はいませんよ」彼女はグリルに火を入れ、野菜や肉を乗せながら叔父さんに釘を挿す。「心配は無用。数メートル歩けば部屋に辿り着くから、あとは寝るだけさ」

 ユリさんは二人の会話を聞きながら、彼女の横で食材をグリルに並べていた。


「ところで、ココって何なのですか?」食事を前に今更だが、そもそもこの建物がどこの何なのかも分からないままバーベキューを始めるのも変な話。

「この建物かい? ここは昔、会員制ホテルだったところさ。経営が行き詰まり潰れてから、どこかの会社が保養所にしたけど、その会社も清算されて俺の知り合いが引き取ったそうだ」そんなに縁起の悪い不動産を引き取った、叔父さんの知り合いは大丈夫?


「その知り合いの方は、ご存命なのですか?」オカルト同好会の叔父さんのことだから、あの世の知人かも知れない。

「お前、縁起の悪いこと言うなよ。今朝も電話で話したばかりさ。まあ、それなりの年齢だから身体の調子が良くないとは言っていたけどな」僕たちがこの元ホテルにいる間は、元気でいてほしいところ。


 そのあとグリルで焼かれた食材が次々と皿に並べられ、僕たちは食欲を十分に満たし、叔父さんはいつもの通りお酒がビールからワインに替わりラッパ飲みをしながら半分寝かけていた。熟睡されると大変なので建物の中に連れて行き、キッチン近くのドアをいくつか開けていくと、ホテル仕様の個室が見つかり、叔父さんをそこに寝かせ、僕たちは裏庭へ戻って行った。


 バーベキューセットを簡単に片付けながら、明日のことを相談する。

「叔父さんは明日の予定を言わなかったけど、どうするんだろう?」涼しいところに連れて来てもらったけど「涼を取る」だけではないよね。

「小説の執筆に決まっているでしょう。東京の合宿所が軽井沢に移っただけよ」彼女の言うことはご尤も。でもそれだけで良いの?

「紀行文を書かなければならないと思います」紀行文募集サイトを見つけたユリさんは忘れていない。

「ユリちゃんは、もう書き始めているの?」東京を出発してから今までクルマの中と、ここでバーベキューをやっただけなので書いている時間はないはず。

「時々、スマートフォンにボイスメモを残しています。私、この紀行文は、エムさんを主人公にして書こうと思っています」ユリさんが、僕をチラリと見ながら彼女の質問に答える。僕が主人公? ユリさんの意外な返事に、彼女の片付けの手が一瞬止まり、溜息ためいきをついたあと口を開いた。

「そうね。具体的な主人公が目の前にいれば、紀行文が書きやすいかも知れないわ。エムくんは行動が分かりやすいから素材には良いかも。私もエムくんを主人公にして紀行文を書こうかしら」彼女の、ユリさんに張り合うような口ぶりが気になる。

 微妙な場の雰囲気を変えるため、話を別の方向に振ってみた。

「紀行文は著者が何処かを訪れた時の体験や見聞したことを、感想を交えて書くよね。僕という別の人物を主人公にしても意味がないのでは?」僕は無難な説明をしたつもりだが、彼女が腕組みをして右手を挙げ人差し指を左右に振りながら、口で「チッチッチ」と効果音を出す。講義の時間だ。いつもの彼女に戻ったようだ。

「私たちは『紀行文』が、お題のコンテストに応募する作品を書くのよ。当たり前の紀行文を書いても最終選考まで残るのは難しいわ。敢えて主体を他の人に設定して、ひと味違う紀行文を書けば意外性が評価されると思うの」僕を主人公にすると意外な紀行文が書けるの?


