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 翌日、また私は紗良と、例のレコード屋を訪れていた。

 平日の昼間だった。朝食を摂ってから間があって、小腹が空いてくる頃だ。この時間を選んだのには、いくつかの理由があり、なにより一番大きかったのは、たまたま毎週のこの時間が、いつも暇だったことだった。

 他にも、時間を変えれば遭遇確率は変動する、老人はきっと平日の昼間のほうが暇だ、などと理由付けをしたのだけれど、肝心のレコード屋に、あの老人の姿は、またしてもなかった。

 やっぱり、マンダラバンドのアルバムが無い限り、彼は現れないのだろう。それだけが、逆光を浴びせているみたいに、輪郭としては浮かび上がっていた。

「いないわね」私は悔しさを漏らす。「なら、レコードの入荷状況を、ちゃんと把握してるってことかしら」

「なおさら店員さんに、訊いてみたほうが良いね」紗良は、レコードを片手でつまんで眺めながら言った。「いつも電話か何かで、その人も確認してるんじゃないかな。マンダラバンド、入ってますかって」

「そうよね……」私は頷く。首を回して、近くに適当な人影を探した。すぐに見つかった。「紗良、あの人に話しかけてみて」

 私は、そのあたりでレコードの整理をしていた、中年の男性に指を向けた。エプロンを掛けていることから、ここの店員であることは、歴然としていた。

「なんで私が?」

「私、人と話すの苦手なのよ」

「ああ、奈津乃と最初に話したときも、そんな感じだったね」

「いいから、そんな話は……」

 紗良は、何の躊躇いもなく店員に向かっていった。スーパーで必需品を買うときくらい、迷いのない歩き方だ、と思った。咳払いをしてから、人に好かれる笑顔を作って、彼女はその男性に声をかけた。

「すみません、ここにマンダラバンドのセカンド・アルバムを、いつも買いに来てる人って、ご存知ですか」

 店員は、不思議そうな顔ひとつしないで「ああ、あの人か」と存在すら夢のように霞がかっていた、例の老人のことを、親しげに呟いてから、彼は頭をかいた。

「まあ、僕はそんなに詳しくないけど、ここに来てる人の中では、有名かなあ。君は、あの人の知り合い?」

「いえ、気になっただけです」

「そうか……変に思うよね。いっつもおんなじレコードを買っていくんだよね。なんでかわかんないけど……」店員は、片手間にレコードを整理しはじめた。ジャズのコーナーで、オスカー・ピーターソンの顔が、隙間から見えた。「僕、プログレはあんまり詳しくないからなあ、あれが、どれくらい凄いアルバムなのかわからなかったけど。本業やってた人には、面白く聞こえるのかな?」

「本業?」

 紗良は、これみよがしに首を傾げた。

「あの人、バンドをやってたんだよ。アマチュアじゃなくて、ちゃんとデビューもしてたみたいだよ。どんな音楽かはわからないし、そもそもあまり有名じゃないからあれだけど」

「へえ……そうだったんですか」

 ちゃんと訊けば出てくるものだ、と私は心のなかで膝を打った。

 あの老人がバンドをやっていたというのは、もちろん今までに耳にしたこともない。言ってしまえばそういう風貌を、現在の彼から感じ取ることは出来なかったが、人は見かけによらないものだ、と私は実感した。

「似た世代だし、マンダラバンドに傾倒するのも、わからないではないかな」店員はプログレコーナーに誰もいないことを、横目で確かめてから口にした。「でもやっぱり、買い過ぎだよね。レコードって言っても、そうそう擦り切れて聴けなくなるわけでもないんだけどね……」

 店員は、何処か迷惑そうに、レコードを整えながら、ここにいないあの謎の老人のことを、思い浮かべてため息を吐いていた。



 結局、また授業に少しも興味もわかないまま、午後の時間を、私は雑に潰した。

 部室に向かいながら、私はその間も、老人のことを頭でぐるぐると、スープを混ぜるみたいにして、ずっと考えて続けていた。老人がバンドをやっていた。老人はもしかするとプログレバンドでもやっていたのか。その世代だ。プロデビューもしていたらしい。なにか、これでわかるかもしれない。

 そこから思考は、一歩も進まない。

 いろいろな部室が割り当てられている別棟の、古臭くて冷たい長い階段を登りきって、ジャズ研究部の部室に足を踏み入れると、中でただ一人、くつろいでいた中兼部長が、私の顔を見てわざとらしいくらいに、不機嫌になった。

