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 私の家は、少しだけ不便なところにあった。

 O市の中心に位置するO駅は、生活という観点に於いては、大抵の目的が叶うという、栄えているのか行き詰まっているのか、よくわからないような場所だが、私の家はその隣の駅だった。一駅違うというだけで、本当になにもないとしか言いようがないくらいに、つまらない住み処だった。

 私の通っているL女子大学もO駅にあった。改札を出て、坂の上の方に向かってひたすら登っていけば、嫌でもいずれたどり着く。

 今日も授業がある。私は、決して早いわけでもない時間に目を覚まして、朝食も食べないで早々に、鏡に全身を写して身支度をした。考えるのが面倒なので、いつも同じ髪型にする。ツーサイドアップだ。切るのが面倒という理由で長いので、まあ髪型の自由はそれなりに利いたが、私はこれが気に入っていた。子供っぽいと陰口を叩かれているのかもしれないが、部活の連中みたいに、気取って成人らしく整えるのも嫌だった。

 二十歳を過ぎて、それほど時間も経っていないのに、私は他の人間よりも若く見られたかった。服装だって、自分の容姿に合う物を選んでいるつもりだった。だから、私はおかしくなんかない。そういつも、鏡に向かって十回は唱えていた。

 重たいギターを背負って、もう履き慣れてしまった靴に足を通して、母親とは顔も合わせないようにして、さっさと家を出た。住宅街を突っ切って、駅へ向かう途中にある最寄りのコンビニで朝食を買い、駅のホームで食べるのが私の日課だった。

 隣の駅なので、電車に乗ってしまえばO駅へは五分もかからなかった。お金がないときは、歩いて向かうこともあるのだけれど、嫌がらせのような悪路が続いているので、距離以上の負荷が足に掛かるのを、覚悟しなければならなかった。

 O駅自体は、広くもない普通の駅だった。雨風は当然凌げるとしても、改札を抜けるか汚いトイレに行くかくらいしか、することがなかった。その代わり、駅の近くにはスーパーを始めとして、暇を潰せる場所がそれなりに揃っていた。本屋だって楽器屋だって、ここには存在する。

 せれな先生の家は、ここから歩いて数分のところにあった。今日は用事すらないから、立ち寄ることはないのだけれど、それ自体に少しだけ、ねっとりとした寂しさを感じた。レッスンがない日は、他人に置いていかれるような気がした。

 せれな先生の家へ向かう道を、横目で眺めながら大学へ向かった。上り坂が、年々嫌になってきているが、家にいるよりはマシだ、と自分に言い聞かせていた。バスを使うほど、財布に余裕もない。

 別に、大した大学でもない。普通に勉強をしていれば、普通に入れるような学校だった。本当は、もう少し頭のいい大学へ行きたかったのだけれど、私の実力では無理だ、とその時の担任に告げられた。

 泣きたくなるような虚しさを何処か覚えながら、行きたくもない大学に、私は毎日、重いギターを背負って通っていた。



 今日の授業を終えて、部室に顔を出した時には、すでに防音室を他のバンドに使われていた。

 部室は、単なる使っていない講義室の一つを、間借りさせてもらっているに過ぎないので、授業用の机と椅子が、いくつか並んだままだった。使わない分は、隅にまとめて、打ち捨てられたように積み上げられていた。何年前からこうなっているのか、私にはわからなかった。

 それなりに、歴史と実力があるサークルだからだろうか。どう見ても後から付けられた防音室が、教室の半分を占領していた。そのくらいの予算は、学校から掛けてもらえているらしい。防音室の使用は交代制だが、ここで気兼ねなくバンド練習が出来るという環境自体は、特筆すべきものだった。もっとも、隣町の貸しスタジオに行くことのほうが、多いのだけれど。

 机に腰掛けている数人の部員(名前も忘れてしまった)を尻目に、私は椅子に座って、肩からギターを下ろした。部員たちは楽器の練習もしないで、ひたすらどうでも良いような、暇潰しにしかすぎないことを、ただただ喋っていた。

 私は舌打ちをし、彼女たちから目をそらして、ギターを抱えてチューニングを始めた。こんな奴らより、私はもっと練習しないといけない。喋っている暇なんて無い。せいぜい、そうやって時間を潰してくれている方が、私としては好都合だった。