「私は昨日、自宅に戻ってからエムさんを主人公にすることを考えました。エムさんって個性的ですよね」女子高生から個性的と言われたのは初めて。目立たなくしているつもりだけど、何が個性的に見えるのだろう。

「ユリちゃんもそう思う?(ユリ「思います」)じゃあ、同じ主人公になるから書き方が被らないように、時々打合せをしないとね… 寒くなってきたわ。中に入らない?」僕を紀行文の主人公にするのは腑に落ちないけど、外が寒くなったのには同意して建物に入り、叔父さんを寝かせた部屋の近くを調べてみると、どの部屋にもシーツやリネンが揃っており、僕はシングルルームを、彼女とユリさんは2人でツインルームを使って休むことにした。




【深夜の出来事】


「大変!」

 大声で目が覚めた。『バタンッ!』とドアが開き、部屋に誰かが入って来る。

 寝ぼけながらベッド脇のスイッチを押すが、部屋の灯りが点かない。懐中電灯を照らす誰かが、ベッドまで近づいて来た。目の焦点が定まらないまま警戒する。


「エムさん! いなくなりました!」真夜中に部屋へ入ってきたのは、ジャージ姿のユリさんだ。起きたばかりなのか、髪が乱れている。

「ユリさん、どうした? 誰かいなくなったの? 彼女とか?」いなくなったのは、ユリさんと同じ部屋にいた彼女しか考えられない。ユリさんが叔父さんの部屋を訪れていれば話は別だが、高校生のユリさんにそんな趣味はなさそう。


「そうなんです。さっき目を覚ましたら、隣のベッドにいないんです」

「夕涼みに行ったのかな?」自分で言っておいて、アホなことを言ったと思う。深夜の軽井沢で夕涼みをする人などいない。ユリさんは僕の言ったことを冷静に聞く余裕はないようで、僕の言葉には突っ込まずワタワタして落ち着かない。

「常夜灯が消え、備付の懐中電灯を照らして来たのですが、ここまで誰もいませんでした」この部屋の灯りも点かない。古い建物だから電気系統が故障したのかも知れない。僕も非常用懐中電灯を点けて、ユリさんと廊下に出てみた。

「アレッ? スマートフォンが圏外になってる」

「そうなんです。私も電話を掛けてみようとしましたが、圏外なので諦めました」

 これはおかしい。この古いホテルに着いた時、アンテナは少しだけど立っていた。この地域全体が停電して携帯基地局も使えなくなった? でも基地局には非常用電源があるはず。気を取り直して、叔父さんを寝かせた部屋に入ると、叔父さんは意識を失ったように眠っており、揺すっても起きる気配がしない。


 とりあえず叔父さんの生存確認をしたあと部屋を出て、ユリさんと2人で彼女を探すことにした。

「どうする? 建物の中を手分けして探してみる?」

「エムさん、そんなことを彼女さんの前で言ったら怒られますよ『か弱い乙女を一人にするつもり?』って」暗がりの中で、ユリさんの声が少し震えている。

「いや、言ってみただけだよ。ユリさんを一人にはしません。彼女がいなくなったばかりだし」

「彼女さんが居なくなって、心配ですよね?」ユリさんは僕の前で、彼女のことを『彼女さん』と呼ぶ。彼氏彼女みたいで面映おもはゆい。

「今みたいに『これからどうしよう?』という時、仕切り屋さんの彼女がいないのは、物足りないかも」年下のユリさんの前なので、少し強がって見せる。

「それもですが、付き合っている彼女がいなくなると、心配でしょう?」暗がりの廊下で、ユリさんが僕の顔を覗きこむ。

「(僕が)彼女と付き合っているの?」我ながら間抜けな返事をする。

「エッ? エムさんは、彼女さんとお付き合いをされていないのですか?」懐中電灯に照らされた、ユリさんがいぶかしげな顔をする。『ここは誤解を解いておかねば』と思いつつ、彼女と僕の関係を自分自身が分かっていない。どういう関係?


「うーん… 付き合っているのかどうか、分からないなぁ」彼女と僕の関係は、高校生の頃から変わっていない気がする。

「だって、一緒に住んでるじゃないですかぁ」2才年下のユリさんが、タメぐちになっている。

「同じ所(合宿所)に住んでいるけど叔父さんもいるし、部屋も別々でしょう?」 ユリさんの言い方が同棲っぽいので、思わず否定する。

「実家も同じ地方で、高校からのお付き合いで同じ大学に入ったのだと思っていました」なるほど。傍から見れば「同じ高校出身で同じ大学」は間違っていないけど「お付き合い」はどうなの? お付き合いをしていれば「デート」をするよね。高校の頃も大学に入ってからも彼女と一緒に行動することはあっても「チョットお茶」とか「お食事」をした覚えはない。模擬披露宴で腕を組んだけど、それ以外ではそんな事もしていないし。話をする時の彼女の距離は高校の頃から近いけど。

 東京に来てからはあやかしや、お狐さまも出て来て、どちらかと言えば戦友?


