鬼神

   ※ ※ ※


 神三郎は術を解いた。紫苑がまた、鬼神の首筋に鋭い爪を突きつけている。その気になれば髭でも剃るように簡単に首を落とせる。それはさっき志穂を切り離した時に証明済だ。


「ひいぃ、痛い。痛い」


「当然じゃ。背中の肉をえぐったのじゃからな。だがお主に喰われた者は、もっと痛かったであろう」


「わかった、わかった。わしの力では、おまえたちには敵わない。抵抗はしない。約束する。おお、そうだ。その男は陰陽師だと言ったな。それならば、わしが式神になってやろう。どうだ。自分では何も失わずに式神が手に入るのだ。悪い話ではあるまい」


「断る」

 神三郎は冷たく言い放った。


「これ以上、式神は必要ない。それに人を喰い殺した鬼を許すつもりもない。僕の目的はこの世に紛れ込んだ鬼を狩ることだ。そのために左腕も、左目も失った。今、生きている理由もたぶんそれだけだ」


「どうしてだ。どうして、そこまでする」


「教えてやる必要はない。おまえは人を殺して喰った。それだけで十分だ」


 鬼神は、神三郎から目を背けた。

「もういい。このままでは痛くてたまらぬ。殺すなら、さっさと殺せ」


「殺すさ。ただその前に、いくつか聞きたいことがある」


 神三郎は後ろに下がった涼子たちを確認した。建物の外の草むらにタオルを敷き、服を着せている所だった。どうせ鬼神は始末しなければならないが、むごい光景をわざわざ見せる必要はない。

 使える時間は五分か、せいぜい十分。それ以上は切り離した少女の負担になる。


「おまえは人間を何人喰った? あの子の足と、男の高校生ひとりだけか」


「知らん。忘れた。何日も前に喰った物など、どこの誰がいちいち覚えているものか」


「覚えていないのか」


「ああ、それがどうした」


 神三郎はジャケットの内ポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。口を使って刃を引き出す。片腕がないと不便だな。そう思いながら、自分の親指に刃の先端を押し付けた。すぐに血が膨れて玉のようになる。


「何をしている」


「紫苑、頼む」


「わかっておる。ほれ、お主。上を向いて口を開けるのじゃ」

 紫苑は鬼神の首に爪を押し付けた。鬼神は慌てたように大きく口を開ける。

 神三郎は指から滴る血を、鬼神の口の中に落とした。本当は名前を聞いてからの方が効果があるのだが、そこまでの時間はない。

 鬼神の喉が動くのを確認してから、神三郎は陰陽道に伝わる真言を唱えた。これで短い間ならこの鬼を支配できる。


「そこの鬼神よ。我が問いに真実を語ることを命ずる」


「何を勝手な。おまえの命令など、どうしてわしが……。あ、あ、ああ」

 鬼神は急に顎を揺らし始めた。


「もう一度聞く。おまえはこれまでに何人の人間を喰った? あの女の子の足と、高校生の男ひとりだけか」


「あ、ああ。わ、わかった。言う。言う。わしは他にも人間を喰った。だが、たったの二人だけだ。六日前。こちらの世界に来てからすぐに、子どもを喰った。男と女だ。名前は知らん」


「場所はどこだ」


「ここから東にある貯水池の近くだ。このあたりに住んでいる人間は、瓢箪池と呼んでいるらしい」


 やはりそうか。

 神三郎は暗澹たる気持ちになった。その日の新聞の地方版に、五歳と七歳の子どもの失踪事件が掲載されていた。池に沈んだか森に迷い込んだか。大規模な捜索が行われたが、まだ遺品ひとつ見つかっていない。


「子どもの服や靴はどこに隠した」


「離れた場所に埋めた。騒ぎが大きくなると、次の人間が喰いにくくなると思ったからな。その場所から北に十キロくらい離れた山の中だ。それ以上は本当に覚えていない。なあ、もういいだろう。頼む。頼むから早く殺してくれ」