 そこへ扉を開けて、姿を見せる人物があった。

「おつかれー」

 間延びしているが、はきはきとした発音で、そう挨拶をする女。

 櫛淵紗良。私のバンドの、オルガン奏者だった。

 明るい性格で、顔が広い。他のバンドとの掛け持ちをいくつかしているが、本人は私の方をメインだと思ってくれているらしい。その真意はわからないし、怖くて尋ねたこともなかった。ちなみに他のバンドでは、ベースを演奏していた。

「奈津乃、調子どう?」

 笑顔で、紗良は私に話しかけてくれる。大人っぽく整理されたセミロングの髪が、よく似合っていた。スタイルもほど良く、私が消去法と髪型を変えないという前提でコーディネートを選んでいるのに対して、この女は、その時の思いつきで何でも着てくるような印象があった。

「いまいち良くないわ。帰ろうかしら」

「そんな隅っこにいないで、真ん中にでも来なよ」

「いいわよ。誰に聞かせるレベルでもないし」

「あはは。じゃあ、あとで一緒に練習しようか」

 と紗良は、さっきから喋っている部員たちと、軽い挨拶を交わした。その瞬間、嫉妬みたいな感情を覚えないでもなかったが、二度ほど深呼吸をすれば落ち着いた。

 最初から私と紗良は、彼女が話しかけてきたのがきっかけで、仲良くなったに過ぎない。友人になろうという確かめも、バンドを組もうという提案も、当然彼女からだった。私はそれに対して、断るすべを持っていなかった。とにかく、言われるがままに頷いたのをずっと覚えていた。彼女の方は、なんで私なんかが気に入って一緒にいるのか、未だにわからなかった。

 ギターを握る。

 紗良は、部員たちとくだらない雑談を繰り広げていたが、しばらくするとその話題は、私が今最も興味がある事柄について飛んだ。

「そういえば、あのレコード屋に出る老人の話、ってどうなったの?」

「さあ。あれから見たって人もいないけど、本当にいるの?」

「決まったレコードがそんな頻繁に入荷されるもんでもないよ。でも、実際に見たって、友だちが言ってたよ」

「へえ。私も調べてみようかな」

 お前たちに、そんな謎が解けるものか。私は頭の中で、そこの女の耳元でそう叫ぶ様子を、十回くらい想像して笑った。

 紗良はそんな私に、話の輪から抜けもしないでまた話しかけてきた。

「ねえ、奈津乃は知ってる? レコード屋に出る変わった老人のこと」

「知ってるわ」

 わざと視線を反対に向ける。窓ガラス越しに、廊下を見つめて私は返事をした。ギターを弾く手も止めなかった。

「そんなの、何を買おうが、人の勝手よ」

「まあそうだけどさ。何考えてるんだろうね」

「何枚も欲しかったのよ。それだけ思い入れがあるんだわ」

 廊下に、見覚えのある人影が現れた。

 どすどすと、神経質な足音を立てながら、姿を見せたその女の顔が視界に入ってくると、私は心臓をヤスリでこすられたような気分になった。

 その人物は、少し乱暴に扉を開けた。

「あんたたち、外まで話し声が聞こえていたわよ」

 急に現れた人物に、そうたしなめられた部員たちは、しぶしぶ自分たちの楽器を取り出して、これみよがしに基礎練習を始めた。

 現れた女は、私の目の前を通った。

 彼女が、ジャズ研究部部長の、中兼由麻だった。

 私は彼女に目をつけられないように、身を丸くしてギターを弾き続けた。それなのに中兼は私を見つけて、わざわざ挨拶を口にした。

「奈津乃はちゃんとやってるのね」

 少しもそう思っていなさそうな顔を向ける中兼を、私は一秒だって見もしなかった。

 毎朝、どのくらい時間がかかるのかわからないような、くるくると巻いた髪。センスがおかしいのか、何処か中世みたいな服。それでいて、ほっそりとした手足。今まで、私の知り合いの中に、こんな悪目立ちする人間はいなかった。そのうえで、部長として変な使命感に燃えているのを、私は疎ましく思っていた。現に中兼は、去年にやる気の全く無かった現四年生を、あらゆる手を使って、一人残らずことごとくを辞めさせた。なので、現在のジャズ研究部は、私達三年が最高学年だった。そのことについて中兼は、平然とした顔をしながら「あんな奴らはL女子大の癌」だと説明していた。