 なんで、こいつと鉢合わせるんだ。私は、頭を抱えるような心境になった。

 話しかけられるのも嫌で、特に挨拶もかわさないで、私はさっさと椅子に座った。ギターを取り出してチューニングを始めようとすると、座ったままの中兼が嫌がらせみたいに、私に声をかけてきた。舌打ちを漏らしてしまいそうにもなったが、我慢した。

「奈津乃、最近うろついてるでしょ」

「うろついてるって? 変なことしてないわ」顔をギターのペグから逸らさないで、私は適当に答えた。

「練習、ちゃんとやってる?」

「してるわ。あんたに心配されたくない」

 その言葉を聞いて、少しだけ楽しそうに中兼は、トランペットを手にして立ち上がった。それは、彼女の担当楽器だった。こんな派手な女が、マイルス・デイヴィスにでも憧れたかのような、薄暗いソロをいつも吹いているのを、私は口惜しく思っていた。

「じゃあ、演奏してみなさいよ。ジャムセッション、得意でしょ?」

 微笑む中兼に対して、私は味のしないガムを、ずっと噛み続けている時みたいな顔を向けた。

「なんでよ」

「スリーコードで良いわよね。ソロは、私から最初に取ってあげる」

「誰もやるなんて……」

 そう言って、彼女は私の話も聞かないで、トランペットを吹き始めた。

 彼女の手元、力を込めるとへし折れそうな金色の筒から、雲でも切り裂けるくらいの鋭い音が飛び出して来た。

 トランペットが、一人で音を出しているだけなのに、それだけで何処か鑑賞に耐えうる音楽が作られている。

 その圧力に負けて、私は伴奏に回った。

 伴奏というのは建前で、本当は邪魔をしているに過ぎないのだろうと実感すると、途端に恥ずかしくなった。

 なんでこんなことを。演奏しながら、何度も考えた。中兼は確かに上手いから、裸で立っているような、いたたまれない気分になるってことは、入部当初から理解していた。

 彼女のソロを、聞いている余裕なんてなかった。

 三十六小節が過ぎて、順番が回ってくる。

 自分がソロを取るときも、彼女の伴奏が、私を脅しているみたいだった。

 死にたいな、と本気で思った。覚えているフレーズと、手癖と、あとはせれな先生がよく鳴らす音列を、とにかく頭で考える前に出してつなげた。

 ただただそうしているうちに、中兼はいつの間にか、演奏を止めていた。

「あんた、やっぱりほんとに上手いわね」

 少しだけ感心するように、中兼由麻は私のギターを見ながら、嘘でもなさそうな言葉を漏らした。

「だから言ったでしょ。サボってないって」軽口を叩くことで、私は私を守った。

「でも三回も単純なミスが有ったわ。そんなに上手いのに、サボってたら意味ないわよ」

 中兼は、それから私なんてもうどうでも良くなったのか、窓に向かって、一人で基礎練習を繰り返すだけの人間になった。テープでも流しているみたいに、正確だった。

 今、一緒にセッションをしたという事実なんて、もう空気の中に、吐いた息と一緒になって溶けてしまったんじゃないか。

 セッションを通じて、相手と心が通うなんて話は、嘘だ。

 隠していた彼女に対する殺意が、掘り起こされた気がした。



「次の、公開ジャムセッションの内容次第で、今度の外部演奏会の、出演順を決めるわ」

 顧問も知らないような、つまらなさそうなジャズ研の歴史を、集められた部員に向かって一人で語っている時に、中兼はそんな大事なことを、唐突に発表した。

「ダメダメな内容だったら、外部の出演自体を見送ってもらうわ。その穴ができたことによる出演時間の空白は、他のバンドに平等に分配されます」

 適度な歴史を持つL女子大学ジャズ研究部は、月に一度、決まった日にちに公開ジャムセッションを、外の広場で行うという決まりに縛られていた。顔も名前も知らない、もしかすればもう死んでいるのかもしれないほどの、遠い先輩たちが始めた催しなのだという。最初は、騒音による苦情が絶えなかったが、演奏技術の向上とともに、地域の人間も時々見に来る程度の、世間に理解された出し物として、いつの間にか認識されていた。

 その成果もあって、そこから数年後には、O駅近辺のジャズが流れる居酒屋「ラフアンドタンブル」にて、演奏をさせられるという催しが開かれるようになった。オーナーが、好きで公開ジャムセッションを聴きに来ており、向こうからの直々の依頼だと、伝えられていた。

 これも、地域の人間には好評で、ほぼ毎年、夏休みの間に開催されていた。去年は私も出たのだけれど、妙なプレッシャーの中で演奏すること自体に耐えかねて、胃を痛めてしまった。演奏そのものが、どう評価されたのかは、もはや私の知るところではなかった。