 鬼神は哀願するような調子になった。

 神三郎は後ろをチラリと振り返った。服を着た志穂を涼子が背負い、佑子が支えている。三人はそのまま、元来た道を引き返し始めた。


「最後に、もうひとつだけ答えろ。おまえがその子どもたちを喰ったことを、あの子は知っているのか」


「たぶん知らんだろう。体は融合していても、意識は常に目覚めているわけではない。あの時はこうるさい女の意識は聞こえなかった。だからこそ喰えたのだろうが……」


「確かか」


「ああ、ああ。もういいだろう。早く殺せ」


「わかった。紫苑、こいつを楽にしてやってくれ」


 言い終わるのと同時に、鬼神がっくりと頭を落とした。そのまま首が落ちて、床を転がっていく。

 首があった場所の断面から鮮血が勢いよく噴き出した。神三郎の足元近くにまで届く。血飛沫を避けながら紫苑が跳躍した。そして次の瞬間には、神三郎のすぐ隣にいる。


「この者の死体はどうする」


「そのままにしておこう。連絡をしておけば、後で警察が始末してくれる」


 紫苑は溜息をついた。

「どうしてじゃろうな。このような者共が後を絶たぬ。大した力も持たぬのに、一時の感情に任せて人を喰う。人間の世界で生き抜く当てもあるまいに。最後はこうなることも、わかっていたはずじゃ」


 神三郎はまだピクピクと動いている胴体を眺めていた。鬼神は生命力が強い。胴体を刺した程度ではすぐに死なないが、首を落とせば生き返ることはない。

 もちろん呼び出した時の紫苑のように、体の一部を向こうの世界に置いてある場合は別だ。首だけで生きているように見えるが、厳密にはそうではない。違う世界との間で首は繋がっている。


「弱いから、だろうな」


「弱いから?」


「弱い者は、より弱い者を屈服させようとする。それで自分が弱いことを忘れようとする。向こうでは誰も認めてくれなくても、この世界に来れば圧倒的な力に酔いしれることができる。力は魔力だよ。紫苑のように最初から強い者にはわからないかもしれない。でも、僕にはわかる」


 紫苑は不思議そうな顔をした。

「神三郎様も強いではないか」


「僕は母親を目の前で喰われた。その時、何もできなかった。力が欲しい。力をくれるなら自分の命なんてくれてやる。そう思っていた。九十九の親父が陰陽師にしてくれなかったら、僕もあの子のように鬼に体を奪われていたよ。あの頃は、先のことなんてどうでもよかった」


「そんなことはない」

 紫苑は口元を緩めた。


「神三郎様は妾と出会った。それは決まっていたことなのじゃ。他の可能性などなかった。そうであろう」


 神三郎は少し考えてから、小さく頷いた。

「そうだな」


 鬼神の胴体がようやく動きを止めた。もう、動かない。空気に触れて早くも固まりかけた血が、まるで薄い袋のようになって首のあった場所に溜まっている。


「佑子たちの後を追おう。あの子を病院に送らないといけない。あいつは遠慮がないからな。遅れたら本当に置いていかれる」


「それはたまらん。偽物の足で、遠くまで歩くのは難儀じゃ」


 紫苑の右腕は、いつの間にか元に戻っていた。少女のしなやかな指が、神三郎の腰に触れる。

「ふふっ、手は良いの。だが欲を言えば、左手から戻せば良かった。それならば、神三郎様と手と繋ぐことも出来ただろうに」


「さあ、急ごう」


 神三郎は右手で埃を払ってから、先に歩き始めた。紫苑がまるで体の一部のように、ぴったりとついてくる。


 僕の式神が紫苑で良かった。

 そう口に出そうかと思ったが、やめた。


 そんなことは当たり前じゃ。妾は神三郎様のために生まれてきたのだからな。

 そう聞こえたような気がした。自分の肉を喰った鬼神とは不思議な繋がりが生まれる。血肉を媒介として心の一部が融合しているからだ。だからこそ、あの子と融合していた鬼神はどうしてもこの場で殺さなければならなかった。

 神三郎は歩き始めた。紫苑との会話はもう、お互いの視線を交わすだけで終わっていた。

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