第45話 遮那王丸


***




 何か聞こえる。誰かが話している。

 幼い義経はそれを聞いている。

 話しているのは僧達だ。

 平家の専横。世の中の乱れ。伊豆にいるという源氏の頭領、頼朝の噂。


 源頼朝。

 自分がその源氏の頭領の弟であると、義経は僧達の話を盗み聞いて知ったのだった。

 幼い頃に寺に預けられ、自分が何者なのか知らずに育ってかt義経にとって、源氏の頭領である兄が伊豆にいるというのは、己の存在する意味を得られる何よりの頼りだった。


(源氏の頭領……)


 いつか、いつの日か、平氏に押さえつけられている源氏が立ち上がる日が来るだろう。

 その時にこそ、義経は兄の元に駆けつけて、弟と認めてもらおう。

 そのためにも、剣の腕を磨かなければ。


 義経は僧達の目を盗んで、山の中で修行を繰り返した。

 いつの日か、こんな寺からは抜け出して、頼朝に弟と認めてもらい立派な源氏の武士となるのだ。

 その日を夢見て、義経は願った。


(強くなりたい。強い武士になりたい。力が——)


——力が、欲しいか。


 不意に聞こえた声に、義経は振り向いた。

 姿は見えない。茂みの奥から聞こえてくる声。


——力が欲しいか。


 欲しい。欲しいに決まっている。力があれば、平氏と戦える。武士になれる。源氏を名乗れる。


 義経は声に導かれるようにふらふらと茂みに近寄った。

 力が欲しい。敵と戦って、誰にも負けることなく、義経の存在を認めさせることが出来る、圧倒的な力が。


 茂みの前に立った義経は、生い茂る叢を覗き込もうと身を乗り出した。

 叢からぬっと飛び出してきた黒い手が、義経の腕を掴んだ。

 そのまま、凄い力で叢に引きずり込まれた。

 義経の目の前に、凶悪な面の男が現れた。つり上がった目、白銀の髪、尖った牙、——背中に生える漆黒の翼。


 魔物は全身に夥しい傷を負っていた。血まみれの魔物は禍々しい笑みを浮かべて義経を見据えた。


「ええ、忌々しい! この大天狗。遮那王丸様がここまで手傷を受けるとは! 流石にしばしの休息が必要だ! 小僧、お主の魂と体を寄越せ! 代わりに、お前て敵をすべて殺せる力をやる!」


 義経は恐怖のあまり何も言えなかった。だが、天狗は構わずに義経の胸に手を当てた。


「力が欲しい……その「欲」を持つ者ならば、魔物の巣となれる。その身に魔物を宿すことが出来る! 小僧! お前の「欲」が俺を招き入れたのだ!」


 天狗の肉体が黒い霧のようなものに変わり、それがあっという間に義経の胸に吸い込まれていった。


 義経はその場に膝をつき、荒い息を吐いた。

 己れの身に何が起きたのかを、恐怖と共に理解した。


「魔物……魔物に、取り憑かれた」


 その上、義経は己れに取り憑いたのが遮那王丸という名の天狗だったことを思い出し、愕然とした。

 大天狗・遮那王丸といえば、悪逆非道の限りを尽くしたと言われる伝説の大魔物だ。そんな魔物を身に宿したと知られたら、義経は魔物のしもべになったと思われる。

 僧達は間違いなく義経を殺す。魔物の気配はすぐにばれるだろう。


(逃げよう)


 今しかない。今、逃げなければ、魔物もろとも切り捨てられる。


 その日、義経はそのまま寺を飛び出した。金も食い物も、何一つ持たずに。




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