第二章 陰影
お誘い
麻雀打ちを表す数ある呼び名のひとつに、“バイニン”という言葉がある。
商売人という言葉が転じてそうなったと言われるこの呼び名は、ある種ただの麻雀打ちではないという表現にもなりうると聞いたことがある。それは主に、裏芸――イカサマに練達している者を指すことが多いようだ。
時を遡って戦前もしくは戦後間もない頃の話。当時の麻雀打ちはいまのような自動卓ではなく手積みで麻雀を打っていたので、当然牌山を自分たちで積んでいた。そうなれば勿論、自分のツモ筋に好牌を積んだり、配牌でごっそりと意中の牌を持ってくるよう仕組んだりもできたワケだ。そういった裏芸で相手を欺き、時に競い合い、カネを奪い合っていたらしい。
自動卓が普及したいまとなっては積み込みはおろかスリカエ芸ですら十分な効果を発揮できなくなったので、もはや過去の産物となりつつある。
いずれにせよ、自動卓で麻雀を打つ私には関係のない話だろう――私はそんな風に考えていた。
私がやよいで働き始めて、二週間が経過した。
仕事の内容もほとんど覚えたので、先に弥生さんに休んでもらい、私が店を閉めるということもしていた。勿論、江上さんや遠藤さんを初めとする常連のお客さんたちにもすっかり顔を覚えてもらった。
いまのところ、この生活に不自由はなにひとつない。衣食住の面は勿論充実しているし、時折面子合わせで参加することがあるので麻雀だって打てる。むしろ面子が揃わず私が朝まで打つようなこともあるので、“もういい”と思ってしまう日があるほどだ。それでも、一晩寝ればまた牌を触りたくなるのだが。
とにかく、私は満足していた。裏社会に属する店とはいうものの、タチの悪い客だって一切来ない。来るのは常連か、彼らが連れてくる知人のみなのだ。だから接客という仕事面でも、私にストレスは一切なかった。
その日は、開店と同時に遠藤さんと江上さんが二人でやってきた。それに続くように、いつも野球帽を被っている山口という青年と、一度も勝って帰ったのを見たことがないホストの金村という男が現れた。
四人が揃った。つまり、私の登板はないということだ。金村さんがいつものように半荘二回でパンクとなったら入ることにはなるだろうが、彼は珍しく好調のようだった。――いずれにせよ、帰る頃には“オケラ”になっているだろうけど。
そんなワケで、私はいまカウンターの丸椅子に座ってぼんやりとテレビを眺めている。最初こそは彼らの麻雀を観戦していたが、どうにも金村さんの粗末な麻雀が目立ってしまい、次第に見る気をなくしてしまった。
ふと、時計を見てみる。午後の十時を指していた。勿論、彼らにまだ解散する気配はない。様子を見るに、まだまだこれからといった感じだ。
なお、弥生さんは九時頃からずっとカウンターの向こうで椅子に座ったまま、うたた寝を続けていた。時折目を覚ましはするものの、店に変化がないことを私から聞くと、すぐにまた目を閉じて寝息を立てていた。
退屈だな――私はカウンターの上に突っ伏しながら、思わず心のなかでそう嘆いた。
なので突然店の扉が開いたとき、私は思わず笑顔になって体を起こした。もしかしたら、美琴さんが来てくれたんじゃないかと思ったからだ。
――しかし、現れたのは美琴さんではなかった。
「やっほー。相変わらずシケてる店だねぇ。この時間に一卓しか立ってないなんてさ」
現れたハナさんは店内を見回しながら誰に言ったワケでもない嫌味を言い終えると、まっすぐに私のもとへと歩いてきた。
「シロちゃん、いま暇? よかったらあたしとお出かけしない?」
「は、はい……?」
私が困惑していると、江上さんがこちらに手を振りながら言った。
「ハナちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ、元気だったかい?」
それを受けたハナさんは、最初は浮かない顔をしていたが、すぐに思い出したらしく、ぱあっと明るい表情になって江上さんのもとへと歩いていった。
「おぉ、誰かと思えば江上のおっちゃんじゃん。まだ生きてたんだ~」
「相変わらずだねぇ。かれこれ一年にはなるかな? 会えて嬉しいよ」
「そーだね。再会を祝して一勝負――と言ってあげたいところだけど、あたしはシロちゃんに用事があるの。また今度ね」
ハナさんは一方的に話を打ち切ると、再び私のもとへと戻ってきた。
「それじゃ、行こっか」
「あ、あの……私、いま仕事中で……」
「仕事ぉ? そんなのどーでもいいじゃん。そこで寝息立ててる昭和生まれの人に任せちゃえって」
ハナさんがそう言った直後、弥生さんがパチッと目を開け、いつもよりワントーン低い声で「誰がいつ生まれですって?」と言った。さっきまで寝てたのに――
「なーんだ、起きてんじゃん。それなら話は早いや、シロちゃん借りてくよ」
弥生さんの殺気すら感じさせる鋭い視線をなんとも思わず、ハナさんは軽い声調で用件を伝えた。弥生さんは呆れた様子で溜め息をついて見せてから、私も気になっていたことをハナさんに訊いた。
「……どこに連れていくつもりなのよ?」
「雀荘。この子がまだ知らないような麻雀を教えてあげようと思ってさ」
「知らないような麻雀?」
「うん。
店の名前と思われるその紅龍という単語が出た途端に、牌の音がぴたりと止んだ。麻雀を打っていた四人全員が手を止めて、こちらに視線を向ける。
突如店内を支配したその重い静寂を破ったのは、弥生さんの声だった。
