第51話

「……お客様、お水のお代わりはいかがでしょうか?」


 ウェイトレスが聞いてくる。どうという事のない愛想笑いで、口調も別に変った所はない。この瞬間だけ切り出せば、ごくごく普通の接客だろう。


 それでもライズが皮肉だと受け取ったのは、五分前にも同じ事を聞かれたからだ。

 数えてはいないが、十数回と言った所か。彼女がそれを聞きに来る間隔は、回を増すごとに確実に短くなっている。

 理由は明白で、朝からコーヒー一杯で何時間も窓際の席を占領しているからなのだが。


(……まぁ、追い出されないだけマシだよな)


 観念して、黒瓜亭なら定食が頼める値段のトーストセットを注文すると――節約しようと思って昼飯を食べていなかったのだ――げっそりと溜息をつく。


「……アホみたいな額の借金を少しでも減らさないとならないってのに、仕事もしないで俺はいったいなにをやってるんだ?」


 皮肉な気分で呟くが、誰に対しての皮肉かと言えば、救いようのない愚か者である自分に対してとしか言う他ない。


 結局あの後ライズは少年の後を尾行して、自殺せずにちゃんと家に帰るか見届けた。そして朝一で少年の家を張り込んで、そのまま尾行して学校を見張れる位置にあるこの高そうな――というか実際高いのだが――喫茶店で少年が出てくるのを待っている。


(――で、あのガキが無事に家に帰るのを見届けて、明日も同じように影から見守ってやるってのか?)


 どこまでも皮肉な気持ちで。同じ量の自嘲を込めながら思う。


(……こんな事をしてやる義理はねぇし、こんな事をやってる場合でもねぇ。大体、なにか起きたとして、いったい俺はどうするつもりだ?)


 皮肉を通り越して、苛立ちすら覚える。もちろん自分にだ。小僧の様子から察するに、彼に対するイジメは日常化しているのだろう。一日張り込めば、帰り道にイジメられている場面に出くわすかもしれない。そこにのこのこ出て行って、性根の腐ったガキ共を相手に大人げなく暴力をひけらかすのはなるほど、文字通り赤子の手を捻るようなものである。


 だが、ペコが言った通り、そんな事では何一つ解決しないだろうし、言うまでもなく、一生ユリアとかいうガキのお守りをしてやるわけにもいかない。というか、昨日の時点ですでに十分呆れられている。やる事をやらないと、今度はこっちが愛想を尽かされかねない。


 大体、性根の腐ったガキなんてのはちょっとやそっと痛い目を見せたくらいで心を入れ替えるものでもない。むしろ根に持って、余計にユリアの立場を悪くするだけだろう。


 それこそ、骨の何本かへし折って死ぬほど脅してやれば多少は効果もあれかもしれないが、街の人間に――それも、そこそこの身分の子供に――そんな事をすれば、今度はこちらが犯罪者である。


 ならどうすればいいのかと張り込みの間もんもんと考えているが、名案も浮かばない。後悔なら幾らでも湧いてくるのだが。


 あと少し風呂屋を出るのが早いか遅いかすれば、ライズは自殺の場面に出くわす事もなく、少年も目的を遂げられただろう。ゾッとしない話であるが。どうせなら早い方がいい。遅ければ、地面に落ちて潰れた少年の死体と対面する羽目になる。


(……たったそれだけの事なんだ)


 なにがというわけでもないが、やはり皮肉っぽく思う。落ち込んでいる時は、なにもかもが皮肉に思えるものなのかもしれないが。


 人は死ぬ。そこらじゅうで、毎日死んでいる。ライズが知らないだけで、ユリアのように死のうとしている子供も――そして、実際に死んでしまった子供も――幾らでもいるだろう。


 その中の一人にたまたま出くわしただけだ。助けてやる義理などこれっぽっちもないし、助けられないからといって責められる筋合いもない。


 誰が悪いかと言えば、ユリアを追い詰めたクソガキに、それを見逃すクラスメイトや教師、自分の息子がそこまで追い詰められている事に気付かないユリアの親と、そこまでするクソガキを育ててしまった躾の出来ない加害者の親、これ程追い詰められる前に歯向かう事の出来なかった臆病なユリア、神が人を作ったというのなら、こんな風に欠陥だらけに作った神が悪いともいえる。それらを責任順に並べれば、どう考えてもライズの順位は問題にならない程下のはずである。


(俺だって別に、あんなガキが一人死んだ所で、どうって事はねぇんだ)


 数日は落ち込むだろう。あるいは、もう少し長くなるかもしれない。だが、精々そんな所だ。こちらにはこちらの人生がある。その為に人の心は都合の悪い現実とやらを都合よく忘れられるように出来ている――生憎ライズは、その機能が他人よりも少しだけ弱いようではあるのだが。


 と、ウェイトレスに嫌味を言われるだけの退屈な時間を持て余してあーだこーだ考えはするのだが、かといって、ここまで来てやめる気にもなれない。


(……つまりはいつも通り、俺は底なしの馬鹿野郎って事なんだろうがな)


 考えてみれば、ペコを拾ってやった時と似たような状況と言えなくもない。それは今たまたま思いついただけで、だからという事では全くなかったが。ともかく、今日一日くらいは見張ってやるつもりだった。そして、もしイジメの現場を目撃した時は――


「……どうすりゃいんだろうなぁ」


 思考の輪にハマって抜け出せず、底なし沼の中でもがくような心地で頭を抱える。


 ラビーニャならばそれらしい答えを言えるのだろうか。あるいはペコのように、そこまでしてやる義理はないとはっきり一線を引ければいいのだろうか。キッシュのように己の無力さを認めて、出来ない事は出来ないと割り切るのも一つの潔さかもしれない。


 誰でもいい。この際神様でも。俺に答えを教えてくれ! と都合よく神を頼ってみるが――恐らく人類はまだ、誰もこの手の問題に対して冴えた答えを出していないのだろう。そう思うと、人間なんてのはつくづくろくでもない生き物だなと嫌にもなる。


「とりあえず、高い店のトーストは高いだけあって伊達じゃねぇって事だけはわかったな」


 このままではこちらの方が死にたくなりそうで、無理やりにでも物事の良い面に目を向けてみるが。


 さっくりと香ばしく、中はふんわり柔らかい。噛めば雪のように溶け、濃厚なバターとミルクを思わせる甘い風味が口から溢れて鼻に抜ける。


 まぁ、美味いだけで腹の足しにはならず、払った分の価値があったかと聞かれると貧乏人には微妙だったが。


 鈴の音が客の来店を知らせた。


 入口に目を向けれると、見知った顔が三つ並んでいた。

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