「彼女とは『お付き合い』と言うよりも『同志』かな」

「そうなんですか? 彼女さんとは、お付き合いされていないのですか?」

「『お付き合い』とはチョット違うかな」

「なるほどー… 私、年上の人が好みなんです。(彼女)候補になれますか?」ユリさん、いきなりどうした? 懐中電灯が照らす範囲から外れたユリさんの顔と話した表情が分からない。どう答えれば良いのか? 暗い廊下でユリさんと僕の間に、微妙な雰囲気が漂う。


「そんなことより、まず彼女さんを探さないとですね」ユリさんは僕の腕を掴んで歩き始める。僕の疑問は暗い廊下に置き去りにされたまま、ユリさんは先を歩き始めた。建物は横に長いだけかと思ったら元会員制ホテルだからか、廊下が曲がりくねり部屋の配置も独特で照明が無い中では歩きにくい。

 窓越しに虫の音しか聞こえない廊下を歩いていると、腕を掴むユリさんの身体がだんだん近くなる。僕の腕にユリさんの豊かな胸があたっているけど、気にしないことにしよう。彼女もいないし、真っ暗だから咎める人はいないはず。


 そんな役得感を味わいながら、1階と2階の歩いて入れるところを探し回ってみたが、どこにも彼女がいる気配はない。建物を出てどこかへ行ったのか? 電波の届かないスマートフォンを見ると午前4時を過ぎていた。

 窓の外が白み始めている。

「いませんね。どうしましょう?」窓からの薄明かりでユリさんの顔に疲れた様子が見て取れる。自分の顔は見えないが僕も同じだと思う。

「明るくなってきたから、外に出てみよう」腕につかまったままのユリさんが頷き、用心して2階から階段を降り始め、踊り場から下の階段に足を下そうとしたところで、腕を急に引っ張られた。

『ゴロゴロッ、ゴロゴロッ、バターン!!』 

 思わずつむった目に星が走り、目を開けると目の前が赤い。

 古いホテルから、あの世に行ってしまったのかもしれない。赤いのは地獄?

 身体が痛いし、何かが乗っかっている。

「痛ーぃ… アッ! 今、退きますから」僕を覆っていた赤く柔らかい物体は、ユリさんのようだ。

「ごめんなさい。階段から足を踏み外したみたい」僕の上に、覆い被さるように重なっていたユリさんが覚束ない様子で身体を起こし始める。ユリさんは僕の腕を持ったまま、折り重なるように階段から転げ落ち、僕はユリさんのクッションになっていた。

 「大丈夫ですか?」とりあえず何ともなく、ホッとした様子のユリさんが聞いてくる。

「うん、階段が絨緞敷で助かった。転がっただけだし。ユリさんは?」

「エムさんが下になったので平気です。すみませんでした」これは役得と言って良いのかな? いや痛みが上回っている気がする。立ち上がって屈伸をしても異常ないので、大丈夫そう。

