第三十二節
パレルモからずっと南、山間部と丘陵の境に位置する土地に、小さな砦と代官が置かれていた。
この代官はフェデリコの母方の祖父、ルッジェロ一世時代からの家臣で、アラビア語を解し現地の事情にも明るいとあって、先の借財の取り立てに端を発した暴動でもその使者を任されていた。
彼は出頭した首領イヴン・アッバードの身柄も預かっていたが、事情を知る彼はアッバードを丁重に扱い、現地住民の面会や差入れも見て見ぬふりをしていた。
「あと数ヵ月のことだ。我慢なされ」
「ご高配、感謝する」
虜囚となったアッバードに話しかけると、男はゆっくりと頷く。
代官が言う数ヵ月とはフェデリコの戴冠式のことだった。建前上は首領だったこの男は裁判を待つ身なのだが、戴冠式後に恩赦が出されることが内々に決定していた。それがあるからこそ、近隣ムスリムたちもじっと堪えているのだ。
「陛下のご恩情を忘れるでないぞ」
代官は常々そう告げて牢屋を立ち去って行く。
この老代官は自分が有能だとは考えていなかった。ただ多少顔が利き、土地の事情に通じているだけで、いずれは年老いてこの地に骨を
ある金曜日の晩、彼は自室で食事を済ませ、星空を眺めながら唯一の楽しみである砂糖入りの煮詰めたワインを飲んでいた。
部屋がノックされ、門番の兵士が顔を出す。
「お休みのところ申し訳ありません。アッバードに差入れをしたいと子供が参っておりまして」
「随分遅いな」
「道が解らなかったと。今日初めて遣いに出されたそうです」
「そうか。まあいい、通してやれ」
彼は兵士に頷いたが、兵士の去り際、思い出したようにその背を呼び止めた。
「荷物だけは改めるようにな」
兵士が返事をしてそのまま去っていく。
代官はそれから、再び唯一の楽しみに戻っていった。それからどれほどしただろうか。それを飲み終えた彼は、椅子に腰かけたまま、冷ややかな夜風を感じながらも心地よい気分で船を漕いでいた。
その穏やかな静寂が、突如として破られる。
弾き飛ばすように扉が開かれ、兵士が一人足をもつれさせた。
「た、大変です代官殿!」
「何ごとかっ!」
突然の乱入者があげた悲痛な訴えに、彼は反射的に叱りつけていた。が兵士は真青な顔をして、彼の怒りを忘れさせるほどの恐れを口にする。
「イヴン・アッバードが殺されております!」
「まさか……虚言を申すな!」
椅子を蹴って立ち上がる代官。
慌てて駆け出した代官が牢屋で目にしたのは、牢屋の一角を取り巻く兵士たちと、喉を一突きにされて息絶えたイヴン・アッバードの死体だった。
「誰がやったか!」
代官が怒声を発しても答える者はなく、兵士たちはお互いに様子を伺うばかりだった。彼らは顔を強張らせ、剣の柄を握りしめ、あるいは青い顔をして、その外套に自らの手元を隠す。
代官は苛立ちもあらわに続けて命令を発する。
「犯人探しは後だ。まずはパレルモに早馬を出せ、アリー殿が死んだと早急に伝えよ! 急げ!」
その命令にはっと我に返った兵士たちが、慌ただしく動き始める。だが牢屋から離れて行く人の波をかき分け、一人だけこちらへ向かってくる兵士がいた。
「代官殿、外に! 外をご覧ください!」
「次はなんだ!」
「松明が……
もはや、代官自身さえも自らの身体がぐらつくのを覚えた。
辛うじて踏ん張り、壁に手を突く。
「馬鹿な、早過ぎる!」
「しかし現に奴らが……!」
何故だ。どこから伝わったのか。
その理由に考えを巡らせて、彼ははっとした。
「見舞客はどこか? あの少年だ!」
代官の問いに、兵士たちが互いに顔を見合わせる。
それこそが答えだった。少年の姿を誰も見ていない。
狼狽える兵士を押しのけ、代官は大股で駆け出した。階段を駆け上がって砦から外を見回すと、砦の前には既に数十名のムスリムらが痩せ馬に乗って集まってきており、山の方角には彼らに十倍する松明が揺らめいている。
「いかん……正門を閉じろ!」
彼は階下に叫んだ。早馬を仕立てた兵士が困惑するのを叱りつけ、彼は正門を閉じて閂を架けさせる。
閂が重々しい音を立てると同時に、門前に馬がいなないた。
「代官殿! 代官殿はおられるか!」
呼び掛けは、張りのあるアラビア語で行われた。代官は息を呑んだが、やがて意を決すると松明の傍らで声を張り上げる。
「この騒乱は何ごとだ! 衆を頼んで何とするか!」
「我が父の顔をお見せいただきたい! 壮健なるを認めたら、我らは直ちに引き上げる!」
青年はアリー・アッバードといった。
牢屋で殺害されたイヴンの長男だ。代官は彼とも面識があった。アッバード家は近隣のムスリム農民を取りまとめる名望家であるが、彼は父の右腕として既に名を知られていた。
「お父上は既にお休みだ。このような騒乱は困る! 明日になされよ!」
代官は焦った。このような誤魔化しでどうにかなるとは思えないが、他に手も思いつかなかった。
アリーが仲間と騎乗のまま何かささやき合っているのを見て、代官もまた傍らの兵士を呼び寄せた。
「早馬は裏口に回せ。そちらから秘かに走らせろ」
兵士を走らせた時、眼下の一人、アリーの従弟であるフサインがちらりとこちらを見た。アリーが引き続き声を張り上げる。
「お父上を殺したか!」
