16.保健室の先生は絶対優しい

一人取り残された乃慧琉は不満な気持ちで、裾に付いた血を爪でパリパリとこすっていた。ティッシュで詩音の鼻血を拭おうとした時に付いたらしい。血が付いたことよりも、何故自分だけと言う気持ちの方が大きかった。


「付いてすぐの血なら冷たい水で洗えば落ちるわよ〜」


養護教諭の先生は穏やかな口調で言った。多分自分達とそこまで年齢が変わらないであろう、でも落ち着いた風貌の先生だ。見た感じ、乃慧琉よりも大きさがあるだろう豊満な胸の辺りにある名札に『平野 寿里じゅり』と書いてある。

乃慧琉の担任である中川紗南はテキパキとした先生で頼りにはなりそうだけど、雰囲気が少し怖くて乃慧琉はあまりモノを言おうという気になれなかった。でもこの先生はあんまり怖くない、というよりも優しそう。


「…水道、借りていいですか」


「いいわよ〜、どうぞ〜」


どうぞ、が口癖なのだろうか。じれったく語尾を伸ばす感じがなんとも言えない。

乃慧琉は俯いたまま水道でシャツの裾を洗った。やはり数十分前に付いたばかりの血、水に触れると直ぐに流れて落ちていく。


「もし完璧に取れなかったら、おうちに帰って大根おろしを使ってみたらいいわ」


「え?大根?」


「面白いでしょう?大根おろしで取れるの」


へぇ、と乃慧琉は心の中で思う。詩音にも教えてあげようとも思った。


「さっき話聞いてたんだけど、高岡さんは眠れないんだね」


病院に行きなさいとでも言われるのかな。乃慧琉は身構える。


「はい……」


「それで一ノ瀬さんと理由探しをしてるのか〜、青春だなぁ〜」


柔らかい咲顔でこちらを見た先生。乃慧琉は視線を逸らして尋ねる。


「先生は眠れなくなることありますか…」


聞いたは良いものの、乃慧琉の心臓は異様なほどドキドキしている。これだけ睡眠のことで悩む自分は普通じゃないのかも…乃慧琉は常にそう考えているので、"快眠だ"とか言われたらと思うと本当に怖かった。だけど寿里はあっけらかんとした様子で笑う。


「そんなの全然あるわよ〜。実際昨日も眠れなくて困っちゃった。でも眠れないのは仕方ないし、私いつも諦めちゃうの」


「諦める…?」


「ずっと眠れなくてベッドでゴロゴロしてたんだけど、諦めて前から気になってた映画を観る事にしたの〜」


なら興奮して余計に寝れなくなったと楽しそうに話す寿里。それを聞いて、この人は自分とは正反対だなと、乃慧琉は毎晩の自分を思い出す。


乃慧琉は眠れないからって映画を見たりしない。いつも不安な気持ちでベッドに潜り、布団を頭まで被って眠ることだけを考える。少し眠気はあるけれど、ウトウトしたりもするけれど、すぐにまた目が醒める。

明日も学校があるのに、みんなと同じ生活がしたいのに寝ないとしんどくなる。取り憑かれたように同じことばかりを考え、時に眠る方法を探ろうとスマホと睨めっこしたりもした。


『もしこれがずっと続いたらどうしよう』


乃慧琉は景色が暗くなるとどうしようもない不安に襲われ、居ても立っても居られなくなる。夜なんて来なければいいのにと布団の中で朝を待つ。でも朝が来れば、また眠れなかったと絶望する。毎日毎晩、地獄のようにそれを繰り返す。


「…映画見れるなら、いいですよね」


水道の蛇口をキツく閉めた乃慧琉はぶっきらぼうに呟いた。すると何を察したのか、寿里はしどろもどろになって早口になる。


「そうだよね、眠れないと辛いよね……ごめんなさいね。変なこと言っちゃって」


「あ……いや」


間違えた、違うのに。そんなつもりで言ったわけじゃないのに。これも眠れないせいなのか?睡眠が足りなくて苛々しているのか?だからさっきも詩音にきつく当たって、それで。


「ごめんなさい。ベッド、借ります」


「あっ、高岡さん…」


何かを言いかけた寿里の言葉を待つまでもなく、ベッドの部屋に駆け込みカーテンをシャッと閉めた。スリッパを雑に脱ぎ飛ばし、真っ白な布団にくるまる。ひんやりと冷えたシーツからは鼻をツンと刺すような消毒液みたいな匂いがした。


「もう、いやだ………」


こんな自分嫌いだ。眠れない自分も、優しくない自分も、暗い自分も、他の人と比べて普通じゃない自分なんて、乃慧琉は心の奥底から自分が大嫌いで、それが凄く悲しかった。

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