第10話竜馬とウォール街 ~1907年恐慌~

おいおい、アメリカってところはホントに油断できねぇな!一攫千金を夢見てウォール街に飛び込んだはいいが、1907年、とんでもねぇ嵐が吹き荒れた!そう、1907年恐慌だ!

事の発端は、ビュートの銅山王ハインツってやつの株買占め失敗。これが引き金となって、市場は大パニック!株価は暴落、銀行は取り付け騒ぎ…まるで地獄絵図じゃ!

竜馬もこの恐慌で大損こいたクチだ。せっかく貯めた金が、あっという間に紙くず同然!信用売りで一発逆転を狙ったものの、まんまと踏み上げられて、往復ビンタを食らっちまった!

「あ…ありえねぇ…俺の金が…全部…」

竜馬は呆然と立ち尽くし、空を見つめた。アメリカの青い空は、まるで竜馬を嘲笑っているかのようだった。

「金…金がねぇ…腹も減った…」

竜馬は、空腹を紛らわすために、道端のゴミ箱を漁る羽目になった。その時、一台の高級車が竜馬の目の前に停まった。中から出てきたのは、あのロックフェラー!

「Hey!Ray!did you lose in market again?ha ha ha!(おい、レイ!また株でしくじったのか?ハハハ!)」

ロックフェラーは、高笑いしながら竜馬に近づいてきた。

「Help me Rockefeller…I have…no money…(ロックフェラー…助けてくれ…金が…一銭もねぇ…)」

竜馬は、情けない声でロックフェラーに助けを求めた。

「Ray、You must gamble using your self money.Don't rely on me.(レイ、博打は自分のお金でやるもんだ。俺に泣きついたって無駄だぜ)」

ロックフェラーは冷たく言い放ち、車に乗り込もうとした。

「Wait!Rockefeller!Please…Treat me…dinner?(待て!ロックフェラー!せめて…飯くらい…奢ってくれねぇか…?)」

竜馬は、最後の力を振り絞ってロックフェラーに叫んだ。

ロックフェラーは、少し考えてから、ニヤリと笑った。

「My goodness.Especially,I will treat you today.Though,consider it is cost of next business!(しょうがねぇな。今日は特別に、俺が奢ってやるよ。ただし、次の儲け話のための勉強代だと思えよ!)」

こうして、竜馬はロックフェラーに連れられて、高級レストランでたらふく飯を食うことができた。

「Thank you…Rockefeller…You are my best friend!(ロックフェラー…ありがとう…心の友よ!)」

竜馬は、涙を流しながらロックフェラーに感謝した。

「Never mind,Ray.Market make you wiser to pay cost,make you stronger to drop tears.Try the next chance learning by this time failure.(いいんだよ、レイ。相場っていうのはな、払った授業料の分だけ賢くなれるし、流した涙の分だけ強くなれるもんだ。今回の失敗を教訓にして、また頑張ればいいさ)」

ロックフェラーの言葉は、竜馬の心に深く響いた。

「Exactly…Rockefeller…I will never…give up,…I will succeed necessarily!(ああ…ロックフェラー…俺はまだ…諦めねぇ…必ず…成功してみせる…)」

竜馬は、力強く拳を握りしめ、再びウォール街に挑戦することを誓った。


竜馬も1907年恐慌で大損したクチだった。買っていた株はすべて暴落し、紙くずとなり、その後残りの資産で信用売りで売り向かったが踏みあげられた。往復びんたというやつである(笑)。


ただ、同時に大切な教訓も得た。

「お金はしょせんお金に過ぎない。いのちあってのものだね。死ぬこと以外はかすり傷」と。


竜馬にとって、金融、ウォール街は、大事な収入源でもあったのだが、なにより生きた経済を毎日肌身で感じる教育の場であったのだ。


この1907年恐慌は、竜馬にとって大きな痛手となったが、同時に貴重な教訓を得る機会ともなった。竜馬は、この経験を通して、金よりも大切なものがあることを学んだのだ。そして、真の成功とは何かを問い続けながら、新たな道を歩み始めるのだった。