その問いに息を呑んだ。
「ち、違う!」
「……殺したのだな!」
代官の動揺を看破して彼は叫んだ。もはや言い訳は利かなかった。集まったムスリムたちに殺気が漲っていくのが、夜の闇の中にさえ見て取れる。背後に視線を転じると裏口の小さな門が開かれ、そこから馬が出ていく。
とにかく今は時間を稼ぎ、パレルモの救援を待つより他ない。彼がそう覚悟を決めた時だった。
闇の中、早馬が消えていった方角から悲鳴があがった。
裏口のすぐ外、早馬を見送った兵士があっと声を上げる。明かりひとつない暗闇の中から飛び出してきた暴徒が、裏口に走ってくる。
「貴様らどこから……!」
兵士が剣を振り上げて反撃するが、一人斬ったところで数人に群がられて引きずり倒された。兵士はそこで武器を振るうべきではなかった。真先に裏口へ戻って固く扉を閉じるべきだったのだ。
代官は力の限り叫んだ。
「奴らを入れるな!」
慌てて兵士たちが駆け寄っていくが、裏口に回り込んでいたムスリムたちは短剣や鉈を振りかざして一丸となって突進してきた。
兵士が突き出す槍が数人を刺殺したが、死体は裏口の間に倒れ込み、却って門を裏閉じることもできなくなってしまう。
「イヴン殿の仇を取れ!」
門前のアリーが叫んだ。
馬に跨っていた彼らが短い弓を取り出し、一斉に放った。
代官の隣にいた兵士が喉を射貫かれて転がり落ちる。代官は辛うじて矢を打ち払ったが、もはやその場には留まってはいられなかった。転がるようにして門を降り、剣を抜いて裏口へと向かっていく。
「閉じろ! 裏口を閉じろお!」
代官が叫ぶ声は虚しかった。
乱戦が広がりつつある中駆け付けた彼は、そのまま押し包まれ、滅多刺しにされて死んだ。
虜囚であったイヴン・アッバードは、物言わぬ躯として彼らの前に姿を現した。
兵士たちを皆殺しにし、砦は今や彼らの占領下にある。
戦の最中、彼らは激情の命ずるままに憎悪と憤怒をぶちまけた。今それらは燃え上がる炎でなく、赤熱する炭となって彼らの胸中を熱で満たしている。
「なぜだ……なぜ殺した」
彼らを率いてここに押しかけて来た長男、アリー・アッバード。彼は立ちすくんだまま、剣を地に突き立てて嘆いた。
「代官は確かに言った筈だ! いずれ戴冠式を終えた後には恩赦が下ると!」
だからこそ彼らは、先の暴動を終息させたのだ。彼らの首魁たる男は、一年を牢で耐えれば帰ってくる。ここが落としどころ、寛恕のところであると、彼らは自ら己を説得したのだ。
彼らはシチリア王国の内々の提案を受け入れた。
代官も友好的な態度を崩さず、面会や差入れは快く認めてくれてきた。面会に行った少年がイヴンの死体を見たと言って砦から逃げて来た時も、にわかには信じられなかった。
だが少年が、イヴンの血が染み込んだという自らの袖を見せると、彼らはただならぬ事態を予感した。
「こんな馬鹿な話があるか。なぜだ、なぜ今になって殺した!」
何かの間違い、例えば単なる怪我などであれば矛を収めること。彼らはそう打ち合わせて砦へ向かった。
彼らを出迎えた代官の態度で、彼らは悟った。イヴンは殺されたのだと思い知った。
それでも理由も、原因も解らない。砦で項垂れる彼らの中から、どこからともなく呟く声が聞こえてきた。
国王が帰って来たばかりだ――その声の主は、誰か解らない。
「そうだ。フェデリコが帰ってきた……」
「ずっとシチリアを離れていた男だ」
彼らの間に、じっとりとした疑いがまとわりつく。
王の命令じゃないのか――また誰かが呟いた。
その小さな声は、水面に墨を垂らしたかのように一瞬で広がり、彼らの意識に浸透する。彼らの中には幼い頃のフェデリコを知っている者もいた。
だが人は変わる。かつてパレルモの路地を駆け回っていた少年は、皇帝になるためパレルモの街を旅立っていった。ドイツ、ローマ、そして至尊の帝衣。アプーリアの少年は遠い世界を巡り、キリスト教世界の空気をたっぷりと吸い、キリストの剣たるローマ皇帝に登りおおせようとしている。
これまで自分たちを守ってくれたのは、歴代のシチリア王であり、ローマ皇帝ではなかった。
ではフェデリコは、今でも我らのシチリア王なのか?
「謀られたか」
アリーの隣、従弟のフサインが天を仰いだ。
すべてに合点が行ってしまう。常から親しくしていた代官が突然イヴンを殺したのか。そうは思えない。皇帝となるべくドイツで戦っていたフェデリコが、このシチリアへ帰って来た途端に殺されたのだ。
「裏切り者か」
「敵だ。奴が敵だ」
人々が口々にフェデリコを罵り始める。
アリーが一度は突き立てた剣を抜き放ち、高々と掲げて振り返った。
「アプーリアの少年は、ローマに染まってきたのだ! 帝冠に魅入られ、シチリア王としての己を忘れたのだ! 奴は我々の友ではない、ローマ皇帝たる薄汚い裏切者として帰って来たのだ!」
アリーの檄に気勢があがる。
人々は次々と武器を掲げて声を張り上げた。
もはや意は決した。彼らは武器庫を開いてありったけの装備を取り出すと、馬を牽き出し、ムスリムたちが住まう周辺集落へと走らせた。
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