「疲れているから仕方ないさ。怪我が無くてよかった」

 明るくなってきたホールで、何とはなしにお互いの様子を確認する。

 改めてユリさんを見てみると上に赤いジャージを着ているが、下はタオル地のショートパンツを履き、健康そうな両脚が伸びている。

「もうすぐ夜が明けるから、外に出てみよう」

「そうですね。建物の中は一通り探しましたから」

 階段を転げたばかりなので、用心して玄関の扉を開けて外に出てみると、遠くまで薄く霧がかかっている。でも、何かが足りない気がする。

 ユリさんも首を捻りながら、不思議そうな顔をして「エムさん、何かが無くなったような気がします」と聞いてくる。

 うん確かに…


「「クルマが無い!!」」




【早朝の出来事】


 玄関のクルマ回しに停めてあった叔父さんのボルボが無い。

「彼女を探しているあいだ、エンジンの音はしなかったよね?」周りが明るくなり、僕から少し離れたユリさんに聞いてみる。役得の時間は終了した模様。

「ええ、虫の音しか聞こえませんでした」


 ホテルへ入る時に開けた門は開いたまま。思い出してみると昨日ここに着いてから門を締めた記憶がない。開き放しだったのかも知れない。

「どうしましょう?」明るくなった敷地内を見まわしながら、ユリさんが聞いてくる。

「うーん… もう一度、叔父さんの部屋へ行ってみよう」

 深夜には酔っ払って起きる気配がなかった叔父さんも、今なら起きるはず。


 建物に入り、昨晩酔った叔父さんを休ませた部屋に、ユリさんと入って行くと…


「「叔父さんがいない!!」」

 叔父さんのいない部屋でユリさんとどうしたものかと、お互いに顔を見合わせる。深夜に告白されたような、されていないような女子高生と軽井沢のホテルで二人っきり。今の困った状況でなければ、恋愛小説になりそうなシチュエーション。その手の物語を書くのは苦手だけど。


「私たちがいない間に、叔父さんと彼女さんがクルマでどこかへ出かけたのでしょうか?」ユリさんは現状分析をしながら、何かを考えているふう。

「僕たちが彼女を探している真夜中に? どこへ? クルマの音もしなかったし」 叔父さんがいなくなった部屋を出て玄関の吹き抜けフロアに戻ると、今まで気がつかなかった立派なソファが置いてある。深夜から寝ずの捜索で眠気と足のだるさが限界に近く、ユリさんと僕は無言でソファになだれ込むように座った。

「何も解決していないけど疲れたね」向かいのソファで横になったユリさんに声を掛ける。

「ええ、疲れて眠いです」ユリさんは目をつむったまま返事をする。

 僕も目蓋まぶたが落ちてきた…


「うぅ、なに? なに!」

 いきなり何かを被せられ、身体が宙に舞い上がり目が覚めた。朝が来たはずなのに周りは真っ暗。下の方には松明たいまつを片手に仮面を被った怪しい人たちが歩いている。自分を見ると捕虫網に捕まった虫の状態で、玄関の吹き抜けフロア天井からぶら下がっていた。


「エムさーん!」

 声がする方を見ると、同じように宙ぶらりんになったユリさんが網の中から僕に助けを求めている。

「大丈夫?」また間抜けなことを聞いてしまった。網に捕まったから大丈夫ではない。

「ダメです。苦しい…」ユリさんは下を向いたまま網に絡み取られており、胸に網が食い込んで苦しそう。

 仮面の人たちは、松明たいまつ片手に何か準備を始めている。

『拷問?』『生贄いけにえ?』縁起でもない言葉が頭を過ぎる。


 網に絡まれて身動きが取れず、時間の経過も分からないまま時が過ぎ、不自然な格好の手足が痺れ、網の中でもがいていると、鼓膜が破れそうなくらい大きな音が外から響いてきた。

『ドドドッ! ドッスーン!』

 すぐ近くに大きな雷が落ちたかのような大音響と響き。


 すると仮面の人たちは、蜘蛛の子を散らすように何処かへ行ってしまった。

「エムさーん、私たちどうなるのですかー」ユリさんを見ると網の中で体勢を立て直したらしく、上向きになり顔だけをこちらに向けていた。

「うーん、状況が分からないから何とも。まずこの網から出ないと」ユリさんと僕を絡め取った網はしっかりしており、数メートル下の床に落ちることはなさそうだが、網を破ることも難しそう。


 ユリさんと僕が捕虫網の虫状態のまましばらくすると、クルマが走ってくる音が聞こえ、玄関の前で停まりドアの開く音がして、叔父さんと彼女が扉を開け入ってきた。

「大丈夫か!?」

「大丈夫?」

網の中から、2人の緊張した声が聞き取れる。

「ええ、大丈夫じゃない状態で捕まっていますが、大丈夫です」変な言い方だけど、そうとしか言えない。


「分かった。今、下ろすから」叔父さんは簡単に言うけど、すぐに下ろせるの? 謎の集団が吊り上げたのに。そんな疑問を余所に叔父さんと彼女がフロアの奥まで走って行き、しばらくすると四方を覆っていた暗幕が上がり、ガラス越し入ってくる朝日が目に眩しい。

