03_#2



暴人の血は少し特殊で、ぬるま湯や水ではなく、氷水でないと落ちない。帰宅した直後、自身の腹部辺りに飛び散った暴人の血に気が付いた真実也は、上着とシャツを脱いで脱衣所に移動した。水を半分ほど入れた洗面器に水面が隠れるほどの氷を浮かべ、血の付着したシャツを浸す。数回生地を氷ごと揉むと、徐々に黒が抜けていくのが分かった。冷たい氷水に手を浸し続けたことで手が赤らんで痛む。しかし真実也は構わず、何かに取り憑かれたようにシャツを擦り続けた。なにか作業をして気を紛らわしていたかったのだ。


「……よし」


 10分ほどすれば、墨色に濁った氷水と引替えにシャツは元通りの白さを取り戻していた。真実也はシャツを絞り、洗濯機に入れる。脱いだ上着に手をかけようとすると、上着の内ポケットからはみ出たハンカチに気が付いた。蛭間から借りている白いシンプルなハンカチを手に取ると、想像以上に血が付着してしまっていたのがわかる。自身の顔を拭いた覚えはないにも関わらず、布には黒いぼんやりとしたシミがいくつかついている。手に取った時に着いてしまったのと、汚れたスーツに擦れてついてしまったのだろう。真実也は洗面器の水を入れ替え、ハンカチを洗うことにした。


  ハンカチの生地を一揉みするたびに、仕事のことばかり思い出してしまう。去り際に放った蛭間の言葉が繰り返される。


『君は、なんのために警察になった?』


冷たさで痛む手に顔をしかめながら、手を休めることなくハンカチを擦る。水に浮かぶ氷のガラゴロという音が、脱衣所に響き渡る。


『君の正義はなんだ』


 ハンカチに染み付いた血が、じんわりと水に溶けて浮いてくる。


「僕は……」


 答えは、すぐ出てくるものだと思っていた。しかし、真実也の手はそこで止まった。そこから先の言葉がどうしても出てこなかったのだ。真実也は目を数回瞬かせ、額から狼狽の汗を一筋流した。時が止まったような感覚を得る。


「……僕は何のために、警察官になったんだ」


 特殊対策班になってから、考えることはなかった。適応することに手一杯だった毎日を繰り返していた真実也は、その間に何か大切なものをどこかに置いてきてしまったような、どうしようもない喪失感を覚えていた。

血を洗い終え、食事とシャワーを適当に済ませた真実也は、ベッドに仰向けに寝そべり天井を眺めていた。視線を机の上に移すと、折り目のついた異動願の紙が置かれている。


「……ダメだ、このままじゃ」


 真実也の体は想像以上に疲弊していた。暴人・佐々木を“解放”したのが数日前のことのように感じる。ボロボロになった体が布団に沈み込み、真実也の意識は徐々に遠のいていった。


* * *


 どこからか、声が聞こえる。


─『知ってるか?非潜伏者は悪魔なんだぜ』


 小学生くらいの子どもの声だ。


─『ちがう!』


 それに反抗するように、一人の少年が一際大きな声で言い返した。霧がかったような視界が鮮明になっていくと、そこには複数人の少年たちと、その反対側に一人の短髪の少年が、対立するように向き合っている。真実也は短髪の少年をどこかで見た事がある気がした。少年グループの一人が、リーダー格であろう少年の背後から顔を出しながら言った。


─『非潜伏者は暴人にならないけど、そのかわり生まれつき凶暴な奴が多いんだって。犯罪者が多いって、父ちゃんも言ってた。“欠損”なんだって、お前』

─『ちがう、そんなのウソだ!』

─『うるさい!』


 短髪の少年がリーダー格の少年に掴みかかろうとするも、自分よりも体格の良い相手に適わず、勢いよく突き飛ばされてしまう。真実也はすぐに制止に入ろうと声を出そうとしたが、声は出ず、傍観しているのに近寄ることが出来なかった。短髪の少年は突き飛ばされた勢いで倒れ込み、ランドセルの中身が地面にばらまかれた。


─『ほら、やっぱり凶暴だ』


 少年グループは声を上げて笑うと、そのうちの一人がランドセルから出た一冊の本を手にした。表紙には敬礼した警察官の写真が印刷されており、『警察官のしごと』というタイトルが、子どもにも分かる振り仮名付きで記されていた。


─『お前警察官になりたいのかよ』

─『返せ!』


 立ち上がった短髪の少年は本を取り戻そうと手を伸ばすが、背の高い少年が本を頭上高く上げたことで、取り返すことが出来ない。リーダー格の少年は顔を歪めて、短髪の少年に言い放った。


─『警察官って人を救う仕事だろ。犯罪者のお前が、なれるわけねぇじゃん』


『だってお前、“欠損”なんだから』


 少年の言葉が頭の中で一際大きく響いた。その瞬間、ノイズの様なものがやかましく視界を遮り、急降下するような浮遊感に包まれ、真実也は苦しさで目を瞑った。嵐のようなノイズの中で、少年の叫び声が聞こえる。


『S地区の家屋で火災が発生。暴人が家屋で暴れ、引火した模様です。なお、家族は全員救出され、無事に保護された模様。暴人は高齢であり、火災に巻き込まれた可能性が高いことから、警察と消防は近隣住民の避難最優先に、現在消火活動に及んでいます』


アナウンサーの明瞭な声が聞こえる。それをかき消すように、また涙の混じった叫び声が響いた。


─ 『やだ、やだ!』

─『お願いだから、言うこと聞いて』

─『おばあちゃん、おばあちゃんを助けないと』


燃えるような熱気と炎のように揺れるノイズ、消防車のサイレンがけたたましく響く。激しく焼ける音と人々の声がごった返し、頭がどうにかなりそうだった。


─『なんで?なんで助けないの?ママ、パパ!』

─『お母さんもう助からないの。火の中から助け出せても、助からないのよ』

─『なんでよ……わかんない、いまなら間に合うよ』


酷く息が苦しい。何者かに腕を引っ張られたかと思いきや、急に立ち止まり、肩を掴まれた。すぐ近くで声がする。今にも泣きそうな声だった。


─『いい? おばあちゃんは、暴人になったの』


『警察がもっと早く来れば』『おばあちゃんは天国に行けたかな?』『お母さんは苦しまずに死ねた』『おばあちゃん、お空にのぼったの?』『こうなるんだったら』

『よしなさい』

『私が一思いに、殺してあげればよかった』


視界に炎が吹き上がり、真実也は目を瞑った。




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