第19話『黒犬達の円舞曲-②-』
「室長が連れ出してくれて良かったわ」
「はい……」
「この先は彼に聞かせたくないものね」
アスターを外へ連れ出した時のスターチスは、まるで初孫を迎えた爺のそれであった。
一方、医務室に残った二人はというと術式検査を終えてから表情を曇らせたままだ。
「あの
「……」
アスターの体には通常では考えられない量の術式が施されていた。
「ステラちゃん、古代語読めたわよね?」
「はい」
「じゃあ、あれがどういう
「はい……」
ステラは短く返事をして唇を噛む。
彼に施されていた術式は不完全な物から高位の物まで様々だった。
けれど、そのどれもが人に施すには悪質な物ばかりだった。
「……まるで試すだけ試したって感じ……」
「はい……」
人権なんて微塵も感じられない非人道的な術式の痕。
そもそも術式を施すという事は肉を焼き、鋭利なナイフで皮膚をえぐるのと同等の苦痛を伴う。
それはいっそ死んでしまいたいと思うような、耐え難い痛みである事を彼女は知っていた。
「……っ」
思い出すだけで胃液がこみ上げ、嗚咽し、身震いさえしてしまう。
忘れたくても忘れられない彼女の記憶。
「大丈夫?」
「……はい」
心配するルドラにステラは息を深く吸う。
「でもこれでハッキリしました。やっぱり記憶、弄られたんですね」
「そうね、でも何か変じゃない? 何で“自分の名前”まで忘れているの?」
「確かに……記憶の消去、改ざんをするにあたって。不都合な事を知られてしまった。だからその部分を消したという事であれば説明は付きます。ですがアスターさんの場合は、この世界に来て術式を施された記憶と、誰かに名前を呼ばれた記憶や、何かに書き記した記憶が綺麗さっぱり抜かれている。そんなことは可能なのでしょうか」
そこまで部分的に弄る事は不可能だ。
二人は口を揃えて頭を捻る。
「それにしても、まったく……どこの魔道士だか魔術師か知らないけどあんな……ステラちゃんごめんなさい。あそこまで術式を重ねられると、解析にも時間が掛かるし、解術となると私でもちょっと難しいわ」
「そう、ですか……」
「記憶に関しても今はそっとしてあげるのがベストだと思うわ。多分、今忘れている記憶は一生思い出したくないような……辛い記憶でしょうから」
「ええ……そう、ですね……」
気落ちするステラにルドラは何か分かればすぐに連絡すると伝え、今は彼の体が幼児化していく問題をどうにかする方が先だと続けた。
ルドラは暫くカルテを眺めて思考する。
アスターの体に施された膨大な術式。
その中に体を幼児化させるような類の術は見受けられなかった。
しかし体内の魔力バランスが崩れ、元の姿を保てなくなる症例は珍しくはない。
異種族しかり、魔道士しかり、足りなくなった魔力を補おうと体が勝手に
「私も……アスターさんの魔力が日に日に弱まっていくのが気になって……」
「貴女、そういうの“分かる子”だものね」
「定期的に魔力供給はしていたのですが……」
ステラは唇を噛み涙ぐむ。
「もしかして、最初に魔力を与えた事で術のどれかを発動させたかもって思ってる?」
頷くステラに、ルドラは笑いかけた。
「大丈夫よ。パッと見だけどいま発動している術式にそんな負荷の大きそうなものは無かったから」
そう言って彼女の涙を指で拭う。
「でも……」
では何故、与えた魔力がこうも早く減ってしまうのかステラは尋ねた。
「まぁ、もっと詳しく検査してみない事には答えは出せないと思うけど。ステラちゃんもわかってると思うけど、単純に彼、自分の力を制御できてないだけよね?」
魔道士協会などの魔法関連施設というものは、魔力溜りや
