第三話「笑いと沈黙」
石田さんと琴音さんが去った後、僕と佐倉の間には、嘘で塗り固められた時間が残されていた。このまま別れるのが一番いい。そう思っていたのに、口から出たのは予想外の言葉だった。
「・・・駅まで、送るよ」
佐倉は少し驚いたように、僕を見た。僕自身も、なぜそんなことを言ったのか理解できなかった。だが、一度口にした言葉は取り消せない。僕たちは無言のまま、夜の道を駅へと向かった。
アスファルトの上を照らす街灯の明かりが、僕たちの間に長い影を落とす。昼間の
駅の改札が見えた時、佐倉が急に立ち止まった。
「あの・・・よかったら、もう少しだけ、付き合ってもらえませんか?」
彼女の顔は、いつもの完璧な笑顔ではなかった。どこか、はにかんでいるような、弱々しい表情だ。僕はまた、理解できない感情に襲われた。この娘は、僕に何を求めているのだろう?
「・・・」
僕が黙っていると、彼女は大きな瞳で僕を見上げてくる。
「らしくない・・・」
彼女が、僕に挑戦的な目を向けながら
僕たちは、駅前の雑居ビルにある居酒屋に入った。佐倉が選んだ店は、落ち着いた雰囲気のカウンター席がある場所だった。
「会社の人とは、飲まないことにしてるんだ・・・」
そういえば、さっきの飲み会でも、飲んでいなかった。佐倉は、僕に口止めをした。
「私がお酒を飲むのを知っているのは、君だけだから・・・。内緒ね」
僕は
グラスを重ねるにつれて、佐倉の顔は少しずつ赤くなり、口調も砕けていった。
「ねぇ、君は、どうしてそんなに真剣じゃないの?」
彼女の瞳は、昼間とは違う、親しみを込めたような、見ていると気恥ずかしくなるように
「どういうこと?」
「あの・・・いつも、女子たちと楽しそうにしてるけど、君は自分を
佐倉の言葉が、僕の心の奥底にある、最も触れられたくない部分を、ためらいもなく暴いていく。僕は、酔った彼女をいなすように、わざとふざけてみせた。
「えー、マジすか!結構、楽しんでいるつもりなんだけどな」
佐倉は、僕の軽薄な態度に苛立ったように、グラスをカウンターに置いた。
「真剣に話してるの!君は、何のためにこの会社に入ったの?本当は、やらなきゃ、変わらなきゃって思ってるんでしょ?」
彼女の言葉は、まるで鋭い刃物のように僕の心に突き刺さった。変わりたい。誰もが
そう願う自分が、たしかにいる。だが、その理想を口にすれば、努力しなければならなくなる。それは、僕が最も恐れていることだった。
「さっきも言ったでしょ。変わるつもりなんてない。僕は、このままでいい」
僕は、心を閉ざすように冷たく答えた。
「嘘!君の目、正直じゃない。私にはわかる。君と私は、同じ匂いがする・・・」
佐倉はしつこく僕に詰め寄った。その必死な姿に、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。この娘は、僕の何を知っているというのだろう。どうして、ここまで僕の心に踏み込もうとするのだろう。
僕は冷たく言い放った。
「僕は、誰にも本音を見せない」
佐倉の目が、悲しそうに揺れた。
「僕は、演じ続ける。それが、僕の生き方なんだよ」
僕はそれ以上、何も言わなかった。佐倉もまた、僕の閉ざされた心に、もう踏み込むことはできないと悟ったようだった。二人の間に、再び重い沈黙が流れた。
ーーー
雨が降り続く梅雨の夜、部署をまたいだ同期会が開かれた。僕と恭子は、いつものように並んで座る。
僕は「この時期は湿気がやばくて、髪の毛、セットしても無駄だよね・・・」と、どうでもいい話を振って、恭子は「それ、一年中言ってない?」とツッコむ。
僕らの周りでは笑いが起こる。けれど、その笑いは、以前とは少し違っていた。
席の配置が、入社当時とはっきり変わっていた。
上座には、仕事で早くも頭角を現し始めた同期たちが陣取っている。営業成績が伸びてきているらしい佐倉、小さいながら仕事を任せられ始めた面々。
その周りには、憧れや尊敬の眼差しを向ける同期が集まり、熱心に仕事の話をしていた。彼らはもう、僕が演じる「チャラい」キャラクターを笑ってはくれない。
僕はそんな彼らが嫌いだった。彼らの熱意は、僕が必死で隠そうとしている「変わらなきゃ」という気持ちを刺激する。僕は彼らから距離を置くように、下座に座った。
僕の周りに集まっていたのは、仕事のつらさに気づき始めた同期、出世を諦めた女子たちだった。
「このプロジェクト、マジで意味わかんないんだけど」
「飲み会に来ても会社の愚痴しか出ないとか、もう最悪」
彼らは疲れた顔で愚痴をこぼしていた。僕はそんな彼らの話を、「わかるわー」「まじそれ」と相槌を打ちながら聞いていた。
僕が提供する「チャラい」キャラと、聞いているのかいないのかわからない相槌は、彼らにとって心地よかったのだろう。
「・・・マジでさ、あんたと話してると楽だわ」
そう言って笑う同期を見て、僕は確信した。これが、僕がここにいる理由だ。期待もされず、責任も負わずにいられる。この生き方こそが、僕にとって一番安全なのだ。
一方、佐倉もまた、僕たちの様子を遠目から見ていた。彼女は上座で、同僚たちと真剣な顔で話している。誰もが彼女を尊敬し、憧れていた。
それは彼女が望んだ姿だった。彼女自身が求めていたはずのこの場所で、なぜか満たされないようだった。
同期会がお開きになった後、僕は皆と別れ、一人で電車に乗った。いつも通り、疲労と少しの
「・・・やっぱり、君は一人なんだね」
振り返ると、佐倉が立っていた。彼女は、僕が一人になるタイミングを探していたのだろう。
「・・・まだ飲み足りないんじゃない?」
彼女の問いかけに、僕の胸は高鳴った。
この娘は、なぜこんなにも僕に執着するのだろう。
そう思いながら、僕は彼女の言葉に、何も答えることができなかった。
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