一二一六年 皇帝 -Tiamat-

第三十一節

 窓から陽が差し込む。

 戸板が外れている、閉めなくちゃ。そう思って手を伸ばしたエメスは、自らの指に触れる柔らかなものに、反射的に腕をひっこめる。

 ぼんやりと覚醒する視界と共に、自らの触れたものが、ハフサの柔肌であったことを意識する。

 その向こうの窓からはさんさんと陽が差し込んでいるが、それがガラス窓であることと共に、ここがハフサの商館であることも思い出す。

 目の前のハフサは微かな寝息を立てている。

 エメスはベッドに横たわったまま、一度は引っ込めた指でハフサの前髪を梳いた。少しクセのある、深緑のように艶やかな髪が指からこぼれる。長いまつげに、つんとした鼻。洗練された輪郭を浮かべる顔と身体、その胸には、あの夜にうけた傷が今なお深く横たわっている。

 そちらをなぞろうと伸ばした指が、ハフサの指に絡めとられた。


「安心して、生きてるよ」


 ハフサはそう告げておいてから、ぱちりと瞼を持ち上げた。


「おいで」


 招かれるがまま、その胸元に耳を寄せる。

 傷痕を通して、とくん、とくんと静かな鼓動が響く。

 ハフサの脈打つ心に耳を傾けながら、柔らかなシーツにくるまれ、二人で陽に照らされる。ただこうしているだけで、いつしか時を忘れてしまう。

 夜にハフサを受けとめて、朝にその生命いのちを聞く。

 けれどわからない。

 これを愛と呼ぶのか、恋と呼ぶのか。

 抱きしめると落ち着く。抱きしめられると満たされる。その曖昧であることに意識が溶けていく。それが全て。そこに感じられるものが確かなら、その衝動に名は必要なのだろうか――


「そろそろ起きましょ」


 自らの胸で再びまどろもうとするエメスの頭を抱いて、その肩や背を揺さぶりこする。エメスが身をよじって顔をあげると、その額に口付けてするりと腕をほどいた。ハフサはベッドの縁に上体を起こすとぐっと背を伸ばし、背景のエメスへ視線を投げ掛ける。


「もっと遊びにくればいいのに」

「だめですよ。私夜は務めがあるんです」

「まぁたフェデリコ様?」


 ハフサの問いに、エメスはこくりと頷く。


「不寝番がありますから」

「寝ずの番って……そんな毎日のようになんて、身体を壊すわよ!」


 唖然として、肌着もまとわぬままハフサが詰め寄る。ハフサの指摘はもっともだったけれど、エメスは少し迷ってから首を振った。


「それが、平気なんです」


 ごろりと仰向けになって、天井を見つめる。


「私、眠らなくても、なんともないんです」

「そんなの変よ、だって今日も眠ってたのに」

「眠れないわけじゃないんです。ただ、眠らなくても平気なだけで」


 天井を見つめたまま、あの日の夜を思い出す。そう言及しようとして、ハフサを想って、言葉を少し濁す。


「初めて眠った夜を今でも覚えてます。眠るフェデリコ様を見て、私はなんだと思って眠りました」


 けれどある晩のことだった。行軍の関係で彼女たちは一晩歩き通しで翌日を迎えた。兵士も騎士らもみな眠気を振り払うのに必死になっていた。

 それなのに。


「自分だけが眠くならなかったんです」


 そうして気付いたのだ。何日眠らずとも、睡眠を必要としないことに。

 眠ることはできる。こともある。誰かの腕の中でまどろむことも心地が良かった。けれど、ことは無い。


「不思議ね。それでどうもしないの?」

「でも、私は最初からこうでしたから、気になりませんよ。おかげでフェデリコ様のお休みも確かに守れますから」

「そんなものかな……」


 エメスの胸の紋様に、ハフサの指がついと這う。

 それがくすぐったくってエメスは声をあげるのを、ハフサもおかしそうに弄りたおした。


「さてと、もう起きましょう。働かなきゃ!」


 ハフサの声で、二人はベッドを出る。そうして二人は剣を腰に王の護衛に、化粧を整えて商館の女主人へと戻る。商館の裏口をそっと出る時、ハフサがそっと頬に口付け囁きかける。


「またね、今度もまた夜に」

「ええ、きっと」


 エメスは小さく答えて、朝のパレルモを駆けだした。




 王宮へ戻るときも、エメスは裏門を通った。

 密会を重ねているからか、何となく正門を堂々と行き来するのははばかられるような気がしていた。

 フェデリコの姿を探して王宮を歩き回っていると、中庭に出た。そこには椅子に腰かけて、女性が三人、手を取りあって何かを話してくすくすと笑っている。エメスが声を掛けると、三人が振り向く。

 そこにいたのはカナと、フェデリコが伴ってきた恋人だった。

 一人は少しばかり日に焼けたアナイスで、もう一人は北国の雪を思わせる白い肌と金髪をした、エルメジンデという名の女性だった。


「フェデリコ様を見てませんか」


 エメスは少し迷って、イタリア語で問い掛けた。

 というのも、三人のうちエルメはドイツ語しか解しないが、一方でアナイスとカナはドイツ語が苦手だったからだ。苦手な二人と解する一人、あるいは解する二人と全く話せない一人、どちらを選ぶかは難しいところだった。