「どういうつもり? この子はあんな店で打つような子じゃないわ。いったいなにを考えて――」
「まーまーそうカリカリしないでよ。あたしは本当にただ、こんな麻雀もあるんだっていうことをシロちゃんに教えてあげたいだけ。勿論同卓して、万が一のときにはあたしが助けるよ」
ハナさんはそう言って弥生さんを宥めてから、手を止めてこちらの会話に耳を傾けている四人に向かって「こっちは気にせず、続けてね」と言った。それから、私のほうに向き直る。
「どーかな? シロちゃんはどうしたい?」
「え、えーと……」
私は
すると、ハナさんが迷っている私の手を急に掴み、出口へと引っ張っていきながら歩き始めた。
「とりあえず歩きながら説明したげるよ。それじゃ、皆さんお達者で~」
「ちょ、ちょっと……ハナさん!」
「大丈夫大丈夫。お金もあたしが用意してあげるから。シロちゃんはなにも気にせず、そこで麻雀を打てばいいのよ」
「え、ええ……?」
私は困惑したまま、ハナさんに連れられて店を出ていく。
――間際、遠藤さんと思われる声で、こんな言葉が聞こえた。
「あんなところで、麻雀が打てるもんかよ」
「……え?」
それはどういう意味ですか――と私が訊く前に、私は店の外へと出てしまった。
夜の裏魅神楽は昼間に比べれば盛っているが、人通りが多くなるような表立った盛り上がりではなく、あくまでも裏街らしい淀んだ雰囲気を保っている。
最初の内はすれ違う挙動不審な人々にひどく警戒心を抱いたものだったが、最近になってはなんとも思わなくなっていた。この裏街をうろつく人間の大半は、すれ違う通行人のことなど目にも入らぬほど自分の
「雀荘の仕事にはもう慣れた?」
歩き出して間もなく、ハナさんがそう訊いてきた。
「ええ、まぁ。でも、雀荘のお仕事って、もっと忙しいものだと思ってました」
「あはは。そのとおりだよ。本来はもっとバタバタしてる所が大半。あの店が暇すぎるの」
「やっぱり」
「でも、この近辺の店で働くなら、あたしだってあそこを選ぶと思うよ。厄介な客は来ないし、レートだって安いしね」
私にとってはいまだに千点五百円は十分な高レートなのだが――彼女にとってはお遊びに過ぎないのだろう。同時に、私は彼女が普段どのようなレートで麻雀を打っているのかが気になった。
「ハナさんって、普段はいくらで打ってるんですか?」
「普段? テンゴとか、ピンばっかりだよ」
「――五百円とか、千円ですか?」
「丸が一個多いよ。五十円とか百円のこと」
意外すぎて、思わず唖然としてしまった。ハナさんはいたずらっぽく笑って続ける。
「嘘じゃないよ? ブランクを作らないためだけに打つ麻雀には、レートなんて関係ないからね」
「ハナさんも、負けることはあるんですか?」
「ツイてりゃ勝つし、ツイてなきゃ負けるよ。麻雀に必勝法なんてないからね」
「じゃあ、この世界、どのように生きていくのが正解なんだと思いますか? 安いレートでコツコツ勝ちを積んでいくのか、それとも高いレートで大きく勝つほうがいいのか……」
「ふふ……正解なんてないと思うけどな。でも強いて言うなら、こうやって命を繋いでるうちは、少なくとも正解なんじゃない? 死んだら終わりってのは間違いないだろうし」
「でも、勝てなければ生きていくことだってできません」
「そうだろうね。だから実際のところ、みんなピーピーしてると思うよ。この世界で表の連中みたいに安心を抱いて生きている人間なんて、多分一人もいないんじゃないかな」
「そういうものですか……」
「そういうモンよ。――ほら、ここが紅龍だよ」
いつの間にか目的地に着いていたようだ。私はハナさんの視線を辿ってみる。
そこには一軒の寂れたビルがあり、入口と思われる箇所は地下へと続く真っ暗な階段のみであった。
「こ、ここに……雀荘が?」
「そーだよ。シロちゃんが見てきた雀荘とはちょっとばかし違うけど、まぁ、雀荘は雀荘だからね」
ハナさんは携帯電話を取り出し、ライトを点けて先を照らしながら階段を下りていった。私は慌ててそれについていく。
――いま思えば、断ることだってできたハズだ。
しかし、私の知らない麻雀とはいったいどんなものなのだろうという好奇心は、私が思っていた以上に強く胸中を占めていた。
階段の先には、ぼろぼろの木製扉がぼんやりと存在していた。ハナさんはやはり物怖じせず、その扉を押し開ける。
一番先に中から聞こえてきたのは、聞き馴染んでいる牌の音であった。私はここが本当に雀荘なんだと思い知る。
しかし、なにかが異なった。牌をかき混ぜる音がいつもよりこもっておらず、じゃらじゃらと明白に聞こえる。その違和感は、店内を見たと同時に氷解した。
「手積み……?」
その店には、自動卓がひとつもなかった。あるのは機械的なものが取り除かれたシンプルな麻雀卓が七卓のみ。その内、稼働――という言い方は的確ではないかもしれない。進行中なのは四卓であった。
「ご覧のとおり。この店は自動卓じゃなくて手積みでやってるんだ。いまどき珍しいでしょ?」
ハナさんの説明を聞きながら、私はここから見える一卓の、手前に座っている男の手牌に視線を奪われていた。
①①③東東東南南南西西西北北
これが配牌であった。
私は直感で悟る。どうやら、来てはいけない場所に来てしまったらしい――と。
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