 それ以来、彼女に逆らう人間を、部内で見たことはない。

「サボらないでね。期待してるんだから」

「…………よく言うわよ」

 そう私がつぶやいたのを、彼女は聞こえなかったのか無視したのか、それきり興味を失ったかのように、防音室の方に消えた。



 惰性的な部活動が終わって、帰路につきながら私はスマートフォンを開き、せれな先生にメッセージを送った。

『今日レッスン無いですけど、友達を連れて、遊びに行ってもいいですか?』

『いいわよ 何人?』返事が早かった。先生も暇なのだろうか。

『私と、もうひとりです』

『オッケー お菓子を用意しておきます』

『あとすみません、マンダラバンドのセカンド・アルバムをレコードで聞いてみたいんですけど』

『いいわよ。探しとく』

 その様子を、紗良が見ていた。彼女が、先生の家に連れて行くもうひとりだった。

「奈津乃も、やっぱり気になってんじゃん」

 にやにやしながら彼女は、私の背中をつついた。あの老人のことを調べるのに、せれな先生の所で、レコードを聞かせて貰おうかなと彼女に言ってみると、じゃあ私も着いていく、と半ば強引に決められた。

 帰り道の下り坂は、膝が痛い。しかし、バスを使うとせれな先生の家を少し通り過ぎてしまうので、やめた。

「……まあ、気にはなるわよ」

「なんで? 気になってるって、みんなに知られたくないの?」

「ええ……」私は想像をして、勝手に寒気を感じた。「ミーハーみたいに思われたくないもの」

「でも、やっぱりレコードを聞いてみないと、わからないよね」紗良は上を向きながら言う。「奈津乃、CDは持ってるんでしょ」

「うん。でも、レコードを先生が持ってるって言ってたから、聞いてみようかなって。もしかしたら、CDとは違うんじゃないかしら。CDを聞いた限りじゃ、そんな何度も買うくらい、凄いアルバムだっていう気はしなかったけど」

 下り坂を、ひたすら進んだ。あたりも薄暗い。部室で片付けをしていた、まだ残っている連中を放って出てきたっていうのに、もうこんな時間か。中兼の与える変なプレッシャーのせいで、どこか無駄に練習をしすぎたような感覚があった。指に痛みすらあった。

 せれな先生の家に着いたのは、学校を出て十分後くらいだった。マンションのエントランスで、彼女の部屋の番号を、機械に打ち込んで呼び出すと、すぐに応答があって、入り口のロックが解除された。ドアをくぐって、廊下を突き進むと、せれな先生の部屋はすぐそこだった。

 紗良は、先生とは初対面だったが、先生も明るくて調子の良い彼女を、気に入ったようだった。なるべくなら、会わせたくはなかったのだけれど、断って紗良に変な顔をされるのも嫌だった。

 リビングに通されると、すでにレコードとコーヒーと、買ってきたお菓子が用意されていた。私達は腰掛けて、それらを遠慮がちに食べた。

「改めて聞くと、いいアルバムだったわ」と先生が踊りそうな勢いで言う。「奈津乃ちゃんが来るまで聴いてたんだけど」

「でも、何枚も買うほどですか?」

「それは、人によるわねえ」

 先生はプレイヤーにセットしてあるレコードに、針を慎重に乗せた。ぶつぶつと、ホコリを踏み潰す音が流れ始めた。そういえば、ちゃんとした音響でこのアルバムを聞いたことはない。レコードという最高環境で聴くと、もしかすれば、人生が変わるくらいの音楽に聞こえるのかもしれない、という期待が私の胸の何処かにあった。

 ロックに分類される音楽とは、到底思えない始まりに直面して、紗良は面食らっていた。

「これなに? クラシックだったの?」

「プログレッシブ・ロックよ」私が答えた。

「いっつもこんなのを聴いてるの?」

「プログレのことなら、私が説明するわよ、紗良ちゃん」と言って、せれな先生が嬉しそうに講釈を垂れ始めた。

 先生の話を要約する。

 六十年代後半にイギリスで生まれた、ロックの派生ジャンルがプログレッシブ・ロックだった。ロックが、サイケデリックなどを通過して、ジャズやクラシックを組み合わせて、アート方面に振り切った結果に生まれた音楽だった。特徴としては、長くて、壮大で、執念すら感じるくらい技巧的だった。ファンの大半が、年齢を重ねた男性で、私のような女子大生が、間違っても好む音楽ではない。

 プログレのアルバムは、大半が組曲となっており、全ての曲がつながっている。このマンダラバンドのセカンド・アルバムにしてもそうだった。曲の切れ目が全くわからないので、今が何曲目なのか、数えるのを途中でやめた。