 そんな伝統があるわけだから、当然ここ部員としては、この催しに熱意を燃やしている者も多いのだけれど、中兼のそんな強権的とも言える発表に、文句が出るのは当然だった。

「部長、全員が出られるんじゃないんですか?」おそらく二年の女、つまり後輩が手を上げて行儀よく意見を言う。「去年くらいまでは二年生以上が全員で、一年生が見学だったじゃないですか」

「あれは、辞めていった四年の連中が、勝手に決めてただけ」中兼はあくまで冷徹に、腕を組みながら答えた。「あいつらには、精査する能力がないから。従来は、学年は関係なく、上手いバンドが五組ほどしか出られなかったわ」

「そんなの、昔の話じゃないんですか」

「五年ほど前まではそうよ。ただ、これだと一年生にはほとんどチャンスがないから、上手かったら全員が出られるように、すでに顧問にも交渉済みよ。逆に、聞くに堪えない演奏なら、取りやめるのも、部としての適切な判断よ」

「上手い下手なんて、誰が判断するんですか」

「私と、顧問が責任を持って判断するわ」中兼は、よほど自信があるのか、胸を張る。「いい? 街の人に貢献できるのは、演奏技術だけなのよ。去年の上級生の奴らが、どれだけ怠けて街の人の信用を失ったか、ひとつひとつ発表していたらキリが無くなってしまうわ。去年のままだったら、外部演奏の許可も下りないところだったんだから」

 私は思い出す。去年までの三年、四年のことを。私としては別にそのままでも良かった。まともに練習なんてしないで、ずっとサボっていてくれるから、少しも驚異に映らなかったからだった。でも、その程度の演奏しか出来ないのに、大きな態度で威張っているという点では、気持ちの悪い奴らだとは思っていた。

 でも、私にはどちらかといえば、中兼が仕切り始めてからの方が、息がしづらくなっていた。

 街の人なんて、どうでもいい。

 ギターなんて、好きじゃない。

 考えるのは、マンダラバンドを買い占める、あの老人のこと。

「奈津乃、聞いてるの?」

 急に、中兼が私に視線を向けた。

「……聞いてるわよ」なんとか答える私。

「あなたも、ちゃんと練習しなさい」

「……言われるまでもないわ」



 練習の間は、全てのバンドに、ずっと中兼の監修が入った。楽しいとも思っていないバンド練習が、本当にただ苦痛なだけの時間になって、私の心はますますレコード屋に向いていた。

 防音室には、一つのバンドしか入れないので、他のバンドが使用している間は、自主練と雑談で時間を潰していた。

 他の部員の話を聞きながら、私は黙々と練習をした。

 ――ねえ、あの老人って、バンドをやっていたんだってさ。

 ――へえ、あ、プログレってやつを聞いてみたよ。意味はわかんなかったな。

 ――他のレコードは全然買わないんだって。マンダラバンドってやつだけ。

 ――なによそれ。

 ――店員も迷惑そうだったって聞いたよ。

 紗良が、雑談のネタに話したのか、私たちが集めた老人に関する情報が、こいつらの耳にも入っていた。それを咎める正義は、私にはなかった。だけど、誰かが真相に到達してしまう前に、私が全ての謎を解かないといけない、と思っていた。

 大丈夫だ、こいつらは、ただ暇つぶしの材料にしているだけ。本気で謎に迫ろうと考えているような脳みそなんて、持ち合わせているわけがない。

 そのはずだ、きっと……。

 けれど、そんな話を聞いた私は、焦った。あいつらも、老人がバンドをやっていた、という核心に迫った情報を握っているのだから、少し手を伸ばせば、私なんて取り残していってしまうのではないか。

 部活が終わると、足はまっすぐレコード屋に向かっていた。紗良に声をかけられたけれど、今は彼女にも、この謎に関わって欲しいとすら思えなくなっていた。

 ギターが重い。

 なんでこんな重いギターを、毎日私は背負っているのか、わからない。

 走るようにしながら到着したレコード屋には、驚くべきことに、あの老人がいた。

 プログレッシブ・ロックのコーナーに、ただ一人。前と同じ格好で、腰をかがめて、楽しそうな表情なんて、微塵も浮かべないで、そこにいる。なにか強迫に駆られたような勢いで、並べられていたマンダラバンドのレコードを掴むと、逃げるようにしてレジへ向かった。

 まただ。

 彼が、息切れを起こしている私の横を、意にも介さないで通り過ぎた。老人が肩で切った風からは、畳臭いような、生の人間の匂いがした。

 私は彼が会計をする様子を、鼠を観察するみたいに、じっと見つめていた。彼の風貌と、彼について知り得た情報を、服のサイズを確かめるときのように、慎重に照らし合わせてみても、だけど何もおかしいところはない。

