第2話 天使の修道士
「始めまして」
男性は、初めて気が付いたように私を見た。
「良い天気ですよね。何を読んでいらっしゃるんですか」
私は当たり障りのない話題から入る。彼の腕時計は、文字盤にフラ・アンジェリコの天使の絵があった。合成皮革だと思われる腕時計のベルトにも、同じアンシェリコの絵が見える。
「イタリア・ルネサンスに関する入門書ですよ」
「素敵ですね。私も絵を見るのが好きなんです」
「浮世絵がお好きなんですか」
「西洋画も好きですよ。特にイタリア・ルネサンス時代の絵画は初心者にも分かりやすいと思います」
「そうですね、抽象画やモダン・アートよりは、見ただけで美しいと分かりますからね」
「フラ・アンジェリコがお好きなんですね」
彼は自分の腕時計を右手で軽く押さえた。
「そうです、フラ・アンジェリコの絵です。よくお分かりですね」
「有名な画家ですからね」
「そうですね、それなりには。三大ルネサンスの巨人の中には入っていませんが」
「アンジェリコに限らず、ルネサンス初期の芸術家は三大にはいませんね。最盛期の人たちばかりです」
「その時代に、ルネサンス様式の特徴を最大限に表現したからですね。しかし僕は、中世的な慎ましさや敬虔さを残したアンジェリコの天使の絵が好きなんです」
「分かります。三大ルネサンスの天才たちのは、少々生々しい感じがしますからね」
「中世欧州の宗教による抑制を脱して、古代ギリシャや古代ローマ的な人間性の解放を表現した。それがルネサンスの特徴ですからね。美術史的には、三大ルネサンスのミケランジェロ、ダ・ビンチ、ラファエロは素晴らしい。それは認めますが、フラ・アンジェリコの控えめな美に惹かれるのです」
「分かります。そもそもキリスト教的な人間の肉体美への忌避感が、私には今ひとつピンと来ないです」
彼はそれを聞いて、我が意を得たりと微笑んだ。
「こんな話を人としたのは久しぶりです。学生時代とは違う」
「私も学生時代の友人とは疎遠になってしまいました。みんな仕事や結婚で地方に引っ越してしまいました」
「僕も似たようなものです。転勤でバラバラになりました。SNSでのつながりはありますが」
私の友人たちはSNSをやらない。メールでのやり取りしかしていなかった。
しばしの沈黙の後、彼は私の目を見て、遠慮がちにこう言った。
「あのう、こんなことを申し上げて失礼でなければいいのですが」
「何でしょう」
「もしお時間があれば、近くの喫茶店で僕と話をしてもらえますか。こんなに話が合う人は、なかなかいないんです」
私はうなずいた。まだ日は高く、正午を過ぎたばかりだ。今日は土曜日。時間はまだある。
「はい、ぜひ。でも自分のぶんは自分で支払いますのでお構いなく」
私はそう言って、彼より先に立ち上がった。
「あの、僕はこうした仕事をしています」
彼は名刺を取り出して、私に差し出した。
「有島デザイン事務所 ウェブデザイナー 有島 大地」と、印刷された文字が見えた。
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