 しかし、こうして聞いてみると、なるほど、死ぬ前に聞いてみても良いのかもしれないと思うくらいには、いいアルバムだった。なにか、禊ぎを行ったときの心境に近かった。

 溺愛するのも頷ける。けれど、これを何枚も買い続けるという意味は、これだけきちんと聞いてみたというのに、まるでわからなかった。

「初めて聞いたよ、プログレなんて」紗良が、よくわからないという感想を、表情に隠しきれないで、口を開いた。「こういう音楽なんだ。なんか、変わってるね」

「これがプログレの末期に発売されたなんて、感動すら覚えるわ」と先生。「この時期はパンクムーブメントが起こって、こういう音楽は全部古臭くてクソみたいなものみたいな扱いになるんだけど……」

「先生」私はコーヒーを飲み干してから訊いた。「アルバムのジャケットって、見せてもらっていいですか?」

「ええ。良いわよ。欠けてる冊子とかは無いはずだから」

 と先生は、アルバムジャケットを椅子に座りながら、体勢を変えつつ手を伸ばして取った。そして大事そうに、私に手渡した。

 想像よりもずっしりとした重みがあった。真っ黒い背景に、手と宝石だか花だかみたいな絵が目立っている。それを指でなぞる。紙の手触り。これがいつの盤なのかは知らないが、痛みが少なく、比較的綺麗に保存されていた。せれな先生の性格からは、はっきり言って想像できないほど状態が良かった。

 ジャケットを開いてみる。作りは、CDと変わらない。

 中には、三つ折りの紙。歌詞カードかと思ったが、違う。よく見ると、これは小説だった。挿絵も添えられていた。曲の内容も、おそらくこれに沿っているのだろう。英語で書かれており、なおかつ私が読めないから、本当にそうなのかはわからなかったけれど。

 もう一つ冊子が入っており、よく読んでみると、この小説を日本語訳したものだった。

 もちろん、ふたつともCD盤にも入っていたが、レコードの大きなサイズで見るとやっぱり迫力も印象も、まったく違って見えた。

「ごちゃごちゃしてるから、聴くときに邪魔だったりするのよね」とせれな先生が口にした。「まあ世の中には、もっと変なアルバムもあるんだけど。バンコのファーストとか見たい? 持ってきてあげるわよ。形がまずおかしくて」

「へえ。ちょっと気になる」

 紗良とせれな先生が、向こうの部屋に消えた後も、私はじっと訳された小説を読んでいたが、そうしているうちに、段々と耐え難い眠気に襲われ始めていた。



 遅い時間になった、という理由で、せれな先生の家を後にして、私と紗良は駅のホームで電車を待っていた。彼女とは、反対方向の路線に乗らないといけないから、ここで飽きるまで話すのも、そう悪いものでもなかった。

 手持ち無沙汰に、あの老人の話題を私が出した。紗良は、意外なほど淡白な反応だった。

「さあ。何考えてるのか、私にはわからないな」

「私に気になるかどうか訊いたくせに、紗良は気にならないの?」私はギターを肩から下ろして、ベンチに腰掛けてから、そのギターを両膝で挟んだ。「気になるから、今日先生の家に着いてきたのかと思ってたけど」

「老人については、みんなに話を合わせただけだよ」平然と、紗良は言った。

 紗良のそういう社交的な部分が、時々、疎ましく思う時があった。

「そのマンダラバンドっていうのが、どんな曲なのかなって思っただけ。今日までプログレのプの字も知らなかったよ。老人の謎については……私にとっては、実際どうでもいいかな。他人には、わからないんじゃないかな。でも、今日は良いもの聴かせてもらっちゃったな。自分じゃ、プログレって聴かないと思う」

「……プログレなんて、私がいくらでも教えてあげるわよ」

「奈津乃は、例の老人について、目星はついてる?」紗良は、手に持っていた缶コーヒーを飲んだ。さっき、せれな先生の家で二杯ほど飲んだばかりだというのに、そんなことを微塵も気にしていない様子だった。

「さあ……。情報が足りないわ。老人が、よほどの思い入れがあるという確証を得られれば、話は変わるんだけど……。それでも、マンダラバンドを溺愛してることに間違いは無いんじゃないかしら」

「私はそうは思わないな」紗良は微笑んでから、私を突き刺すように言った。「老人のすることに、合理的な理由がない場合があるじゃない? ボケてるとか。真面目に考えるだけしょうがないと思うけど」