 袋にレコードを入れてもらって、早々に立ち去る老人。

 そこに、他の客がぶつかる。

 抱えていたレコードが、強く床に落ちた。

「おっと、すみません」

「いえ……」

 老人は、あんなに買い続けているほど、思い入れがあるレコードのはずなのに、床に落ちたことなんて、少しだって気にしないで、慌てる様子も見せずに拾い上げると、そそくさと店から消えた。

 残された私は、どこか気持ちの悪い虫を見た時くらいに、顔をしかめたが、それ以上に他人に対する優越を、胸に強く感じた。

 今、私しか知らない老人の姿を知った。



 ある日の、授業中のことだった。

 授業開始のぎりぎりになって、入室して来た中兼が、何を考えているのか私の隣に座ってきたので、「なによ」と私は睨みつけるようにして、彼女で小声で悪態をついた。それで、中兼が何処か別の席へ移ってくれるだろう、と思っていたのだけれど、彼女は私に用があるらしく、ちょっと耳を貸せと囁いた。

 彼女の口から告げられた言葉に、私は目を丸くした。

「は? なんで」

 授業が始まったというのに、大きめの声を出してしまったが、教員には聞こえていないらしく、それを確かめると、私は胸をなでおろした。

 中兼が告げた言葉。

 ――レコード屋から、苦情が来ている。

「あんた、練習もサボって、ずっと老人のこと調べてたのね」彼女は、呆れるようにして、自分のノートと文房具を用意しながら言った。「そんな馬鹿なこと、いつまでも気にしてるからよ」

「馬鹿って……いや、中兼だって気になるでしょ」

「ええ、気になるわ。わかったら教えてくれる?」なんて、目も合わせないで彼女が呟いた。「でも社会の迷惑になるのは、辞めてよね」

「……苦情って、どういうの?」

 私は、身体を小さくして小声で尋ねた。座り心地の悪い椅子なので、臀部が痛くなっているのが、急に気になった。

 苦情を貰うほど、なにか文句を言われるようなことを、やった覚えがなかった。

「あんた、あそこの辺りをうろうろしてたでしょ。店員の人が、何回か見てたみたいなんだけど、店員が言うには、気持ち悪いからやめてくれって。まあ、あんたがあそこの客層と比べると、変に目立つっていうのもあると思うけどさ……」

 白板に、フェルトペンで文字が書かれる音だけが、耳に届いた。小動物を、捻り潰しているときの悲鳴に、似ているような気がした。一体、何の授業だったのかさえ、私はその瞬間、忘れてしまっていた。

 自分の身体を、思い浮かべる。ちゃんとしていたはずだ。毎朝セットして、気を使って服を選んで、対人関係は悪いけれど、人に不快感を与えるような、汚らしい外見ではないはずだ。周りの人間と比べたって、悪目立ちをするような装いではない。

 あの店員の顔。あいつが、私を気持ち悪いと? 奇妙な老人に比べると、店に対しては、なにか煮え切らない行為をしたことは、一度として無いはずだった。

 なんで、私を馬鹿にする。

「……気持ち悪いって、こんな美人に向かって失礼ね」

 中兼は、私の言った精一杯の悪態に、笑った。

「あはは。でもね、その苦情が学校に入ってたから、ちょっと問題になってるわ。ギター背負った女だってのもバレてる。大学なんて、このあたりじゃうちしか無いでしょ。そうなると、うちのジャズ研の人間か、軽音楽部のやつらしかいないわけよ。だからあんたも、後で顧問から怒られると思うけど、しばらくはじっとしていなさいよ。外部演奏会がなくなったら、あんただって困るでしょ」

 苦情。

 その二文字が、大きな石になって胃袋に詰められたみたいに、身体が重たくなった。小学校の時に、何か重大なミスをした日のことを、私は何処か思い出していた。

 その時と、全く同じだった。

「それ、本当なの? 中兼、嘘ついてない?」

「嘘なんかついてどうすんのよ」彼女はノートに妙に綺麗な字で、白板を正確に書き写していた。「いい機会じゃない。何をムキになってるのか知らないけど、あの老人のことは忘れて、ちゃんと練習でもしなさいよ」

 それきり、中兼は授業に耳を傾けた。

 私は、さらに居心地が悪くなった。

 私が、ちゃんと出来ないから、店にも迷惑をかけてしまったのか。私のせいなのか。老人も、嫌だと思っているの違いない。自分を付け回す変な女なんて、心の底から気持ち悪いに決まっている。

 私は、もう辞めてしまおうかとその時は本気で考えた。

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