 僕たちを吊していた捕虫網は徐々に下がり、床に着地した。

 網が緩むと上部が開き、なんとか自力で出ることが出来立ち上がると、奥から叔父さんと彼女が戻って来た。


 叔父さんが、ユリさんと僕の顔を見て、頷きながら口を開く。

「2人とも、意外に頑張ったな」


 どういうこと?




【叔父さんの目論見】


 叔父さんの言う『意外に頑張った』の意味が分からない。

 いや、チョット待てよ? 叔父さんと彼女は、そもそも何処から出て来たんだ? 一晩中、探し回ったのに。


「意味が良く分からないのですが…」叔父さんが、うんうんと頷きながら口を開く。

一芝居ひとしばい打ったつもりが、最後に神様のちょっかいが入った感じかな」叔父さんの言っている意味が、ますます分からない。

「叔父さん、エムくんとユリちゃんは何も知らないのだから、最初から話さないと分からないでしょう?」

「そうか… じゃあ、簡潔に説明してくれよ。トリックの分かりやすい解説も小説家に必要な能力だからな」トリック? 叔父さんは今、トリックと言ったよね。僕たちを騙したの?


「では、私から説明します。その前に今まで隠れていてゴメンナサイ。真夜中に一生懸命探してくれて恐縮しています。私は乗る気ではなかったのだけど… 本当にゴメンナサイ」ということは深夜からの大騒動は、叔父さんと彼女の悪巧わるだくみ?

「事の始まりは、あのビルの暑さよ。あんな所にいたら小説を書き終える前に脳ミソが沸騰してしまうわ。それでね… 」彼女は深夜の出来事を申し訳なさそうに説明してくれた。

 先月、彼女が叔父さんに合宿所の暑さ対策をお願いし、今月の避暑地行きが決まり、叔父さんがつてを使い、この元ホテルをタダで借りられた迄は良かったけど、その話が叔父さんの友人、オカルト同好会の耳に入り話が変な方向に。同好会の面々は夏のイベントを(勝手に)考え、ユリさんと僕を吊り上げる準備やホテル内にビックリイベントを企画して、怪しい仮面まで用意してスタンバイしたらしい。バーベキューセットや業務用冷蔵庫の中身も揃えてくれたことだけは感謝すべきかも知れない。深夜にいなくなった彼女と叔父さんは、ホテルのそばにある管理棟からホテルの監視カメラを使い、中の様子をトランシーバーで同好会メンバーに伝えていたそうだ。

 ユリさんと僕の捜索を想定して仕掛けたビックリイベントは不調に終わったらしい。仕掛けたところまで僕たちが辿り着かなかったそうだ。何処に仕掛けたのだろう? 最後に玄関の吹き抜けフロアで僕たちが眠ってしまったのは、同好会の思惑通り。でもあの流れでは、フロアのソファで眠ってしまう以外の選択肢はなかったように思う。

 彼らの計画では、僕たちがもっと早く音を上げて玄関のソファまで来ることを想定していたから、ようやく明け方に玄関まで来て眠ったときには「いよいよ」と期待して、ユリさんと僕を吊り上げてからが、クライマックスだったらしい。


 眠たそうな叔父さんが口を挟む。

「そこであの稲妻とお狐さまだからな。6月に赤坂であったことは彼女から聞いたけど、エムくんはまだお狐さまを背負っているのかい?」どういうこと? 叔父さんの言っている意味がやっぱり分からない。


「ユリちゃんとエムくんを網で捕まえてお芝居を打とうとしたとき、凄い雷が近くに落ちたの。それにも驚いたけど、モニターを見ていたらフロアにいた同好会の人たちが慌ててここから逃げ出したのよ。トランシーバーから『お狐さまの祟りが…』と、大声が聞こえてきたわ」

