第14話 農耕都市カナン

 ◇◇◇


 ……視界が、ゆっくり明るくなる。まぶたの裏で琥珀色がほどけ、頬を撫でる風が草の匂いを運んだ。


「おお〜い」


「お〜い、フィンー? お〜いってばー!」


 聴き慣れた間延び声。薄く目を開けると、見慣れた顔が逆光の縁で覗き込んでいた。


「あ、やっと起きた! フィンの寝坊助め。もう少しで蹴って起こすところだったんだから!」


 オレンジの髪、アーモンド形の瞳——人虎タイガリアンの少女、ラミーがいたずらっぽく笑う。尻尾の先がぱたぱた忙しい。


「ん……ああ。それ、前にやられた時けっこう痛かったから、もうやめてくれ」


「うそうそ、冗談だよ。そんな酷いこと、あたしがするはずないじゃん〜。……いつかやったっけ?」


 小首をかしげる。

 (——やった。けど、それは別の世界の彼女だ)

 胸の端がわずかに疼くが、意識を切り替えた。


 まず仕様の確認。視線でメニューに触れる——俺だけに見える半透明の数値がふっと浮く。状態欄に《転移酔い 0:05》。数字がみるみる減り、0:00で頭の重しがするりと外れた。右上には《ワールドクロック》、左下に《世界座標》。どちらも安定表示。ホットラインのアイコンも、きちんとある。


 身を起こし、周囲を見渡す。先ほどの転移先とは違う地平だ。座標が示すのは——中央大陸西方。風に揉まれる金色の穂、畦に縁取られた水面が日を砕いてきらめき、遠くの丘に白い煙が一本立つ。土は乾き、道には車輪の跡と蹄鉄の半月。どこかで犬が二声吠え、畑の案山子には古い赤布が結わえてある。


「それにしても、ここどの辺りだろうね〜。なんか牧歌的でさ」


 ラミーが尻尾をふにゃりと揺らす。毛並みが光を拾って、ゲームの物理演算よりずっと不規則で生々しい。


「ああ、そうだな」


 同じ“パートナー”を選んでいても転移門の行き先は固定じゃない——ゲーム時代の仕様どおり。前回は座標もクロックも非表示で見当がつかなかったが、今回は違う。

 念のため黒い靄の兆しとアナウンスに耳を澄ませる。静かだ。鳥の羽音と風の擦過だけ。


「さて、まずは何から——」


 ぐぅ、と素直な音。横を見ると、ラミーが少し頬を赤くして空を見上げている。耳が恥ずかしそうに伏せ気味だ。


「……とりあえず、近場の街を探してメシだな」


「それいいね! ちょうどあたしもそう思ってた!」


「近くの農家に聞こう。これだけ畑があるなら、集荷の街も近いはずだ」


 白い煙の立つ屋根を指さす。


「あの白い煙、家があるな」


「おお〜、幸先いい! これは美味しいお昼ご飯まで、あとちょっとってやつですな〜?」


 鼻歌まじりに歩きだすラミー。俺は無意識に周囲へ目を配る。(……本当に、何も覚えてないんだな)

 災厄の前触れはない。必要以上に硬くなる場面ではない、と判断して息を吐く。


「な〜に、難しい顔してんの〜?」


「いや、なんでもない。跳ねすぎだと腹減るぞ」


 視界が開けた野は見通しがいい。風に倒れた麦の向きが道の流れを示す。俺は不安をひとまず胸ポケットにしまい、ラミーの背を追った。


 ◇◇


 ——約4時間後。太陽は背中から右肩へとじわじわ回り、影が少し長くなる。


「ま、まだ着かないの〜? もうヘトヘト〜。こんなに遠いなんて聞いてないよぉ」


 出発から一時間ほどでラミーはへたり、今は俺の背におぶさっている。学園ダンジョン帰りの疲労が、地味に効いていたらしい。肩越しに聞こえる息が熱い。尻尾がときどき俺の腰をぽすぽす叩く。


「おぶられておいて、その言い草はないだろ」


「だって、あの農夫さんが『道なりに行けばすぐ大きな街が』って……」


「向こうの“すぐ”と俺たちの“すぐ”は違った。確かめなかった俺たちの責任だ。最悪、今日は野宿で乾パンだな」


「ええ〜〜! 野宿はやだぁ! 草むらの虫が顔を歩くのはもっとやだぁ!」


「じゃあ歩く。ペース上げないと、いつ着くか分からん」


「ふぇぇ〜〜ん……しくしく」


 道端のタンポポに似た黄花を蹴散らすように、風が渡る。小川を跨ぐたび、冷えた水音が耳を洗った。

 その時——


 ——ゴーン……ゴーン……


 遠くで鐘の音が響く。空気を押し広げる低音が腹に届く。


「あ、あれ! たぶんさっき聞いた“カナン”って街だよ!」


 ラミーの指差す先、丘の縁に石造りの塔が見えた。尖塔の上部に黒い枠——鐘楼だ。陽光に照らされた屋根の群れがその周りに段々畑みたいに広がっている。土埃と煮炊きの匂いが微かに漂ってくる。


「おそらくそうだ。時計塔があるって言ってた」


「へぇ、トケイ糖かぁ! なんでだろうね! なんだかとってもお腹が空いてきたよ!」


「……建物だ、食べ物じゃない。決まった時間に尖塔の上で鐘を鳴らして、この辺りの住民はそれを時刻の合図にしてる」


「ふーん。フィン、物知りだなぁ。学園の成績は、そこそこだったのにね! ——ぐぅ。……ああもう、いいから早く食べたい」


「子供か。——ほら、ゴールは見えてる。ここからは自分で歩け」


「はぁーい♪」


 背からひらりと飛び降り、縞の尾をピンと立てて駆けだすラミー。耳が風に押されて寝て、また立つ。


「おおーい、はやくーー!」


 点のように小さくなった背中が振り返って手を振る。俺は苦笑し、荷紐を握り直した。

 道幅は少し広がり、踏み固められた土に馬車の鉄輪が硬い音を残す。城壁はないが、外縁には背の高い柵と見張り小屋。畑から戻る農夫たちが背籠を揺らし、門前には屋台の骨組みが立ち始めている。


「やれやれ」


 それだけ元気があるなら、もう少し早く歩かせればよかったな——と心の中で肩をすくめつつ。

 ワールドクロックは昼下がりを指し、胃袋はきっちり主張を始める。まずは宿、その前に飯屋と水。災厄の気配は……ない。よし。


 俺たちはこうして、学園都市を発って初めての街、カナンへと無事に辿り着いた。

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