「それはそうだけど……」私は歯ぎしりをする。「でも、ボケてるならボケてるっていう証拠を集めたいわ。じゃないと、溜飲が下がらない」

「奈津乃」

「なによ」

「焦ってる?」

 紗良はコーヒーを、地面にことりと置いた。

「……焦ってないわ」私は、倒れそうになったギターを抱きかかえながら、呟くように口にした。

 ホームに電車が入ってくる。人が、吸った後のゴミみたいに吐き出されていく。巨大な鉄の塊が、動かされる際に生じるほのかな熱気を、私は額や頬で感じた。

「ふうん。それにしてもさ」猫みたいに、背伸びをする紗良。「奈津乃さんはジャズ研なのに、プログレばっかり聴いてるの?」

「ジャズだって聴いてるわよ。プログレもカンタベリー系なら、どっちかっていうとジャズに近いわ。紗良は、まっとうなジャズをちゃんと聴いてるの?」

「まあ、普通にジャズ目的でジャズ研に入ったわけだし、そりゃね。でも、うちの部って、フュージョン好きばっかりだから、なんか違うなって、思わないでもないかな。そこまで話も合わないしさ」

「やっぱり、あいつらってほんと下らないわね」

「じゃあ、今度ジャズっぽいプログレも教えてよ、奈津乃。今日聞いたのは、たぶんクラシック寄りのやつでしょ」

「良いわよ。おすすめを考えておいてあげる」

 私は立ち上がって、電車に乗り込んで、入り口で体ごと、ホームに残した紗良の方を向いた。

「じゃあ私は、フュージョンのおすすめを考えとくよ」紗良は、手を振っていた。「あんまり聴いたことないでしょ。私も知らなかったけど、結構みんなに教えてもらったんだ」

「……良いわよ、別に」

「まあまあ、そう言わずに」

 ドアが閉まる。

 一瞬で、私は孤独になった。

 帰りたくもない自宅へ向かう電車が、ゆっくりと動き出すにつれて、手を振っている紗良が、背景に塗りつぶされるみたいに、徐々に小さくなっていった。

「…………同じもの聞いてると、あいつらの顔が思い浮かぶのよ」

 私は、ガラスに映った自分の顔を見ながら、そう囁いた。



「何をしていたんだ」

 翌日、朝一番の授業中のことだった。

 私の目の前で、教員が、わざとらしく目くじらを立てている。

 理由は明らかだった。私が、先週から出せと言われていたレポートを、一文字たりともやっていなかったからだった。忘れていたわけではなかった。けれど、老人の謎を考えているうちに、どんどん興味が薄れていき、気がついたら、今日になっていた。

 そんなことを正直に説明しても、許してもらえそうな雰囲気でもなかった。男性の教員で、体格もよく、話しているだけで萎縮させられるので、私は彼のことが嫌いだった。多分、彼も私が嫌いだと思う。

「どうしてやってこないんだ。今日には出せといただろう」

 教員の声が、教室中に、音響実験みたいに響いていた。

「で、でも…………それは…………」焦っていると、言葉が出なくなってしまう。

「なんだ、君はいつも、はっきりしないな」

「………………すみません」

「すみませんは聞いたから、理由を聞かせてよ」

 講義室は、広くはない。それなのに、ここが一杯になるくらいの生徒が密集していた。ざっと数えると、生徒の数は二十人ほどだった。中には、中兼部長も彼女の知人たちもいる。私の味方だけが、ここにいない。

 私をバカにする全員が、私を見つめている。

 顔を背けたくなった。気持ちの悪い汗が出る。そして、手がしびれるようだった。

「………………さぼり、です」

「なにしてたんだ」

「いえ、それは………………あそび、ですけど」

「君と話していると、時間の浪費を感じるんだよな」

「すみません…………」

「すみませんはわかったって言ってるだろう」

 説教が終わって、私はずっとその授業時間、どうしてレポートをきちんとやってこなかったのか、どうして私は他人と違うのか、どうして私は劣っているのか、どうして説明すら上手く出来ないのか、どうして人との関わりがこんなにストレスなのか、そんなことばかりを考えていた。

