34

 コウは、夢を見ていた。

 それは、あの日の夢だった。

 何度となく見た夢。

 だが、今回は、コウが知り得ないことも含まれていた。


※―※―※


 九年前。

 当時八歳だった青塚は、学校で苛められていた。

「眼鏡野郎!」

「眼鏡、キモいんだよ!」

「痛いっ! もうやめてよっ!」

「うっせー! 眼鏡は黙って殴られてろ!」

 学校に行くと、眼鏡を掛けている青塚は、毎日同級生の男子たちから罵声を浴びせられ、殴られていた。

 何か取り立てて得意なものがある訳ではない青塚は、勉強くらいは頑張ろうと決めて一生懸命勉強した結果、目を悪くしてしまった。そして、小学校二年生に上がる時には、もう眼鏡を掛けていた。それとほぼ同時期に、青塚は周囲の男子たちに目をつけられてしまった。テストの成績が良く、先生から褒められているのが気に入らない、というのが理由だった。が、そもそも毎日面白いことはないかと探していた彼らにとって、気弱で真面目な青塚は暇潰しのための恰好の餌食だった。

 放課後、青塚はいつも泣きながら帰っていた。

 両親は、青塚がまだ小学校に入る前に事故で死んでいた。

 それからは、唯一の兄弟である七歳年上の眼鏡を掛けた姉――青塚あおつか佳世かよが親代わりだった。

 幼いながらも男として涙は見せたくないのか、それとも姉に心配を掛けたくないのか、青塚は直ぐには家に帰らなかった。その代わり、途中にある公園に寄って、そこで一頻り泣いてから家に帰る、というのが常だった。

 ただし、前者の理由にしろ後者にしろ、暫くすると佳世が公園に迎えに来てくれて、暫く公園で側にいてくれた後に一緒になって家に帰る、ということを繰り返していた。そのため、どちらにしろ佳世に何度も涙を見せることになり、度々心配を掛けていた。

「やっぱりここだった」

 セーラー服姿の佳世はいつもそう言って、セミロングの茶髪を揺らしながら迎えに来てくれた。

 そして、何も言わずに、ただ側にいてくれた。それが有り難かった。

 暫くすると、青塚は、

「お姉ちゃん! 僕……僕……!」

 と、学校での出来事を話した。

 佳世は、うんうん、と話を聞いてくれた。

 そして、最後まで聞いた後に、

「光龍、辛かったのね……苦しかったのね……話してくれてありがとう」

 と言ってくれた。

 青塚は、佳世に抱きついて号泣した。

 

 暫く経って。

 青塚は漸く泣き止んだ。

 そして、眼鏡を掛けた美しい姉を見ながら、質問した。

「お姉ちゃんは、眼鏡のことでからかわれたりしないの?」

「んー、そういうこともあるかな」

「え!? お姉ちゃんでもあるの!?」

「そりゃあるわよ」

 まるでそれが普通の出来事である、とでも言うような佳世の話し振りに、青塚は驚きを隠せなかった。

「嫌じゃないの?」

「そうね。確かに気分は良くないわ。でも、そういうことを言う人にはね、こう言ってあげるの。『どう? あたしの眼鏡、格好良いでしょ!』ってね! そう言ってあたしが笑うと、相手はもう何も言えなくなって、どっか行っちゃうのよ」

 そう言うと、佳世は歯を見せて笑った。

「お姉ちゃん、格好良い!」

 目を輝かせる青塚。

 そして、青塚は少し切なそうにぽつりと呟いた。

「僕もお姉ちゃんみたいに強かったらな……」

 そんな弟を見て、佳世は聞いた。

「光龍は強くなりたいの?」

「うん、強くなりたい!」

「そう。強くなりたいだなんて、やっぱり男の子ね! 素敵よ!」

 頭を撫でる佳世。大好きな姉に褒められ、頭を撫でられて、青塚は笑顔を浮かべる。

 そして、佳世は続けてこう言った。

「強くなりたいって思うのは素敵なこと。でもね、それだけじゃちょっと足りないの。行動しなきゃいけないのよ」

「行動?」

「そう。強くなりたいって思ったら、具体的に行動するの。そうしたら初めて、それまでの自分よりも、少しだけ強くなれるのよ」

「行動……そっか! 分かった!」

 そう叫ぶ青塚を、佳世はとても穏やかな表情で優しく見詰めていた。

 そして、徐に弟に向かって言った。

「そろそろ帰ろっか」

「うん!」

「でも、まずは買い物しなきゃね」

「手伝う!」

「ふふ。お願いするわ」


 スーパーで買い物を済ませた後。

 秋風が優しく頬を撫でる中、青塚は大好きな姉と手を繋いで街中を歩いていた。

 『自分が持つ』と言って聞かないので、半分――よりも少し少ない量の買い物袋を、佳世は弟に持たせ、残りを自分が持っていた。

 佳世の髪が風に靡き、眼鏡が夕焼け色に染まる。

「お姉ちゃん、今日の夕ご飯は何?」

「ふっふっふ~。当ててごらん?」

「えっと、さっき、じゃが芋とお肉買ってたから……家にはまだ人参と玉葱があるし、ルーも残ってた……けど、これだけだとまだ弱いかな。でも、シチューはこの間作ったし、最近あんまり作ってない料理だと考えると……うん、カレー!」

