俺たちは漁師だった

イネ

第1話

 歳とった親父とふたり、俺は海を眺めて暮らす。小高い丘の掘っ立て小屋で、今は畑を耕す人なのだ。

 親父は昼間っからぼんやりとして、食べたいときに食べ、気の向くままにうとうとし、時折、畑の縁まで歩いて行っては、おどろいたように海を眺める。自分がイカ釣り船に乗っていた頃のことは、もうあまり覚えていないらしい。

 それでも、夜中になると決まって一度は目を覚ます。布団からすっと這い出して、かっぱを着て、長靴を履いて、海へ出ようとする。

「親父、船は出ねえよ。俺たちゃ、もう漁師じゃねんだ」

 そう言って、また寝かしつける。


 子供の頃の俺は、眠っている親父をよく起こしたものだった。

「お父さん、あれ、なに。海にうかぶもの」

 漁師は眠りが浅い。親父はどんなときでも即答だった。

「なにぃ。漁港の灯りだろうが。他に何があるって」

「お父さん、ぼくも船に乗りたい」

「そりゃ、だめさ。子供は夜は眠らなくちゃなんねえんだ」

「ぼく平気だもの。さっぱり眠くないんだもの。ね、行こうよ。もう、いっしょに出ようか」

「まだ早ぇよ。いや、今夜は船は出ねえな。しけてっから」

「しけてないよ。船は出るんだよ。ねえ、お父さん。連れてってったら」

 あのとき親父は、俺の年齢のことを「まだ早い」と言ったのだったろうか。

 学校へ上がってもなお、親父は俺を船に乗せようとはしなかった。それどころか、漁師にはなるな、とさえ言った。

「イカ釣りなんて何もおもしろくあるめぇ。おまえは陸で働け。役所だ、役所がいい」


 中学を卒業して、俺は漁師になった。

 親父は俺を連れて、漁師仲間の家をひと通り頭を下げてまわり、丘の上の家に戻ると静かな海を見下ろして言った。

「お母さんに心配かけるようなことだけはすなよ」

 昼間の海は真っ白で、細かい波しぶきが砂漠を這う蛇の足跡のように見えた。

 漁港には誰もいないらしい。

 あんまりさみしげで、どこかに知った顔がないだろうかと丘の上から目を凝らす。かつてそこにいたであろう、想像でき得る限りの顔を思い浮かべてみる。

 母親を、思い描いてみる。

 色白で、上品な和服姿で、日傘を差してゆっくりと歩き「ごきげんよう」なんて言う。

 いや、漁師の家にそんな女がいるものか。

 きっと潮焼けした肌で、着古した前掛けに長靴の格好で、漁港とお勝手とを行ったり来たりして、出刃をふりまわし威勢よく魚を捌いていたに違いないのだ。

 俺だって、産まれてからしっかりと目を開いてその姿を見たのだろうが、その乳を飲んだのだろうが、薄情なもので、俺には母親の記憶というものが一切ない。

「だってうち、お母さん死んじゃったじゃない」

「おう」

 親父はそれ以上なにも言わなかった。


 津波で船を失ったときにも、親父は文句ひとつ言わず、何にも抗わなかった。抗う術なんて、もともと俺たちは持っちゃいない。

 ふたりして漁師をやめ、追いやられるように丘の上で畑を耕し始めると同時に、親父はいっきに老人になった。

「なあ、親父」

 なぜだろう。俺は今でも、眠っている親父に話しかける。

「来週、郵便局の帰りに海へ寄ってみるか」

 親父は相変わらず即答だ。

「郵便局? おまえ何しに郵便局に行く?」

「来週、年金もらった帰りによ、漁港へ寄ってみるかって。若いやつが新しい船を買ったようだから」

「おう、そうか、買ったか。なんの船だ。イカならいいな。イカは不思議なもんでよ、古い船には寄り付かん。はっはぁ! 物好きなんだな。おまえ、イカって漢字を書けるか」

 親父はこの話が得意だ。暗闇に向かって何度でも繰り返す。子守唄というわけじゃあないが、なんだかとっても落ち着く。

「俺は書けねえけどよ、烏という字がつくんだろう。な、烏もイカも、光り物が好きなんだ。それで漁師は船をギラギラに磨いてよ、イカをだますってわけだ。な。イカ漁ほどおもしろいことはないな。それでおまえ、何しに郵便局へ行く?」

「うん、来週な。年金もらって、それから漁港で新しい船、見せてもらうべ」

「おう、買ったか。イカ船か? イカはいいな。おまえ、イカって漢字、書けるか」

 そうして親父はまた、浅い眠りへと戻ってゆく。

「おまえ、海へ行くならよ、お母さんに心配かけるようなことだけはすなよ。な」

「ああ、わかっとる」

 わかっとるよ、親父。


 小高い丘の上で。

 海を眺めて暮らす。

 俺たちは。


 俺たちはかつて、漁師だったーー。



【俺たちは漁師だった・完】

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