「ここにお狐さまが出て来たの?」

「エムくんたちは上に吊されていたから見えなかったのかも知れないけど、同好会の人たちの前に、怖いお狐さまが現れたそうよ。モニターには狐火しか映らなかったけど」狐火が映っただけでも十分だと思う。


 話を聞いていたユリさんが首をかしげる。

「『お狐さまは神様の使いなので祟らない』と、レイさんから聞きましたけど」ウンウン、赤坂でお狐さまに憑依された本人が一番それを覚えている。ユリさんの先輩、神道学部のレイさんに確認したからね。


「あいつら(同好会メンバー)、オカルト好きだけど、神様のことは勉強していないからなぁ」

「叔父さんだって、私から赤坂であったことを聞くまで、知らなかったじゃない」 彼女の指摘に、叔父さんは苦笑い。


 結論は分からずじまいだけど、オカルト同好会の人たちがユリさんと僕を大きな捕虫網で捉えたのをお狐さまが知り、みんなを追っ払ったらしい。未だお狐さまを背負っているのかが、気になって来た。今度、レイさんに会って確かめてみよう。


 そのあと彼女はユリさんと僕に改めて深々と頭を下げながら隠れていたことを謝り、叔父さんからは「まあ、暑い夏の余興だよ」と誤魔化された。

 お日様はとっくに顔を出し、8月の眩しい光が窓越しに差し込んで来る。

 彼女から「一晩中起きていたから眠たいけど、お腹が空いた」の一言で、とりあえず朝食を取ることになり、キッチンの食材を持って裏庭へ。


 昨晩と同じようにガスバーベキューグリルの鉄板で、卵・ソーセージ、パンを焼き、冷蔵庫から飲み物や野菜を持ってきて、朝食をみんなで食べることにした。食べ慣れている食事でも、朝早く外で食べると美味しい。

 雑草が生え放題の広大な裏庭も、軽井沢の朝露で清々しい。

 叔父さんは朝から缶ビールを開けていたけど、いつもは口を出す彼女も眠気が優っているのか欠伸あくびをしながら焦げたトーストをかじっていた。

 彼女が叔父さんに「これからどうするの?」と聞くと「まず睡眠、あとは執筆」とだけ言い、缶ビール片手に自分の部屋へ戻って行った。あの調子だと起きたら夕方。叔父さん的にはイベントが終わったからやることがないのかも知れない。

 僕たち3人もとりあえず、午前中は仮眠を取ることにした。




【紀行文は…】


 途中から寝てしまいそうな、広い裏庭での朝食を済ませ部屋に戻ると、真夜中にユリさんが飛び込んで来た時のまま。

 テーブルの上には、昨晩から開きっぱなしのままのMacBookに『カクヨム』の原稿が表示されている。書き掛けの原稿を保存したところで力尽き、倒れるようにベッドに横になってしまった。


 目を覚ますと窓の外が薄暗い。「まさか?」と思いスマートフォンを見ると午後6時。仮眠を取るつもりが、まる一日寝てしまった。

 そういえば、昨夜スマートフォンが圏外だったのは叔父さんの仕業だったらしい。このホテルに設置されている基地局の電源を切っていたと。


 慌てても時間は戻らないので部屋でシャワーを浴び、着替えてから裏庭に出てみた。部屋の窓から、裏庭に彼女とユリさんがいるのが見えたんだ。


「エムくん、おはよー。ずいぶんユックリさんね」もうすぐ午後7時。

「おはよー」は、彼女なりの皮肉なのかも知れない。

「エムさん、昨日はいろいろ、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」ユリさんが笑みを浮かべながら頭を下げる。『いろいろ』って何かしたっけ? 暗闇の中で、ずっと僕に掴まっていたこと?それはこちらがお礼をせねば。ユリさんの豊かな胸が、腕に触れっぱなしだったし(お礼は言えないけど)。『これからもよろしく』って? アッ! 年上が好みとか、候補とか? 本気? どういう意味か聞いてみたいけど、間違ってもここでは聞けない。


 僕があやふやな表情のまま突っ立ていると、彼女とユリさんは今日もグリルの横でバーベキューの準備を始めている。2日連続だけど、調理器具がこれしかないので選択の余地はない。叔父さんがワインボトルを片手に、キッチンの扉から現れた。今日も飲む気だ。