「ピンポ~ン♪ すご~い!」

「やった!」

「本当、光龍は頭良いわね」

「へへ~ん。僕が将来、良い学校行って、良い会社入って、たくさんお金稼いで、お姉ちゃんに楽させてあげるから!」

「あら、そんなこと考えてたの? ふふ。楽しみにしてるわね」

「うん!」

 佳世が微笑むと、それだけで世界が輝いて見える。

 学校にいる時、そして学校からの帰宅途中、公園に一人でいる時は、いつもこの世の終わりのような表情をしている青塚だったが、佳世と一緒に手を繋いで帰る時の彼は、とても幸福そうだった。

 毎日学校で苛めに遭っている彼にとって、佳世が唯一の心の支えであり、精神安定剤であり、最後の砦だった。

 その日も、学校で辛いことはあったものの、佳世のお陰でまた青塚は笑顔になることが出来たのだ。いつもと同じように、辛いことは忘れて、一緒に笑顔で帰宅し、笑顔で夕食を食べ、笑顔で眠りに着く事が出来るはずだった。青塚はそう信じていた。

 しかし――

 二人で路地裏を歩いている時に、佳世はふと、違和感に気付いた。

 誰かの……気配がする? 後ろから……

 この路地裏は人気が無く、街灯も少なくて暗い。出来れば通りたくないところだった。

 他の場所に関しては出来るだけ大きな通りや、人気のある場所、明るい道を選んで家までの道を歩いている佳世だったが、残念ながら家に帰るにはこの道を通るしかなかった。

 まだ……気配がする。

 嫌な気配がいつまでも消えず、佳世はバッと、後ろを振り返った。

 が、そこには誰もいなかった。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 異変を感じて不安げな表情を浮かべる青塚に対して、佳世は、

「ううん。何でもないの」

 と答えたが、その時、視界の隅に、大きな影が見えた。

「死ね」

 どこからともなく聞こえる冷たい男の声。

「光龍!」

 咄嗟に佳世は、青塚を突き飛ばし、身を挺して庇った。

 次の瞬間――

「きゃあああ!」

「いてて。お姉ちゃん、どうし――」

 尻餅をついた青塚の目の前で、佳世が――最愛の姉が、炎に包まれていた。

「うわああああああああああ! お姉ちゃん!!!!」

 悲鳴を上げる青塚。

「ちっ! このアマが! 邪魔しやがって!」

 どこからともなく現れた巨漢の男が、忌々しげに舌打ちする。

 炎のように赤く逆立った髪が熱風で揺らめき、そのつり目と身体は、赤い光で覆われていた。

「まぁ良い。どちらにしろ眼鏡は両方殺すつもりだったしな。順番が変わっちまったが、俺様が今から殺してやるからな、ガキ」

 男は冷酷な声でそう言うと、青塚を見下ろして睨んだ。

 まさか……この町に……来るなんて……

 尋常ならざる苦痛に顔を顰めながら、佳世は自分の認識の甘さを悔いた。

 今では信じられないことだが、当時、このN市はむしろ治安が良い方だった。他の県ではデビルコンタクトの事件が散発していたものの、このN市がある県ではデビルコンタクトによる眼鏡狩りは起こっていなかったのだ。そのため、眼鏡を掛けた者達が平和に歩く姿が普通に見られた。まさかその一年後には、日本国内で一番治安が悪い町になってしまうなどと、誰が想像出来たであろうか。

 そのため、佳世は油断していた。運が悪いことに、この日が初めてこの男がN市にやって来た日だった。

「逃げなさい!」

 せめて、弟だけは生き延びて欲しい。

 そう思い、身体中を焼かれながらも、佳世が叫ぶ。

「でも……お姉ちゃん!」

「いいから逃げなさい!」

「でも……」

 蛋白質が焼ける匂いが鼻をつく中。

 男が――姉をこんな目に遭わせた大男が、近付いて来る。

「じゃあ、そろそろ死ね」

 そう言って青塚に近付こうとする通り魔だったが――

「あ? 何だクソアマ?」

 猛炎に身体中を包まれながらも、佳世が両手を広げて男を行かせまいとする。

「走って!」

「お姉ちゃん!」

「走れ!」

「うわあああああああ!」

 猛火に覆い尽くされ呼吸すらままならない中、搾り出すようにして放たれた姉の叫び声に、少年は駆け出した。

「おうおう、必死だな。転けながらも走り続けてよ。無様なもんだな、ガキ! ギャハハハ! でもよ、この俺様から逃げられるとでも思ってんのか?」

 男が、逃げる青塚に対して手を翳す――

 ――が。

「何この炎? あんたの炎、ショボいわね」

「あ?」

 聞き捨てならない台詞に、ピクリと反応すると、男は佳世の方に向き直った。

「俺様の炎がショボいだ? ふざんけんなこのアバズレが!」

 男が更に巨大な炎で佳世を攻撃する。

「ぐっ! ……この程度? こんなんじゃ新聞紙も燃やせないわよ。この無能犯罪者!」

 男の顳顬に青筋が立つ。

「くそがっ! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ねえええええ!」

 何度も、繰り返し男が炎を浴びせる。

 佳世の身体が焼け爛れて行く。

「ちっ! ガキの方は逃がしちまったか。このクソ女が」

 燃え続けながらも、尚も立ち続ける佳世の身体を男は忌まわしげに蹴った。

 ……光龍……お願い……どうか……生き……て…………

 力なく倒れ――

 ――ボロボロと佳世の身体は崩れて行った。


※―※―※


 翌日、青塚が現場へと行くと。

 黒炭と化した姉の姿があった。

「お姉ちゃん……? お姉ちゃん……! お姉ちゃん……!! うわああああああああああああああ!!!」


 泣いた。何度も。泣き続けた。

 泣き尽くした後。


 青塚は、あの男を殺すと、誓った。

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