第五十五話 茶の味

「ぬしは――怖くはないのか」

「貴殿が? 天仙てんせんが? この城郭まちが沈むことが? 全部怖いさ。何なら号泣して今すぐにでも岐崔ぎさいに引き帰したいぐらいだ」

「そういう顔には見えんが?」

「そういう顔をして、哀願するべき相手なのかどうかぐらいは俺にもわかる、ということだ」


 「信天翁あほうどり」と価値観を共有出来る。そうすることが最善にして唯一の解決策だ。だから、怖じていても何も始まらない。人は皆、それぞれの世界で生きている。自分と他人。それ以外に万有の境界線はなく、誰しも主観という基準を持っている。

 その主観が告げる。「信天翁」は心の底から忘却と失念を許容しているわけではない。もし、許容しているのならたとえ嘗ての知人とはいえ、子公しこうの文に返事を寄越す理由はないだろう。つまり、そこが文輝ぶんきにとって唯一の勝機だ。


「子公が貴殿を何と言って口説いたのかは知らないが、それでも貴殿は子公を拒絶しなかった。それはつまり――貴殿は心のどこかで望んでいたのではないのか、俺がいつかこの部屋に辿り着く、ということを」

「武官じゃと言うのに随分と口が回るものよ。坊が選ぶあるじらしい」


 そうじゃろう、坊。

 言って「信天翁」が半身を傾ける。そこには正規の手段で入室してきた子公の姿があった。つまり、小休止を挟むことなく三階まで階段を登ってきた、ということを子公は体現している。その細い両肩が大きく上下している様は完全に息が上がっており、彼の得意な舌戦にすら至らない。無様を晒してまで子公は「正規の手段」に拘った。子公は文輝の副官らしく、その勤めを果たそうとしている。


おうな、その馬鹿者は、私のように、簡単には行かん」

「妙なことを言うのじゃな、坊。坊も容易くはなかったとわしは認識しておるが?」

「その、私を、軽く超越する。本物の、馬鹿なのだ」


 美しい結末の為に躊躇しない。自身が傷を負うことに何の抵抗もない。正真正銘本物の馬鹿で、であるがゆえに子公は文輝を信頼している。そんなことを彼は整わない息で熱く語った。


「坊。もうよい。少し黙らぬか」

「媼が、考えを、改めるのなら、黙ろう」

「ぬしらは救いようのない馬鹿どもじゃの」

「何とでも、言うといい。この国を、救うのは、そこの馬鹿の、仕事だと決まっているのだから」

「坊。もう一度言う。もうよい。少し黙らぬか」


 わかった。ぬしらの話を聞こう。言って「信天翁」はまるで彼女の方が酷く傷つけられたように哀しく笑った。その笑みを見た文輝には二つのことが伝わる。「信天翁」が文輝たちの存在を容れたことと、彼女の信念に文輝には計り知れないような酷い傷が付いたということの二つだ。

 あの日。あの夜。華軍かぐんの胸を直刀ちょくとうで刺し貫いたときに近い痛みが文輝の胸中に浮かぶ。自らの正しさを主張したくて、貫き通したくて別の誰かを傷付けた。あのときから文輝は何も変わっていないことを知って、その罪悪に膝をついてしまいたくなって、それでも文輝は顔を下げなかった。人の姿をした華軍が子公の後ろから現れて「小戴しょうたい。お前も少し落ち着いたらどうだ」と言う。いつかの古傷に塩を塗り込まれたように胸が酷く痛んだが、文輝の選んだ道を引き帰したいとまではまだ思わなかった。そうですね、と他人ごとのように上の空で応えて文輝は今度はどこで道を間違えたのか、何度も何度でも来た道を反芻する。そこに正解はないし、分岐点を見つけても帰ることは出来ないのにどうしてもその無駄な思索を止めることが出来なかった。


「それで? 小戴殿はわしに何をさせたい」

「――二十四白にじゅうしはくの居場所を知っているのなら教えてほしい」

「隠しても、ぬしはいつか暴き立ててしまうという顔をしておるな。よい。答えそのものは教えられんが、糸口は教えよう。ぬしらはもうあれと出会っておる」

「――えっ?」

白瑛びゃくえいのことではないぞ、媼」

白喜はくきの方だ、と言いたいのじゃろ? それでも答えは変わらぬよ。ぬしらはもう白喜と出会っておる」


 それ以上のことは頑として口を割らない。そんな意固地さを滲ませて「信天翁」は客間に座った文輝たちの前に黒茶こくちゃの入った杯を置いた。文輝の知っている茶だ。湯気を立ち昇らせる温度の馴染んだ黒茶の出現に文輝の胸の奥の傷は束の間痛みと別離する。香りを確かめるように杯を近づけて湯気を手で扇いだ。西白国さいはくこくにおいて最高級品である海藍州はいらんしゅうの茶葉だとわかる。多分春詰みの一番茶だ。

 海藍州に行ったことがあるわけではない。長兄が長く赴任しているから、時折土産として持ち帰ってくるのを飲むだけだ。煎れ方も何も知らない。

 ただ、それだけのことなのに文輝は知ってしまった。


「貴殿はこの城郭まちの生まれではないのだな」

「ほう? その根拠を聞かせてもらいたいものじゃな」

「海藍州の黒茶を煎れられるのは海藍州のものだけだ、と大兄上あにうえが仰っていた」

「海藍州出身のものから技術を盗んだのかもしれんじゃろう」

「いや、それはない。大兄上は海藍州の下女を伴って帰省された。茶を煎れる場面を見せるのも頑なに拒まれたし、その下女が別の下女に技術を教えることもなかった」


 そうすることで海藍州の味を保つ。敷居を上げれば上げる程、需要と供給は乖離する。もともと少ない供給を更に減らすことで海藍州の黒茶は価値を保ってきた。つまり、この黒茶を煎れられる「信天翁」はかつて海藍州で育ち、何らかの事情によって沢陽口たくようこうの城郭に流れてきて、そうして別の何らかの事情によって白喜を庇おうとしている。

 流民の生まれである華軍にも、この国の生まれでない子公にもこの事実は理解されない。

 そのことを「信天翁」が理解していない筈がない。

 つまり、「信天翁」は文輝に何かを伝えようとしている。子公が本物の馬鹿と称し、許容を強要した文輝に何かを伝える為に彼女は黒茶を出したと考える他なかった。


「俺たちは既に白喜に出会っている、と貴殿は言った」

「そうじゃ。それだけしかわしはぬしらに教えることがない」

「茶を。飲んでもいいだろうか」

「そうじゃの。ぜひともそうしておくれ。わしはぬしらに飲ませる為に久しぶりに煎れたのでな」


 少し味が悪いかもしれんが許しておくれ。

 言われて、瑞々しい香りの黒茶を口に含む。

 黒茶と言われなければわからないほどの色の薄さ。若々しい緑の風味。そして華やぎのある後味。その向こうに文輝は長兄の言葉を思い出した。

 海藍州の春詰みの一番茶。それが飲めるのがどれだけ高位の身分であるか。その茶畑を育てているのが――神に仕えるごく限られた一族のものであるということを、長兄は文輝に確かに教えた。そのことを思い出して文輝はまだ認識の外にいる白喜が何であるかを少しずつ理解し始めていた。


「『信天翁』殿。よい茶だった」

「文輝――?」


 黒茶を飲み終えて杯を置く。文輝が成すべきことは何となくわかったが、おそらく、一人で解決しなければならない問題なのだろうと察する。隣に座った子公が文輝の変化に気付いて戸惑いの声を上げた。

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