「みんな、お疲れ。執筆は進んだかい?」 ウッ! 今まで寝ていたとは言いにくい。どうしよう。


「ええ、午前中少し仮眠を取ったからスタートが遅れたけど、ユリちゃんと一緒にタクシーとレンタサイクルで由緒あるところを周りながら紀行文になりそうな素材を、あらかた集めました。あとは組み上げるだけ」彼女らしい堅実な行動。

「私は一緒に周りながら、恋愛紀行文のあらすじを考えました。ボイスメモに残した記録を書き起こして当てはめていけば、紀行文の形になると思います」ユリさんが僕を主人公にした、恋愛紀行文の中身が気になる。


「2人とも短い時間で良くやっているけど、なんで紀行文? 紀行文を書けと言った覚えはないけどなぁ」叔父さんが首をかしげる。

「叔父さんは私たちに紀行文を書かせるために、軽井沢へ連れて来たのでしょう?」彼女が『何を今更』と言わんばかりに確認する。彼女とユリさんの話では、そうなっていたはず。


「初耳だな。今どき紀行文とか流行らんだろう」叔父さんが不思議な顔をする。

 彼女とユリさんはスマートフォンで「ティーンエイジ『夏の紀行文』募集」サイトを、叔父さんに見せてみる。

「へぇー、そんなのやってるの。それに応募しようと思っているわけ?(彼女「一応…」)ふーん… そんな子供用のコンテストじゃなくて、もっと大きいのを目指そうよ。俺の小説家養成所の研修生なんだからな」そう言ってニンマリする叔父さんの顔を見て、彼女とユリさんは顔を見合わせたあと、音がしそうなくらい『ガクッ』と脱力する。叔父さんは、紀行文コンテストのことは知らずに、オカルト同好会の活動を軽井沢でやりたかっただけのようだ。


「エムくんは、何を書いたのかな?」叔父さんと彼女たちとのやり取りを人ごとのように聞いていたら、突然僕の方を向いて来た。一日中寝てたとは言えないな… 咄嗟に言い訳を考えた。

「叔父さんも読んだことのあるSF小説の続きで、主人公たちが一時いっときの夏休みを軽井沢で過ごすリゾート編を書いているところです」これは本当。今回、軽井沢に来たこととは関係ないけどね。

「へぇー、面白いのを書くね。軽井沢に未来人とか出て来るわけ?」

「いや、その設定は唐突なので、彼女たちの超能力が普通の人にバレそうになる話です」

「フーン、長編小説の中の『閑話休題』、サイドストーリーと言ったところか。それも悪くはないけど、読者が面白みを感じる場面を所々に挟まないとな『主人公は軽井沢を楽しみました』だけだと読者に飽きられるぞ」

 こんな時の叔父さんのアドバイスは的確。これで飲み過ぎなければ良いのだけど。


 そのあとは昨晩と同じバーベキュー、と言いたいところだけど雰囲気は微妙。

 彼女のトングが僕の皿へ次々と焼けた肉を載せていく。それ以上載せると皿から溢れそう。

「たくさん食べて栄養を付けないと。昨日は私を探すのに大変だったでしょう。ユリちゃんのお世話もしていたからね。エムくんは草食男子だと思っていたけど、肉食だったのかな?」彼女がニコリとしながら僕の皿にレアな焼き加減のお肉を載せていく。表情を盗み見ると目は笑っていない。


 どういうこと? 昨晩、ユリさんと密着はしていたけど… アッ! 彼女は叔父さんと監視カメラで、僕とユリさんの行動を見ていたんだ… 叔父さんの方に目をやるとワインをラッパ飲みしながら、僕とユリさんを交互に見て、ニマニマしている。 