そして協会の至る所には室温や温度を測る湿度計に魔力数値の変化を測ることのできるメーターも付いていて、全ての部署で数値の記録を行うことが義務付けられている。
ここ第二医務室も例外ではない。
ルドラは出勤した直後に書き記していた今日の記録と、現在の魔力数値をステラに見比べさせた。
「上がってる……」
協会内の魔力濃度はほぼ一定だ。
現に今日より以前の記録は一定数値で書き記されている。
しかしアスターが去った今はどうだ。
魔力数値がぐんと跳ね上がり、彼が居なくなった後でもその影響は残ったままだ。
「たまに居るでしょ。そういう不器用な子。今はステラちゃんの高純度の魔力にちょっとビックリしちゃっただけじゃないかしら」
蛇口の止め方を本人に理解させるのは前提として、今は様子を見ながら本人にあった適切な量を見極め、少しずつ供給していくやり方を試すべきだとルドラは言う。
「て、やっぱり私のせいじゃないですか!」
「結果的にそうなっちゃってるだけよ〜。ライネックに襲われた時点でイレギュラーなんだから気にしない気にしない。――そ・れ・よ・り〜〜〜」
「ふぇ??」
不敵な笑みを浮かべ、自分の肩を抱くルドラにステラは戸惑った。
「彼の身体がビックリして赤ちゃんになっちゃったくらい急速な魔力供給って、どーやってるのか、お兄さんそっちのが気になってるんだけどぉ?」
「ど、どうって……、――――っ!!」
言葉の意味を理解しステラの顔が一気に赤く染まる。
「ななな、なっ!」
「やっぱりお口同士なのかしら~?」
「だっだだだだって!」
「いいわよねぇ、私好きよ。魔力供給受ける側のあの全身に電気が走るような感覚。えっちしてる時みたいでゾクゾクしちゃう♡」
「……ふぇ? ——ぁっ‼︎‼︎」
魔力供給を受けた事のないステラは、アレがそんな感覚だとは思いもしていなかった。
アスターの反応と供給が終わった後の彼の顔を思い出し、ようやく自分はとんでもないことを彼に致していたと思い知る。
一瞬で自覚した彼女に、ルドラは一層肩を揺らしケタケタ笑った。
「彼、本当に我慢強いのね。こんな可愛い子に毎日そんな事されて理性保ててるなんて」
「~~~~っ!」
(あぁもう本当、可愛いわぁ~)
更に顔を真っ赤に、あたふた慌てるステラにルドラはおもむろにデスクの引き出しを開け、フリーザーバッグを手渡した。
「はい、これ」
「え、えと……?」
(飴?)
フリーザーバッグには個別包装された飴が入っていた。
外装にはマーカーで『忙しい貴方に即チャージ! ~生命力補強ドロップ~』と記されている。
「んふふ~、じゃーん新作でぇす♪」
実はこの男ルドラ・ヴィンヤードは呪術医であると同時にセントラルでも一、二を争う大手製薬会社ヴィンヤード社の社長令息でもある。
諸事情により現在は家を出た身ではあるが、この第二医務室に勤務する傍ら怪しげな薬を作っては人で試そうとする、はた迷惑な趣味を持っていた。
ただこの趣味により、協会職員は怪我をしてもこの第二医務室に近付こうとしないのが難点だ。
「自分でも試してみたけど……質だけは保証するわ。うん、質だけはね」
(味は……美味しくなかったんですね……)
その言動から察したステラは苦笑しながら礼を言う。
「今はまだ理性を保てていても、やっぱり相手は男なんだし。貴女はもっと男ってのを警戒すべきよ。いい? 人畜無害そうな羊の皮を被っていても男は狼なんだからね?」
「は……はい。それはアスターさんにも沢山言われました……。肝に銘じます……」
「よろしい。——まっ、根本的な解決になってないけどねー」
外部から魔力を与えても本人が維持できなければ同じことだ。
だが本当にそれだけの問題なのか。
ライネックが人に取り憑いたという前例が無い分、事は慎重に動かなければならないのではないか。
