7 救出

廃屋

 小屋まで続く山道はかなり荒れ果てていた。

 相当長い間、使われてなかったのだろう。踏み固められていたはずの土から雑草が芽吹き、草の敷かれた窪みのようになっている。

 道幅は細く、一人が通るのがやっとだった。神三郎が先頭になって、張り出した枝を残った右手で払いながら進む。それでもたまに、頭や腕に細い枝がぶつかる。


「痛っ」

 跳ね返った枝が、涼子のむき出しの腕を叩いた。


「大丈夫?」

 前を進む佑子が振り返った。


「ごめんなさい。平気です」


 本当に平気な顔をしているのは佑子の方だ。最後尾の涼子は、ついていくだけで必死だった。

 やがて道の先が突然、開けた。佑子の肩の向こうに、小屋のような物が現れる。


 近づくと、それは小屋というよりは倉庫に近かった。

 山に入る人間が物置か何かに使っていたのだろうか。大きさは学校の体育倉庫と同じくらい。ベニヤ板でできた壁は所々がはがれかけ、トタン屋根は錆びて穴が空いている。


 先導していた八咫烏がクチバシでその建物を指し示した。神三郎が、わかったというようにうなずく。


「僕と紫苑が先に行く。涼子君は後ろからついて来てくれ」


「あの……」

 涼子がためらいがちに口を開いた。


「ん、なんだい」

 神三郎は足を止めて振り返った。


「気になっていることがあるんですが、いいですか」


「もちろんだ。君は僕の雇い主だからね」


「もしかしてなんですけど。志穂はもう、鬼に食べられているんじゃないでしょうか。あの時志穂は私を助けてくれたら、残りの自分は食べてもいいって言っていました。八咫烏さんが見たっていう志穂は、食べた後に鬼が変身した姿かもしれない。そう考えると怖くて……」

 その疑念が頭の片隅に浮かんでから、涼子はずっとそのことを恐れていた。大丈夫。そう何度も自分に言い聞かせていた。


「それはないな」

 神三郎は即答した。


「もう一度、確認するけど。涼子くんはあの時に聞いた言葉を一字一句、完璧に覚えていると言ったね」


「はい、全部。まるで今見たばかりみたいに思い出せます」


「志穂さんは君を助けた時。確か鬼神に、ずっと遠くに行った後なら自分を食べてもいい。そう言ったんだったね」


「はい。間違いありません」


「それなら鬼神は、絶対に君の友達を食べることができない。どう考えても、ここは志穂さんが言ったような遠くじゃないからね。言葉の意味からして、少なくとも簡単には追いかけて来られないような場所まで行く必要がある。

 契約の言葉で優位に立っているのは、本当は食べられた人間の方なんだ。食べた鬼神には人の想いが染み込んでしまっている。契約を果たすまで、本当の自由にはなれない」


 大丈夫。心配いらないよ。神三郎はそう言ってから、また歩き始めた。慌てて涼子も後ろからついていく。

 小屋にたどり着くと、まず神三郎が引き戸に手をかけた。ガタガタッ。戸は小さく動いただけで開かない。神三郎が首を横に振る。


「どうやら内側から、突っかい棒をしているようだな。紫苑、頼む」


「心得た」

 神三郎が横に動き、紫苑が正面に立った。


 隣にいる佑子が耳打ちする。

「今から紫苑がやるわよ。驚かないでね」


 くぉう。空気を吸う音がした。大気が肉に変化するように、右腕が少しずつ太くなり、袖から突き出すように伸びていく。同時に真っ白だった肌が、その部分だけ赤黒く変色していく。

 筋肉の圧力に耐えかねたゴシック調のドレスの袖から、ボタンが跳ねるように飛んだ。ただし服は破れない。こうなってもいいように袖口は最初から切り広げ、ボタンで留めていたのだろう。

 指が熊手のように大きく広がり、爪の先が錐のように鋭く尖っていった。

 涼子は息を呑んだ。何日か前に見たことがある。鬼だ。まさしく鬼の腕だ。

 紫苑は自分の腕を見てニヤリとした。変化したのは腕だけで顔はそのまま。それが逆に凄みを感じる。


 やがて右腕は地面につくほどの長さになった。まるで体の三分の一が右腕になってしまったように。

 ゆくぞ。そう言うと、紫苑は振り子のように頭を振って異常に長い右腕を持ち上げた。そのまま正面にある戸にたたきつける。乱れた髪が顔にかかるが、紫苑は構わない。

 みしっ。何かが潰れる音がした。そして次の瞬間、破裂音と共に木戸は木っ端微塵に砕け散った。


「入るぞ」


 土埃が舞う中、涼子も二人に続いた。

 前がよく見えない。思わず息を止める。ちらりと黒い影が動いたような気がしたが、早すぎて追えない。やがて埃の細かい粒が重力に捕らわれ始め、少しずつ視界が戻ってくる。


 そこに涼子が見たのは、大きな赤黒い鬼神に、後ろから馬乗りになった紫苑の姿だった。作り物の部分を足しても体は相手の半分にも満たない。だが、その威圧感は圧倒的だった。綺麗な顔とは不釣り合いな鬼の爪が、ナイフのように喉に突きつけられている。


「動くでない。首を落とすぞ」


「誰だ、おまえは。そんなに細く小さい体で、わしを抑えておけるとでも思っているのか」


 言葉だけは威勢がよかったが、体は床に縫いつけられたように、ピクリとも動かなかった。

 紫苑は嘲るように笑った。


「抑えておるではないか」


「どうやった。いったい、どんな術を使った」


「質問をするのは妾たちの方じゃ。お主はただ、力の差を知れば良い」


 一瞬、涼子は鬼神の表情に明らかな絶望の色を見た。圧倒的な存在への恐怖。それは鬼というよりも、むしろ人に近かった。


「う、うぐっ」

 突然、鬼神は白目をむくとぶるぶるっと震えた。


「あ、あ……」

 苦しそうに呻き、歯をカタカタと鳴らす。


 最初は見間違いかと思った。だが違う。本当に体が縮んでいる。

 肌が、内側から透けていくように白くなった。モップのように太くてゴワゴワとした髪が、細く艶やかになっていく。

 腰のあたりから尻が盛り上がり、深い割れ目がくっきりと見えるようになった。背中に筋ができる。肩が下がる。皮膚を覆っていた柔毛が消えていく。


 それは人の姿だった。知っている。志穂だ。紫苑に体の動きを封じられたまま。顎を必死に持ち上げて、喉に突きつけられた爪を避けようとしている。


 全裸の少女は救いを求めるように涼子を見上げた。

「涼子、そこにいるのは涼子ね。私がわかるでしょう。あの鬼はもう、いなくなったわ。どこかへ行ったの。助けて。このままだと殺されちゃう」


「志穂?」


「ええ、ええ。私よ。助けて。家に帰りたいの。お母さんに会いたい。この恐ろしい女の鬼を見て。それに片腕の男。私を殺そうとしてる。お願い。こっちに来て。私を守って」


 神三郎が、紫苑が。何か言いたそうに涼子を見た。

 涼子はゆっくりと首を振った。


「大丈夫です。わかってます」


 唾を呑み込んだ時、さっきの胃液の味がわずかに残っていた。呼吸を整える。ここからは自分の仕事だ。他の人にはできない。

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