エジソンの会社はモルガンから借りた資金で成り立ち、モルガンは同社の小口の株主でもあった。1880年代に入るまで同社は規模は小さく、年間売上高100万ドルに満たなかった。電灯に電気産業の未来があるわけでもなく、どこで電気をつくり、どう電力を供給していくかのほうが重要で、それが電流産業の戦いの場となっていた。電力の生産はアメリカ政治の中心課題となろうとしていて、この状態は、その後50年間変わらなかった。


1880年代初頭、かつての鉄道事業のロバーバロンだったヘンリー・ビラードは、エジソンの事業を熱心に支持していた。株価の大暴落で破産に追い込まれ、一時期、生まれ故郷のドイツに帰っていたが、1886年、再びニューヨークに戻ってきている。その後、ドイツの大手銀行から融資を受け、国際的な電力カルテルをつくろうともくろんでいた。その最初の標的となったのがエジソン・エレクトリック社だったが、同社を手に入れるにはモルガンの承認が必要だった。


当時、エジソンは電力事業に関心を失っていて、機械をいじくり回す発明の生活に戻りたがっていた。ビラードとモルガンは手を組み、エジソンを筆頭にエジソン・エレクトリック社の関係者から同社を数百万ドルで買い取った。エジソンは175万ドル、ほかの関係者は100万ドルを手にしている。エジソンの補佐役だったサミュエル・インサルも多少のお金を受け取っている。若いイギリス人のインサルはエジソンが会社を起こす手助けをした人物で、当時、副会長の地位にあった。新会社ではエジソンとともに取締役になっている。新会社の会長はビラードだった。


エジソン・ジェネラル・エレクトリック社を手に入れたビラードの運は、いつまでも上向いていたわけではなかった。インサルのもと、新会社はコスト削減で経営を合理化し、利益は年々増えて繁栄した。当時、3つの主要な電力会社があったが、そのなかで最も儲かってる会社だった。残りの2社は、ジョージ・ウェスティンハウスが率いるウェスティンハウス社とトンプソン・ヒューストン・エレクトリック社だった。


ウェスティンハウス社は3社のなかでは規模が小さく、直流電流のみを生産していたエジソン社とは違って交流電力も生産していた。エジソン社とウェスティンハウス社は、自社製品のほうが安全であることを示そうと宣伝合戦を続け、その産物として電気椅子が処刑道具に導入され、2社の宣伝合戦に薄気味悪い色合いを漂わせた。ウェスティンハウス社のほうがエジソン社より優れた工学技術を持っていて、両社が合併するというのは問題外であった。そこでビラードはトンプソン・ヒューストン社を買収する段取りに取りかかり、その資金調達のためモルガンに接近した。


しかし、モルガンにはビラードとは異なる意図があった。トンプソン・ヒューストン社の幹部と相談し、ビラードの取り引きをトンプソン社のほうがエジソン社を乗っ取るという形に持ち込んで、最終的にはビラードに辞任を求めたのである。


かつてノーザン・パシフィック鉄道をめぐってウォール街で囁かれた陰謀説が正しかったとするなら、ビラードがモルガンに敗れたのはこれで2回目であった。インサルを筆頭に他の経営陣もお金と引き換えに解任された。いっぽうエジソンは、数百万ドルを手にして満足していた。


1892年4月、モルガンはモルガンはジェネラル・エレクトリック社を創設した。同社はウェスティンハウス社と競争しなければならなかったが、業界のリーダー企業として抜きんでた存在となった。モルガンは投資家や企業の重役たちの裏をかいて、アメリカの発電業界を支配する力を手にしたのだった。ビラードやインサルは他の事業に衣替えしたが、インサルの名前は1930年代に入って全国紙の紙面を飾ることになる。大恐慌が原因で身を引いた最も有名な実業家であり、金融家となったのである。

20世紀を迎えるころ、アンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社は高い収益を誇り、年間で4000万ドルにも達していた。


モルガンはカーネギーの会社を支配するには巨額の資金が必要とわかっていたので、この会社を手中に収められるとは思っていなかった。ところが、思わぬところからチャンスが転がり込んできた。鉄鋼王で慈善家でもあったカーネギーが鉄鋼業への関心を失い、自社を売却したいと思い始めたのである。