二人の表情は浮かないままである。
「とりあえず術式についての解析作業はこっちで進めておくから、この件は暫く様子を見ましょうか。この事、室長に報告するわよね? もし貴女が言いにくいなら後でこっちに来てくれれば、一緒に話してあげるけど」
「ありがとうございます。では後ほど……すみません、よろしくお願いします」
「はいはーい。――あ、でも、本人への報告はお任せするわね」
「はい……」
了承したものの、彼女がそれを言えるわけがなかった。誰よりもその痛みが分かる彼女だから……。
***
散歩が終わり、医務室ではなく談話室の方へ連れ戻されていたアスターは黒服の少女二人に囲まれていた。
「ぶえぇ……」
訳:まずい……。
屈辱ながらも哺乳瓶からミルクを貰いその鉄臭さに嗚咽混じりに涙する。
「ちょっ! 吐いてる! 吐いてる!」
「うーん、お気に召さなかったかぁ」
「ね、ねぇリサ。それ早く拭かないとシミになっちゃうかも……」
嫌がるアスターに先ほどから無理やり哺乳瓶を突っ込んでいたはちみつ色のツインテールにパッチリ開いた柿色のツリ目が特徴的なパーカー娘はリサことメリッサ・ガルディ。
「えっ!? ちょっ、クロエっパスパス!」
「ぶえぇ……」
「こらこら、人を物みたいに扱わないの!」
次に彼を受け取ったのがクロエ・ミラビリス。
肩まである深い緑色の髪に赤いラインの入った黄色いリボンを後ろに付け、細いフレームの丸眼鏡を掛けた女性職員である。
「ど、どうやって抱っこしたらいいの〜〜?」
(圧が凄いっ!)
クロエの胸はバインバインだった。
「こ、こうかな?」
「!」
「わわっ!」
「危なっ!」
思いっきり胸に弾かれたアスター。
クロエは反動でバランスを崩し驚いたメリッサが叫ぶ。
しかしその危機に素早く動いたのは意外なことにリドだった。
頭から落ちそうになったアスターを寸でで受け止めリドはくるりと抱き直す。
その仕草は手馴れていてスターチスの次に安心出来るとアスターは思った。
「ご、ごめんね。リド君」
「いやいい。それよりいくら姿が赤子とは言え流石にこれは嫌なんじゃないか……?」
リドは卓上の哺乳瓶を指さした。
それにアスターも全力で肯定し嫌だ嫌だと首を振り主張する。
(プライド以前の問題ですっげぇ鉄の味がして粉っぽくて飲めたもんじゃないんだよ!)
「当たりみたいね」
「そ、そうね。なんだか凄く必死……」
彼の主張がやっと通じた瞬間である。
「流動食ならいけるんじゃないか……?」
リドはアスターを抱えたまま、ソファに立てかけていた鞄をまさぐった。
取り出されたのはリンゴ味のゼリー飲料だ。
「あうあ! あうあうう!」
訳:それだ! それがいい!
「凄い喜びっぷりだわ」
「ほ、本当……目の輝き方が違うね」
常温でも中身は十分砕かれており乳幼児の彼でも飲みやすく最高だった。
それを見ながらメリッサはぼそりと呟く。
「でもそれだと栄養足りなくない?」
「まぁ補助食品だから、主食にはならないだろうねぇ」
「やっぱ、こっちの方がいんじゃない?」
メリッサは哺乳瓶をぐいっと突き出した。
「ぶぶぶ、ぶぶぶぶ!」
「あ、嫌がってる」
これを取り上げないでくれと彼はゼリー片手に精いっぱい拒否したが、リドは少し考え答えを出した。
「じゃぁ……混合で」
「!?」
まだ数口分しか飲んでいないゼリー飲料をリドはスっと取り上げテーブルに置くと、問答無用で哺乳瓶を口の中へねじ込んだ。
「お、おぎゃああああああああああ!!」
天国から地獄へ落とされた気分だったと、後のアスターは語る。
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