第47話 動き出した時間

「店長! こっちですよ!」

 西川は声のした暗闇の方向に目を向けると、その先にはぼんやりとだがさやかの姿を確認できた。

 ただ何かいつもと雰囲気が違うさやかだと感じていたが、なにが違うのかは気づかず、その姿をよく見ようとして数歩近づいていた。

(暗くてよく見えないなー。)

「店長! これ受け取ってください!」

 さやかは大きな声で言うと、何かを西川に向かってって投げてきた。

「パシッ」

 西川は暗闇から放たれた”それ”を素手でキャッチすると、手に痛さを感じすぐに大声で叫んでいた。

「痛ってえ!」

 この前の海でしていた以上に大げさに手を大きくブラブラと振っていると、さやかはその姿を見て笑いながら少し西川に近づいてきた。そしてこの前の海の時とは逆にさやかの方から何かのジェスチャーを西川に送ってきていた。

 さやかは誰が見てもわかるような”ボールを見て”といったジェスチャーを必死でしていると、西川はすぐにそれに気づき、手の中にあるボールに目をやった。

 そこには”退職願”という文字が大きく書かれていた。

 西川はその文字を見てすぐに全てを理解したようで大きくうなずき、心の中でつぶやき続けていた。

(良かった。本当に良かった・・・。)

 

 でも何故かさやかは”ボールを見て”というジェスチャーををし続けていて、何度も何度もそのジェスチャーを繰り返していた。

 不思議に思い西川は再び手に持っていたボールを見ると、小さく控えめな文字が

 書かれていた。

 ”大好き”

 西川はこれにはすぐに反応できずに困った表情を浮かべて戸惑ってしまっていると、さやかから声がかかった。

「店長! 老眼で見えないんですか?」

 西川の方からは暗くてさやかの表情まではよくは見えていなかったが、さやかは悪戯っぽい表情をして言っていた。

 西川は当然そのボールに書かれていた文字は見えてはいるのだが、なんて答えていいのか戸惑ったままでいると、すぐにそれを察してさやかが再び声を掛けた。

「返事はすぐにいりませんよ! しっかり考えてくださいね!」

 さやかは大きな声で言うと、軽く会釈し走り去ろうとしていた。

「それでは、色々よろしくお願いします! 失礼します!」

 西川は街灯の光に照らされたその姿を見て、ようやくいつもと違う雰囲気の正体が、上下スポーツ用のウェアをさやかが身に着けていたことだったと気付いた。

(ここまで走ってきたんだ・・・。)

 さらに、さやかの横に山上明日香の姿を見つけ会釈をすると、明日香は西川に深々と頭を下げ、そしてさやかの後を追いかけて走り去っていった。

「良かった。ふたりとも本当に良かった。」

 ふたりの姿を見送った後、西川はかみしめるように声に出して言うと、自分自身も何かを決心したかのようにうなずき、ポケットからスマホを取り出していた。

「もしもし、倉田、俺・・・。」




「ラストボール!」

 球審から投球練習あと1球のコールがあり、ピッチャーが足を上げボールを投げ込むと、大きな音がグラウンドに響いた。

「ガシャン!」

 投げたボールがキャッチャーのはるか後方のバックネットに直接あたりコロコロとグラウンドに転がった。

「おばさん、さやか大丈夫かな?」

 スタンドにいた園子は、隣に座っている京子に声を掛けると、いつもならハキハキと答えるであろう京子だが、不安そうに言っていた。

「ごめん、園子ちゃん私もう見ていられないから帰るね。」

 京子は席を立とうとしていたが、園子は京子の腕を掴み席に座らせると、力を入れて手を握っていた。

「おばさん、何言ってるんですか。しっかり応援しましょうよ!」

「園子ちゃん、さやか大丈夫かな?」

 また弱気なことを京子が口にしていると、園子は京子を落ち着かせるように、また自分をも落ち着かせるように、握っていた京子の手に力を入れて言っていた。

「大丈夫ですよ。きっと、さやかなら大丈夫。」

 すると、そのふたりを少し離れた場所から見つけて、ひとりの男が足早にふたりのもとに近づいてきた。

「お久しぶりです。京子さん。」

 その男が挨拶すると、園子が大きな声をその男にぶつけていた。

「もう、遅いですよ!」

 


 明日香は球審から新しいボールを受け取ると、マウンドのピッチャーのもとに向かって行った。

「さやか、大丈夫? 落ち着いていこう。」

 心配そうに声を掛けると、ピッチャーマウンドには顔面蒼白のさやかの姿があり、久しぶりの試合ということで緊張しているのが誰が見てもわかるような感じであった。

「さやか。深呼吸しよう。深呼吸。」

 明日香が再び声を掛けると、緊張したままさやかが真面目な顔をして言ってきた。

「わかった。えっと・・・。明日香、深呼吸ってどうやるんだっけ?」

「もう、しっかりして! 鼻から吸って、口から吐くんだよ!」

 当たり前のことを明日香は言っていた。

「わかった。わかった・・・。」

 さやかは今までの人生で味わったことの無い様な緊張感にみまわれていて、パニック状態になってしまっていたようで、ただ普通に呼吸をしてしまっていた。

「それは普通の呼吸だよ。ほら大きく・・・!」

 それに気づいて明日香が言いかけたとき、球審から声が掛かった。

「どうしたの? ハリーアップね。さぁ、急いで!」

 明日香は後ろ髪を引かれる思いで守備位置に戻ろうとしたとき、客席からの大きな声が球場に響き渡った。

「ピッチャー深呼吸! 深呼吸! 落ち着け!」

 

 さやかが声のした場所に目を向けると、そこには立ち上がってさやかをに向かって手を上げている西川浩二の姿が見えた。さらに今まで緊張のあまり気付かないでいたが、その隣にいる京子と園子の姿も確認でき、ようやくさやかは少し緊張がほぐれたようで大きく深呼吸していた。

(コウちゃんありがとう。ママも園子もありがとう。)

 再びさやかは大きくしっかりと深呼吸すると完全に落ち着きを取り戻したようで、さやかの表情はさっきまでの不安そうな表情から鋭い顔つきにかわっていた。

(よし、もう大丈夫。みんな見てて!)

 さやかはキャッチャーのサインを見て大きくうなずき、足を上げて渾身の力を込めて白球を投げ込んだ。


 あの夏の日から止まっていたさやかの時間が動き出した。


(完)

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あの夏の日から FLAKE @pieson1201

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