帰りそこないの迷い道

 振り返りもせず、ずんずんと歩いて行くウォルに、パロスは無言で続いて行った。


 目的地があるはずもないのにしっかりとした足取りで、だけど迷いが見えて、まるで逃げるように人込みを抜け、日陰を選び、まるで落ちるかのように街の喧騒から遠ざかって行った。


 決して走っているわけではないウォルだったが、足の長と躊躇いの無い歩みは早く、小柄なパロスは小走りでなければついていくことができなかった。


 それも限界、何度か転びそうになって、息が切れて、唾を何度も飲んだころ、ふとパロスの視線が外れて、そして足が止まる。


「その、待ってくださいウォルさん!」


 切れ切れの声で呼び止められ、ウォルはその足を止めた。


 場所は薄汚い裏路地、ガラクタと雑草が溢れ、表通りからも遠く離れた場所、光も届かないのかと見上げれば、空はどんより灰色に曇っていた。


 その空を見上げてたウォルだったが、なかなか来ない次の言葉を求めて振り返る。


 パロスはウォルを見ていなかった。


 代わりに道端、ガラクタの影でうずくまる、みすぼらしい格好の男へと、恐る恐る歩み寄っていた。


「あの、大丈夫ですか?」


 問いかける姿にウォルは静かに拳を握る。


 そしてジッと静かに見つめる先で、男が顔を上げた。


 元は何だったのかもわからない布をマントのように体に巻き付け、フケだらけの髪、垢だらけの肌、一本抜けてる前歯、骨と皮だけの、見るからに最下層とわかる貧民だった。


 だけどもそのどろんとした目を見た瞬間、ウォルは踏み出していた。


 それに気付かないでいるパロス、前かがみになって覗き込むと、男は弾けた。


「うぉおおおおおおおおおおおお!!!」


 響く奇声に驚くパロス、けれども引かないその前で、男は無駄の多い動きで立ち上がる。


「あの」


「寄付だろぉ!」


 パロスに男は唾を飛ばし、震えながら怒鳴る。


「その服! その教会! だったら寄付! 寄付! 早くよこせ! 持ってるんだろ! さぁ! さぁ!」


 興奮した声と血走った目に呆然とするパロスに向かって、男は爪の伸びた左手を突き付け捲し立てる。そして右手には、底が割れて鋭くなった酒瓶が握られていた。


「金だ! ないならその首のでもいい! いや良くない! うるさい! うるさい! うるさい黙れ!」


「お、落ち着いてください。私はただあなたを助けようと」


「だったら薬だ! 持ってるんだろ! 返せ! 俺の薬を返せ! 返せ! 返せ! 早くよこせ!」


 男は興奮に任せて左手を引っ込めると、今度は右手を、その手の酒瓶を、胸の高さでパロスへと突き付けた。


「そこまでだ」


 背中でその場を動かないパロスをどかしつつ、その鋭い先端との間に立ちはだかったのはウォルだった。


「消えろジャンキー、その腐った人生を少しでも永らえたかったらそいつを捨てて逃げ出せ」


「ウォルさんそんな言い方ダメです」


 退かしてきた背中を押し返し、パロスは前に出ようとする。それをさらに防ごうとするウォルとの攻防を前に、男が吠えた。


「ばぁいじゃからあああ!」


 意味不明な奇声と共に振り上げられた酒瓶、大振りに引っ掻く一撃を、ウォルは背中のパロスを吹き飛ばしつつ一歩引いてかわす。


 そして次の一掻き、振り上げられる前に一歩前へ、同時に左の拳を真っすぐ鋭く突き出した。


 ガボ!


 硬さと湿っぽさの重なる音で拳が叩き飛ばしたのは残る前歯と鼻頭、男は半開きで前歯全てを失くした口の中に鼻血を流し込みながら大きく背後へとのけぞった。


 そして前に戻ってくるのに合わせるようにウォルもまた一歩踏み出すと、今度は右の拳を大きく巻き込むように振り抜いた。


 バカ!


 今度は乾いた音だけで拳が打ちぬいたのは顎、半開きだった口が歪に広がり顔の輪郭が変わって、顎関節が外れているのは明らかだった。


 そしてドチャリ、男が受け身も取らずに前へと倒れる。


「おいおいこの程度でダウンするなよ。俺の知ってる強盗どもはもっと根性あったぞ、おい」


 嘲る言葉と共にウォル、右足を高く上げる。


「ウォルさんダメ!」


 パロスの止める声、けれども足は止まらず、力強く踏み下ろされて、地面に転がる酒瓶を粉々に蹴り潰した。


「どうだ見たか? 俺の綺麗なコンビネーションパンチ、連れ出した甲斐があっただろ?」


「こんなの、頼んでいません」


 応えながらもパロスの目線はウォルではなく倒れた男の傍らへ、駆け寄り膝をつき、両手で力を込めて男を仰向けに転がすと打たれた顔に手を添える。


「大丈夫ですか? 今治療しますからね」


 優しい声にどこも見てなかった男の目に焦点が戻る。そして浮き出る表情は恐怖だった。


「ひゃあ!」


 だらりと舌が出たままの口で悲鳴を上げるや、男はパロスを突き飛ばして転がるようにここからは見えない道の角へと逃げ去って行った。


 そして訪れる静けさの中、二人が残される。


「……ウォルさん」


 これまでに発したことのないような重くて冷たい声で名を呼びながら立ち上がり、パロスはウォルの顔を見上げた。


 これにウォル、肩を竦めながら薄ら笑いを浮かべる。


「なんだよ。俺の仕事はお前を守ること、そして守った。違うか?」


「それは、違います。私がウォルさんにお願いしたいのは、相手を打ち倒すことではなく、彼を助けることです」


 はっきりとした物言いにウォルからうぅら笑いが消え、代わりにいら立ちが表情に現れる。


「あの状況で、あんあのに気遣って手加減しろとでもほざくのか」


 けれどもパロスはひるまずに続けた。


「彼は、助けを求めていました。私は彼を助けたかったんです」


 ドン!


 パロスが言い切るのとほぼ同時に、ウォルは踵で地面を蹴り叩いた。


「ふざけるなよお前」


 次いで絞り出される声、ウォルはパロスを睨みつけた。


「俺でも知ってることわからないなら教えてやる。あれはジャンキーだ。何の薬かは知らないが一時の快楽のために残りの人生を捨てた肉の死体だ。動くだけの生ゴミなんだよ」


「違います。違いますよウォルさん」


 これに、パロスは一歩も引かない。


「私は、お酒もお煙草も、非合法なお薬も使ったことがありません。だからどうして手を出してしまうのか、どうして止められないのか、私にはわかりません。ですけど、それでも彼が、彼らが助けを求めてるのは、わかります。ですから」


「ですから? ですからあいつを助けてって? 俺にか? 俺に言ってるのかおい! そんな頭お花畑の理想論! 俺に押し付けたいならこの首輪に命じろ! ほら! ほら! やれよ!」


 ほぼ怒鳴り声で迫りながら、ウォルは首の金属の輪を、パロスへと見せつけた。


 これに、パロスは押し黙る。


 ただ今にも泣きそうな表情を浮かべるだけで、袖と唇をぎゅっと閉じていた。


 この反応に、ウォルもまた、ギリリと奥歯を食いしばるだけだった。


 …………沈黙、そこに動きを与えたのは、ポツリと落ちてきた雨粒だった。

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