 他人は授業を聞いているのに、どうして私は全く集中すら出来ず、興味も持てないのだろうとも思った。

 馬鹿な他人よりも、どうして私が怒られるのか。

 ぼーっとしていると、怒号が飛んできた。

「こら、網城! さっき怒られたってのに、授業も聞けないのか!」

「あ…………いえ…………」

 口が渇いた。もう私には、どうしたら良いのかわからない。目が回ってきた。

 また、

 バカにされている。

 きっと……

「もう良い、出ていけ」

「………………いえ」

 そう嘘を吐いた、という自覚があった。

「やる気がないなら、帰ったら良い」

「いえ…………」

「だったら、授業受けさせてくださいって言えよ」

 きつく、舌を噛むような勢いで目を瞑る。それだけで死んでしまえたら良いのにと、何処かで思っていた。

 どういう言葉を紡ぐのか、それをどのように発するのか、シミュレートするのに、十秒ほど私には必要だった。

 目を開ける。何も見えない。

「授業を…………受けさせてください…………」



 朝は最低の気分だったけれど、まあ三十分もすれば、もうどうでも良くなっていた。

 今日の授業が全て終わって、またあのレコードショップへ向かおうと校門を目指していると、紗良が駆けながら私を追ってきて、背中を叩いてから、楽しそうに声をかけた。

「奈津乃。どこ行くの? 今日練習ないっけ」

「ないわ。レコードショップよ」

「ああ、老人のこと?」

「そう。やっぱり現場に行くのが一番でしょうから」

「じゃあ、私も行くよ」紗良は、にこにこしている。「レコードショップって、興味あったんだよね。面白そうじゃん。この間も、レコードで始めて音楽を聞いたんだけど、印象って違うね。私もレコードプレイヤーを買おうかなって、思ってる所だよ」

 件のレコードショップがあるのは、O駅から徒歩で十分程度。駅から少し離れたビル。その二階だった。『ニューバーンデー』とカタカナで書かれると、一瞬何語なのかわからない単語が、大きく看板に書いてあるのが特徴だった。

 中は、私がここを見つけたときから変わっていない。狭い店内に、ゴミ置き場にも近いような趣でレコードが並べてあった。品揃えの大半がレコードだった。カセットテープやCDも、当然置いてあるが、扱いはかなり小さい。

 相変わらず、古紙の匂い。深呼吸すれば、少しだけだけれどタバコのような娯楽性すら感じた。

「へえ……ここが」

 紗良は、物珍しそうにあたりを見回した。客層もいつもと同じだった。私が一人でいるときよりも、紗良といる今ほうが、いつも以上に目立っている気がした。

 プログレコーナーは、いつも客足が薄かった。当時はあれだけ人気があったというのに、今では、マニアしか寄り付かないジャンルになってしまったのだろうか、と悲しくなった。私達が、棚の影から首を伸ばして、一角の様子をうかがったのだけれど、誰もいなかった。

「いないわね」私は、隠れるのをやめて、堂々とプログレコーナーに向かった。

 並べられたレコードを見る。品揃えは、この前に確かめた時と、ほとんど変わっていない。マンダラバンドのセカンドアルバムは、入荷されていない。

 紗良は、棚を眺めながら、ボソリと呟く。

「……ここって、あんまりレコードのこと、好きじゃないのかな」

「紗良、レコード屋のこと知らないんじゃないの」

「いや、保護ビニールすら掛けてないよね。扱いが、ちょっと雑じゃない?」

 紗良は、指した。言われてみると、そういえばこの店の商品は、彼女の言う通り、保護ビニールすらされていないものばかりだった。だから相場より安いのか、と私はその時に初めて納得した。

「集めたいって言うなら、こんな所で買うより、もっとちゃんとしたお店に行ったほうが、美品を扱ってるんじゃない? 安さが目的なら、知らないけどさ……」

「……なるほど」私は、紗良の言葉に深く頷いた。「じゃあ……老人は、収集が目的じゃないってこと?」

「うーん、それは奈津乃さんが自分で考えてよ」

 その後、しばらく老人が現れるのを待ってみたが、空振りに終わった。時計を見ると、もう十九時を過ぎていた。

「駄目だね。奈津乃、そろそろ帰ろうか。無駄足だったけど……」

「うん……そうね」

 暖簾を腕で押したような、極めて虚しい気分になっていた。私達は店を出ようとする。

 ふと、そこで私は思い至る。

 客も、同年代の老人ばかりだった。プログレに興味があるかどうかは、外見ではわからないが、ここの常連らしい彼らに尋ねれば、一人くらいは、あの老人のことを知っていてもおかしくはないだろう。

 そうだ。やっぱり人に訊くのが、一番いい。

 祈るような気持ちで、私は店にいた客を全員見つめた。

 私は、自分が生まれてはじめて、積極的になっているような気さえした。

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