 エメスの問いに答えようとしたカナが、何かを思いついたようにエルメの耳に囁きかける。それを受けて、エルメは少顔をし赤くさせながら、緊張の面持ちで口を開いた。


「フェデリコ エ ネッラ ビブリオテーカ!」


 エメスは少しきょとんとしたが、ややしてからぱっと表情を明るくする。


「図書館ですね。ありがとうございます」

「ほら! エルメ上手じゃない!」


 隣のアナイスがきゃあと声を挙げ、エルメに抱き付く。


「イタリア語の練習をしてたんですか?」


 エメスが尋ねると、アナイスは抱き抱えたエルメの頬を摘まんで頷いた。


「私もドイツ語は苦手だし、こっちで暮らすならイタリア語がいるでしょ?」


 隣で二人の顔を交互に見やるエルメに、エメスはアナイスが言ったことをドイツ語で伝えると、彼女は小さく控えめにこくこく頷いてアナイスの手をきゅっと握っていた。



 エメスは三人に礼を告げると、足早に図書室へ向かった。

 薄暗い図書室の一角、窓から明かりが差し込む机に彼女はいた。


「フェデリコ様、おはようございます」

「ん、おはよ」


 彼女は軽く手を挙げて、そのページを読み終えてから顔をあげた。


「ちょうどいい、休憩にしよう」

「私のことは気にしないでください。挨拶をと思っただけですから、警護は部屋の外でやります」

「いや、いいんだ。そろそろハーブティーが良いころ合いだから」


 フェデリコは席を立つと、少し離れた小机に置かれていたポッドの蓋を開けて中を覗き込んだ。そうしてカップにそれぞれハーブティーを注ぐと、外へ出ようと告げた。

 図書室からベランダへ出ると、冬の澄んだ空気を暖める豊かな日差しが全身を照らす。階下には庭が広がり、少し遠くへ視線を向ければ冬の地中海も一望できた。

 二人は並んで石段に腰かけた。フェデリコが白い息をカップに吹きかける隣、エメスは取り留めなく話し始める。


「さっき、コンスタンサ様たちと会ったんです。イタリア語の練習をしてましたよ」

「イタリア語の……あぁ、エルメか」


 フェデリコはその名を口にして、くっくと喉を鳴らした。


「カナがいるなら大丈夫か。アナイスだけなら卑猥な言葉を教えかねん」

「まさか、そんなことありませんよ」

「いや、あいつはそういうのばっかりだぞ」


 思わず苦笑するエメス。

 フェデリコたちがエルメと出会ったのは、ブーヴィーヌの戦いの少し前のことだった。

 彼女は諸侯との会談のために逗留した館の下働きをしていた十六歳の控えめな少女で、一目惚れだった。ただし、アナイスの。要するにエルメに執心で関係を持っているのはアナイスで、フェデリコはエルメに手を付けていないのだ。

 実のところ、アナイスは最初、フェデリコに手を付けさせようとした。

 エルメをフェデリコの愛人にするためだった。そうすれば、エルメと一緒にいられると思ったのだ。囲われている愛人同士なら、一緒にいたからとそれをとやかく言う者はいないのだから。


『私は趣味じゃない。線が細すぎる』


 下働きとは思えない細い身体に、かなりの引っ込み思案。

 やたらとエルメを勧めたアナイスに、フェデリコはけんもほろろに言ってのけた。が結局はそれで理由が明らかとなり、エルメは対外的にはフェデリコの愛人ということになって、今はここにいる。


「ま、私は誰が誰を好こうが構いはしないさ」

「妬かれないんですか」

「今のところはな。今後は知らない」


 おどけてみせるフェデリコ。けれどもエメスは、多分それはこれからも変わらないのだろうと感じ、口元に手をあてながら小さく笑みを漏らした。

 フェデリコはその笑みを聞きながら、けれどどこか柔らかな表情を浮かべ、膝に頬杖をつく。


「まあいいさ。そうでもないと一緒にいられないものな。その為に利用できるなら、何でも思う存分使えばいい。国王でも皇帝でも、何でもだ」


 その始まりを、フェデリコは問わない。

 自分たちの生そのものが、瞬間の連続の上に成り立っていると感じている。


「全て刹那のものだ、感情も、想いも、衝動も。その瞬間の積み重ねで世界が変わるんだとすれば、皆が待っていたら何も変わらない。己を阻むものは、破壊すればいい。そうだろ?」

「私は……解りません。ただ皆が笑顔で、苦しまなければそれでいいです」

「淳朴だよ、おまえ。でもそれも強さなのかもな。曖昧なものを曖昧なままにしておけるのも。私はごめんだがな。白黒つけんと気がすまん!」


 フェデリコの評に微笑むエメス。フェデリコはカップに口を付けながら、庭先を眺め、海からの照り返しに眼を細める。


「時々、夜に出かけてるみたいだな」


 唐突に投げ掛けられた問いに、目をまばたかせるエメス。

 思わず赤い顔をしてフェデリコの方を見やった。けれどフェデリコは変わらず海を眺めていて、エメスの様子には気付いていないようだった。


「誰かいるのか?」


 フェデリコが冗談交じりに振り返ると、エメスは、褐色の肌を赤茶けさせてじっと俯いていた。

 その表情とエメスの反応に、きょとんとしたフェデリコの表情がみるみる明るくなっていく。彼女はエメスが顔を真赤にさせていたのにはなんら言及せず、海景色へ視線を戻して事もなげに問う。


「想ってるのか」

「……愛しているのかは、わからないんです」

「いいじゃないか。曖昧なものだ、本来は」

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