 肝心のユリさんは鉄板の焼きナスをひっくり返しながら、恥ずかしそうな素ぶり。顔が赤いのは昼間の外出で日焼けしたのか、照れているのか分からない。 

彼女と軽井沢を周りながら、どんな話をしたのか気になるけど、聞くのは止めておこう。とりあえず様子見が無難。


 ワインの酔いがまわってきた叔父さんは「そもそも紀行文とはだな…」と、久しぶりに講義が始まる。僕たち研修生への講義は、叔父さんが酔わないと始まらない。 彼女とユリさんは、酔っ払っている叔父さんの講義メモを真面目に取り、僕は彼女が皿に積み上げたステーキ肉と格闘した(残したら、彼女から何と言われるか分からない)。 講義が終わりかけたところで叔父さんはワインボトル片手に寝てしまい、昨日と同じように叔父さんを部屋まで運ぶことにした。

 バーベキューの後片付けをしながら、彼女とユリさんは何か話をしていたけど、僕は少し離れて椅子やテーブルを片付けていた。何か悪いことをしたわけではないけれど、何となく2人とは話しづらい。


 翌朝、彼女のコールで目が覚めた。「帰るよー。叔父さん、用事が出来たんだって(ツーッ、ツーッ)」

 通話が切れたスマートフォンを見ると朝7時。あと数泊するのかと思っていたけど、急用なら仕方がない。急いで身支度を調え、用意して着なかった服をキャスターバッグに詰め、部屋を出ると叔父さんはクルマのエンジンを掛け、彼女とユリさんはホテルの玄関を出るところ。

 玄関を出てボルボのテールゲートへ回ると、カーゴエリアにあるのは彼女とユリさんのバッグだけ。「来るときにカーゴをいっぱいにしていたのは、オカルト同好会の人たちが積み込んだ荷物だったそうよ。使用済みでもう要らないんだって。エムくんがバッグを積み込んだら出発よ」後部座席のドアに手を掛けながら彼女が説明する。なるほど、そういうことですか。僕とユリさんを脅かすための道具は使用済み、とは言え現地に置きっぱなしで良いのかな?


「エムくん、これで戸締まりをしてくれる?」叔父さんが運転席の窓から伸ばした手の先には、玄関の大きな鍵。

 急いで荷物をカーゴエリアに放り込みゲートを閉め、鍵を受け取り玄関に戻って鍵を掛ける。クルマの助手席に座るとシートベルトを締める間もなく、叔父さんがボルボを発車させた。シートベルトを締めながら叔父さんに聞いてみる。

「急用が出来たのですか?」

「急用というわけじゃないんだけどな。これからのことを考えると、早く帰るに越したことはないと思ってさ。そうだろう?」叔父さんがバックミラー越しに、彼女の顔を見る。何かあったの? うしろをチラっと振り向くと、彼女が浮かない顔をしている。コッソリ見たつもりが、彼女と目が合ってしまった。

「どうせ、私は関係ないし…」そう言って、彼女はプィッと横を向き、車窓に流れる軽井沢の街並みを眺めていた。


「じゃあ、これを配りますね」その場の雰囲気を取り繕うかのように、ユリさんが大きな袋から包みを取り出し、助手席に2つ渡してきた。


今朝けさ早く、叔父さんから出発を知らされて、ユリちゃんと2人でサンドイッチを作ったの。叔父さんはハンドルから手が離せないから、エムくんが食べさせてあげてね」いつもの美少女スマイルではないが、さっきほど不機嫌ではなさそう。それから東京までの道すがら、叔父さんから「男から食べさせてもらうと味が落ちるなぁ」と言われながら、叔父さんにサンドイッチや飲み物を給仕し、うしろの座席では彼女とユリさんが小声で話をしていた。

 何事もなく東京の合宿所に到着すると、僕たちを下ろした叔父さんはそのまま何処かへ出掛けてしまった。


 2泊3日の夏合宿は涼を堪能する間もなく終わり、叔父さんの急用? 彼女の不機嫌? ユリさんの告白? とモヤモヤ感いっぱいのまま、東京の暑い残暑を過ごすことになった。

 それでも叔父さんに言った手前、軽井沢合宿の成果は残しておかねばと思い「小説家になろう」に投稿中のSF小説に『お盆休みのリゾート編』をエピソードとして投稿した。3話の投稿で、計11千字。叔父さんが読んだら、何て言うのだろう。


(8月 夏の合宿所:了)

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