武蔵野図書館

片桐秋

第1話 あきらめ

 自分にとって図書館で過ごす時間ほど貴いものはない。そう言い切って差し支えなかった。

 私の名は藍。ただそうとだけ名乗っておこう。

 近頃は、この東京郊外、都心部からは西側に遠く離れた西多摩地区にある図書館もだいぶ整備されてきた。

 私の知るある図書館は、屋上のテラス席で飲み物を飲める。

 私はそうして休日は本を読み、冷えた砂糖無し炭酸水やお茶を飲んで過ごす。私は冬でも厚着をして、そう過ごせる。その時に飲むのは温かい飲み物だ。甘くない紅茶が最適。

 問題は暑い夏で、その時にはさすがに戸外で長く過ごす気にはなれない。流行りの小型の扇風機を首から下げていても、耐えられる限界を超えている。

 本と言えば『○○の作り方』などといった実用書か、そうでなければ小説を連想する人が多いのではないか。私にはそれに限らず美術書を眺める時間が大切な時間だ。都心からは遠いこの辺りでは、本格的な美術館に行くのは時間もお金も掛かる。ここでなら飲み物代以外はただで楽しめるのだ。もちろん本物を見るのにはかなわないだろうが。

 私はそうして、今日は浮世絵の解説書を眺めていた。初心者向けの入門書でだいたい知っているようなことが書かれている。目当ては絵を見ることで、新たな知識を得るのは今日の目的ではなかった。

 今、季節は秋。まだ日差しは強いが風はさわやかだ。戸外で頭に麦わら帽子をかぶってベンチに座っているのには良い季節だった。

 私が座るベンチのすぐとなりのベンチに、若い男性が座った。若いと言っても、もう三十近くにはなるだろう。彼の眼差しや物腰から、社会に慣れて落ち着き始めた者の持つ穏やかさや、程よいあきらめが伝わってくる。 

 程よいあきらめ。私にとっては、幼い頃からの習い性だ。小学校三年生になる頃にはすでにそんな風だった。期待しなければ失望も焦りもない。それが母から習ったことだ。母は父と別れて暮らしていたが、正式に離婚はしていなかった。つまり法的には夫婦のままだった。母と私は、郊外のちょっと立派なマンションに暮らしていた。賃貸の家賃と同じくらいの分割払いで、頭金だけ母の父親が出してくれた。郊外で、交通の便を多少我慢すれば、比較的安価に立派な住まいが手に入る。リフォームされてはいるが新築ではないのもよかった。離れている駅へ行くには、バスか自転車を使わなければならないが、そこは母も私も苦にはならない。

 つつがなく私の生活は流れていく。多くを望まず、着実に。それがうまく生きていく秘訣ではないだろうか。

 私と同じあきらめ顔の若い男に、私はなぜか強く関心を持った。一つには、その男が腕にはめていた時計のせいかも知れない。

「こんにちは」

 私は声を掛けた。

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