1900年、カーネギー・スティール社の会長チャールズ・シュワブ主催の晩餐会が、ニューヨークのユニバーシティ・クラブでおこなわれた。この晩餐会でカーネギーが鉄鋼会社を売るという話が浮上し、その後、数週間にわたって激しく交渉がおこなわれ、売り値として5億ドルという金額がモルガンに提示された。その金額にモルガンは同意した。カーネギーの持ち株は3億ドルで、支払いは債券と優先株でおこなわれることになった。


モルガンはカーネギーから鉄鋼会社を買収すると、同社の株を一般募集で売り出したが、かなりの株式を自分で持っていた。この株式発行は当時、最大規模で総額14億ドルに達し、USスティールはアメリカで初めて10億ドルを超える資本金を調達した企業となった。シンジケートも最大規模で、300以上の引受業者で構成されていた。

この株式発行は、大規模な株式発行は危険だとの強い警告の声があったにもかかわらず、大成功を収めている。


テクニカル分析の起源は18世紀の日本の大阪堂島の米相場で、日本人の本間宗久が発明したローソク足分析と酒田五法である。当然、竜馬も勉強していたが、本場アメリカのウォール街でもローソク足分析が使われているのを知って、ひとりの日系人として誇りに思っていた。竜馬が金融取引をしていた20世紀初頭のウォール街では、ダウ理論やエリオット波動理論、ギャン理論などが花盛りであった。


一目均衡表は、昭和10年(1935年)に細田悟一氏(ペンネーム:一目山人)が「新東転換線」として都新聞(現 東京新聞)で発表したテクニカル分析手法。細田氏は私設研究所を設立し、7年の歳月と約2,000人の人手をかけて考案したもので、時間の概念を重視した点が特徴である。当初は株式相場分析のために考案されましたが、現在はFX(外国為替証拠金取引)など他の銘柄にも応用され、日本だけでなく海外の投資家からも支持されている。


この一目均衡表の開発にも竜馬は加わっていた。読み方が難しい一目均衡表は複数の移動平均線をかけあわせて構成されている。竜馬は自身の50年におよぶウォール街での金融取引生活の集大成として、一目山人とともにこの一目均衡表を発表したのだった。


竜馬の金融取引の手法はファンダメンタルズもテクニカル分析も両方見るというものであった。まずは、マーケットはファンダメンタルズ的な動機づけで動き、その後具体的なチャートの動きはテクニカル分析を参考に見ていた。エントリーポイント、利食い損切りポイント。基本的にはテクニカル分析で考え、テクニカル分析を勉強して自分のものにしてからはわりと安定的に相場で勝てるようになった竜馬であった。


一方で、昼夜を問わず金融取引のことばかり考えるすさんだ生活に嫌気が差してもいた。おいはこんなことをするためにアメリカくんだりまで来たわけじゃない。もっと有意義な人生の過ごし方をしようと。師匠のジョン・デューイにも「Ray。大概にしておきなさい。それじゃまるで株廃人だ。もっと、なんというか、オランダの哲学者、キルケゴールの言うところの、「実存主義」的な生き方が他にもっとあるだろう」と諭された。


竜馬自身も、お金がすべての人生になってしまっては、何のためにアカウントを変えて二度目の人生を生きてるのか分からなくなる。改心しようと考えていた。


竜馬の投資法は、ファンダメンタルズやテクニカル分析の勉強も大切なのだが、何よりトレーダー自身が落ち着いた環境で、気力体力ともに充実した状態でトレードに臨まなければ絶対に良い結果は出ないと、その50年に及ぶトレーダー人生で確信していた。そのためには良い食事、良い睡眠、適度な運動をすること。あとは、運も大切だった。運気を得るためにも竜馬は苦力たちと日雇いバイトの下働きなどを率先して行った。泥仕事も真っ先に買って出た。そうやって徳を積むことがまわり回って自分の運勢に跳ね返ってくることを竜馬は経験的に体得していたのだ。


心技体。すべてが整ってはじめて良い結果が得られる。わずかな隙も許されない。そういう意味では金融トレードは剣道やボクシング、野球や音楽にも通底している。少しの慢心も許されない。わずかなコンディションの差が如実に結果に現れる。馬鹿げてはいるが命懸けの切った貼ったの世界ではあった。



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